第585話 ――ちょっと走ってくる。

 ドリーはネルソンたちから聞いたルネッサンスの構想について語った。

 それはクリードの常識を根底から覆すものだった。


「魔術師、いや魔法師か? 魔法師と魔道具を世の中にあふれさせるだと? 一体どんな世の中になるんだ?」


 クリードはかたき討ちだけを考えて生きてきた。その狭まった視野ではメシヤ流が企てるルネッサンスの全貌を把握できない。

 狭い小屋に閉じこもっていたある日、ドアを開けて表を見ればそこに大渓谷が広がっていったような心持だ。


「話が大き過ぎてついていけん。ステファノはそんな計画に関わっているのか……」

「関わるどころか――ステファノこそがルネッサンスの中心と言うべきだろうな」

「あいつがそんな立場に……」


 何一つ欲などなさそうな少年が世界を動かそうとしている。それに引き換え自分は復讐という欲に飲み込まれて生きた挙句、その欲にさえ裏切られてここにいる。

 すべてを失って酒に逃れようとしている。


「何もかも失った。――いや、そうではないか。俺には初めから何もなかった」


 9年前にヤンコビッチ兄弟の手によって家族を奪われた時に、自分はすべてを失った。そして、それ以降は何を得ることもなかったのだ。


「何も得ようとしなかった」


 クリードは手の中のグラスをゆっくりとテーブルに置いた。


「亭主、水をくれ」

「どうした、クリード。もう終わりか?」


 ドリーはグラスを口に運ぶ手を止めて、クリードを訝しげに見た。


「終わり? 俺はとっくに終わっていた。ステファノのおかげで終わりを終わりにする踏ん切りがついた」


 居酒屋の亭主が運んできた水差しにクリードは口をつけてがぶ飲みした。腹の中の酒と、くだらない欲と、自己憐憫の塊を押し流そうとでもいうように。

 肩で息をつき、口から水があふれるまで、クリードは水差しを傾け続けた。


「ガフッ、ごふっ! ぐはっ、ああ――」

「大丈夫か、クリード?」

「――だ、大丈夫、だとも。はあ、はあ……」

「おい! どこへ行く?」


 荒い息をしながら立ち上がったクリードを見て、ドリーは声をかけた。


「世話になったな、ドリー。――ちょっと走ってくる」

「何だって?」


 そう言うと、クリードはよろめく足取りで居酒屋を出て行った。


「おい、クリード! ――亭主、代金は置いていくぞ! クリード!」

 

 ドリーが表に出ると、クリードは既に通りを走り出していた。その足取りは町の出口へと向かっていた。


「街を出て走り込むつもりか? 少しは体を休めたら良いだろうに。まったく、要領の悪い男だ」


 汗と酒の臭いをまき散らし、道行く人の顔をしかめさせながらクリードはよろよろと走っていく。

 その後ろ姿は無様でみすぼらしかったが、ドリーの顔は自然とほほ笑んだ。


「あの頃。腕が上がらなくなるほど剣を振った後、それでも足らんと言って走り出したなぁ。いくつになっても不器用な奴め」


 ドリーは王国一の剣士を志す少年の背中を、人ごみの中に見つけた気がした。


 ◆◆◆


「それで、クリードさんを追いかけなかったんですか?」


 翌日、ウニベルシタスに戻ったドリーにステファノが尋ねた。


「1人にさせてやるのが、やさしさというものだろう」

「そうでしょうか。よくわかりません」

「お前、それでは女にもてんぞ?」


 ドリーにそう言われても、ステファノには通じなかった。


「放っておいて大丈夫でしょうか?」

「心配するな。憑き物は落ちたはずだ。クリード本来の姿に戻っただけさ」

「本来の姿ですか?」


 そう言われても昔のクリードを知らないステファノには、何のことかわからなかった。


「あだ討ちの妄執から解放されて、ただの剣術馬鹿に戻ったのだ」

「それはいいこと……なんですね?」

「くだらないことをうじうじ考えるより、何も考えずに剣を振った方がましさ。あいつはそういう男だ」

「それならいいんですが」


(過去を捨てたのなら、ドリーさんとも気兼ねなく行動を共にできるんじゃないのかな)


 どうやらそうもいかないらしい。大人とは面倒くさいものだと、ステファノは思った。


「どうせならクリードさんもウニベルシタスで剣術教官を務めてくれたらいいのに」

「実力的にはわたしより適任だがな。今のクリードでは初心者の相手はできないだろう」

「どうしてですか?」


 真っ直ぐ問い返すステファノに、ドリーは困った顔をした。


「あいつが9年間磨いてきたのは剣術ではない。殺人術だ。初心者を教えるには血なまぐさすぎる」


『俺の手は血にまみれている』


 馬車旅を共にしたクリードは、かつてそう言った。犯罪者、賞金首とはいえ数多くの人間をその手にかけた。

 戦場での行動ではない。


 自ら進んで人を斬った。


 その事実はクリードの心につきまとい、目に見えぬ染みとなっている。トゥーリオ・ヤンコビッチを確実に殺すにはどうすればよいか。それだけを日々考え、そのために剣を振った。

 そんな剣がまともなものであるはずがなかった。


「殺人を日常としてきた経験は消えぬが、せめて鍵をかけてしまっておける小箱を持たなくてはな。正しい剣を見つめ直すことが、奴にとって鍵と小箱を探す道になるだろう」

「時間がかかることなんですね」


 自分とは背負っている荷物の重さがまるで違うかもしれない。だが、人の命を奪ってしまったステファノには、クリードの気持ちの一部がわかる気がした。


「それを1人で乗り越えなければいけないんですか。『もう大丈夫だ』と言ってくれる人もなしに」


 それはあまりにも寂しく、つらいことではないか。

 ステファノの胸の奥が押しつぶされるように痛んだ。

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