第651話 ステファノを呼んでくれ……。
食材に異常はなかった。エリカは料理人の妻である。食中毒に対する備えには人一倍注意を払っていた。
では、何が原因で食あたりを起こしたのか? 4人が同時に同じ症状を起こしている。食中毒以外の原因は考えられなかった。
「水だ」
一家を訪れた医者が言った。
「水瓶の水が原因だ。――この水はいつくんだものだ?」
「……昨日の朝です」
つまり食中毒があったその日の朝に井戸からくんできたものだ。ほかに被害が出ていない以上、井戸そのものが汚染されていたとは考えられない。
そうかといって、たった1日でくみ置きの水が腐るはずがない。
「何かが入れられたものか?」
「待て。誰かが毒を入れたというのか?」
街の衛兵が医者の言葉を聞きとがめた。
「そ、そんな馬鹿な……。なんで親父の家の水瓶に毒なんて……」
ベッドに寝かされたままのルドが喘ぎながら言った。
「理由はわからん。店の客に中毒者は出ておらんからな。家の水瓶を狙うちゅうことはバンス1人に毒を飲ませようとしたっちゅうことだ」
小さな町のことで、医者はバンスと知り合いだった。
「ああっ! 俺は……親父に水を飲ませて」
横になったままルドは体を硬直させて叫んだ。
「何っ? 貴様、バンスに毒入りの水を飲ませたのか?」
衛兵が目をぎらつかせた。すぐに医者がその肩を押さえる。
「落ちつきなされ。こいつ
医者が言う通り、ルドは半死半生の有り様でベッドに横たわっている。バンスを殺そうとしたのであれば、これほどの危険を冒すとは思えなかった。
無理心中を図るような事情は一切なかったのだ。
「エリカは、テラは無事ですか?」
自分が父親殺しを疑われたことになど気づかず、ルドは妻子の安否を気づかった。隣家に助けを求めたところでルドの記憶は途絶えている。
「教えてください! 2人は無事ですか?」
「……」
医者と衛兵は無言で顔を見合わせた。先に目をそらせたのは衛兵の方だった。
「エリカとテラは……!」
「落ちついて聞きなさい」
医者の声は低く、静かだった。何度も人の死を看取って来た人間の声だ。
「先生……」
「残念じゃが奥さんと娘さんは明け方に亡くなった」
「ううっ……」
「お前の父親、バンスは夜の内に息を引き取った。生き残ったのはお前だけじゃ」
「あああっ!」
叫びながら飛び起きようとしたが、医者が胸の上に手を置いただけでルドは身動きひとつ取れなかった。
「落ちつけ。無理をすればお前まで命をなくすぞ! お前が死んだら誰が家族を弔ってやれるのか?」
医者は淡々と事実を告げた。慰めや励ましは医者の仕事ではない。目の前の命を守ること。それだけが彼の務めだった。
「誰か呼んでほしい人間がいるかね? どこに知らせを出せばいい?」
弱った人間に寄り添うのは家族の役割だ。頼れる家族がいるなら今こそ側にいてもらうべきだろう。
「弟……。ネルソン商会にいる弟を」
「ネルソン商会か。弟の名は?」
「ステファノ。ステファノを呼んでくれ……」
閉じたルドの両眼から大粒の涙が糸を引いた。
◆◆◆
バンス家の悲報はネルソン商会からウニベルシタスにもたらされた。
サン・クラーレから
「……むごいことを」
バンスを含む3人が毒のために命を失い、ルドが重篤に陥ったことを聞くと、ネルソンは瞼を閉じて絶句した。
(やはりステファノへの狙いがあってのことだろうな。だが、なぜバンスを殺そうとする?)
ステファノを精神的に追いつめて
ネルソンがどう想像を働かせても、ステファノがそれ程の恨みを人から買うとは思えなかった。
(ステファノをおびき出すためか?)
しかし、それだけのために殺人を犯すのは大げさ過ぎる。
その一方、殺人そのものが目的と考えると、手口が周到過ぎた。
(料理人のバンスが気づかずに毒を食らっている。簡単に手に入るような毒ではない)
犯人は殺しを専門とする人間ではないか。
ならば、やはり陰謀を疑うべきであった。
「ステファノを呼んでくれ。ヨシズミにも声をかけるように」
父親の死を知らされたステファノの暴走が怖い。これが陰謀の一端であれば、ステファノの身にも危険が迫るかもしれなかった。
いざという時にステファノを抑え、敵の攻撃から守るにはヨシズミが最も適任だと、ネルソンは判断した。
(ヨシズミならステファノと並んで滑空術が使える)
判断力と戦闘力だけを見ればマルチェルも適任であったが、サン・クラーレまで飛んでいくには魔法師としての技量が足りなかった。
「学長、お呼びですか?」
先に現れたのはヨシズミだった。
「ステファノの家族に大変なことが起きた」
ステファノに知らせることを考えれば二度手間になるのだが、ネルソンはあえて事の顛末をヨシズミに伝えた。ヨシズミには事件のことを先に知らせて、ステファノを支えてもらった方が良い。
「父親と兄嫁、小さい姪まで……」
話を聞いて、さしものヨシズミも続ける言葉がなかった。
命が軽いこの世界であっても、突然身内が3人も命を奪われることは滅多にない。
「ステファノです。お呼びでしょうか?」
戸口を潜るステファノの姿を見ながら、ネルソンは重い塊を意識して飲み込まなければならなかった。
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