第562話 ありません。ドリーさんが初めてです。

「待たせたな、ステファノ」


 1時間後、アカデミーの正門にドリーの姿があった。「正門で待て」とステファノに伝えてから、しばらく時がたっている。

 地面に腰を下ろして休んでいたステファノが、尻をはたいて立ち上がった。


「退職手続きは済ませた。それじゃあ行こうか」

「行こうかって、サポリにですか?」

「それ以外にどこへ行く? まずは馬車を捕まえるか」


 とんとんと話を進めるドリーに、ステファノは押され気味だった。ウニベルシタス合流に反対はしないだろうと思っていたが、ドリーがこれほど前のめりになるとは予想していなかった。

 ウニベルシタスでヨシズミから魔法を学ぶことは、半年以上前からドリーの中では方針として決まっていたのだ。


 たまたまそれが今日になった。ならば何を迷うことがある、というのがドリーの考え方だった。


「馬車は必要ありません。とりあえず街を出ましょう」


 ステファノはそう言いながら、ドリーの背中に目をやった。

 そこにはまとめた荷物を突っ込んだ背嚢と、それに縛りつけた剣と盾が見える。


 それが引っ越し荷物のすべてなのだろう。物にこだわらないドリーらしい潔さだった。


「その恰好なら大丈夫でしょう」


 ステファノは一人で頷き、先に立って歩き始めた。


「その魔耳話器まじわきはスールーのデザインで作らせた最新型なんですよ」

「随分小さいな」


 耳全体を覆うタイプやカチューシャ型などの試作品を作ったが、どれもスールーの好みに合わなかった。「鉄粉に魔法付与できるなら、豆粒サイズでも良いじゃないか」と言い張り、耳の縁にはめる銀細工に落ち着いた。


「これなら耳飾りと言ってもおかしくないな」

「そうなんですよ。そうじゃないと、いちいち人に会う度に説明するのが面倒くさいと言われて」

「まるで隣にいるように会話ができた。話には聞いていたが、実際に使ってみるとすごいものだな」

「便利ですよ。そうそう、街を出たらスールーに遠話を入れておきます」


 そうこうしているうちに2人はまじタウンの境界に差し掛かり、立ち止まることもなく街を出た。


「あいさつ回りしなくて良かったんですか?」

「義理を通さなければいけないような知り合いはない」

「ガル老師は?」

「わたしのことなどに興味はないさ。一介の中級魔術師だからな」


 街の見納めに振り返りさえしないドリーだった。


「この辺で街道を外れましょう」


 人の目がないことを確認し、ステファノは木立にドリーを導いた。


「ここでよしと。サポリまで飛んで・・・いきますんで、後ろから俺につかまってください」


 そう言うと、ステファノは背嚢を体の前にして担ぎ直し、懐から紐を取り出した。


「この紐を腰に回して、俺と離れないように縛りつけて。そうだ。スールーを呼び出そう。」


 ステファノがドリーをおんぶするような位置関係だが、ドリーの方が長身だ。妙な形であった。


「縛れというなら縛るが――こんなことで2人一緒に飛べるのか?」


 ステファノの滑空術については知っている。ジュリアーノ殿下の前で実際に披露したと聞いた。

 本人ではないが、従魔のいかずち丸が飛ぶところは散々見せられた。


 しかし、それは1人での話だ。あるいは1匹か。


 大人2人を紐でつないで、空を飛べるものだろうか?


「ああ、スールー? 今からドリーさんとサポリに向かうよ。うん、わかった。じゃあまた、夕方に」


 買い物に行くような気軽さで、ステファノはスールーと遠話を終えた。


「一応聞いておくが、お前誰かと一緒に飛んだことがあるのか?」

「ありません。ドリーさんが初めてです。ああ、重さのことが心配ですか?」

「うん。それはまあ、そうだが……」

「土魔法で重さを消すので、ドリーさんの分が増えても問題ありませんよ」


 そのために体同士をつないで、「ひとかたまり」として取り扱う。

 質量が増えるので慣性が増え、空気抵抗も大きくなってしまうが、そこは調整できるはずだ。


「真っ直ぐ飛ぶだけなら難しくないはずです」

「『はずです』って、お前。練習もなしにいきなり……」

「それじゃ行きます! 火遁、陽炎かげろうの術! 火生土かしょうど! 土遁、天狗高跳びの術!」

「うわわっ……!」


 ドリーに聞かせるため、ステファノはわざとはっきり術の宣言を為した。

 2人は間欠泉のように、勢いよく空へと飛び出した。


「ああ~っ! お前っ、もう少しゆっくり……」

「ゆっくり上がるのは難しいんですよ。速度や方向が定まらずに、酔いますよ?」

「ああ、高いっ! ステファノ―……っ!」

「ドリーさん、力が強いですって! 腕の力を抜いてください! く、苦しい……」


 ドリーはステファノの背中から腹に腕を回している。急上昇の恐怖のため、思わずその両腕に力が籠っていた。

 ただの「女の子」ではない。ドリーはひとかどの剣士であった。鍛え抜いた二の腕がステファノの腹を絞めつける。


「ううっ! 木剋土もくこくど、ムササビの術!」


 ステファノは苦しみながらも滑空術を行使した。イドで見えない翼を生み出しながら、引力と風を操る。

 普段なら風を受ける翼を生み出すだけで良いところを、ステファノは腹の周りにもイドを厚くまとってドリーの怪力から体を守った。


「ふうーっ。びっくりした。ドリーさん、もう大丈夫ですよ。滑空を始めましたから」

「な、何だと? うわ、高いっ! 落ちるっ!」

「落ちついてください。落ちませんから。地面と平行に飛んでいるだけですよ」


 ポンポンと固く握りしめた手を叩かれて、ようやくドリーは地上を見下ろす余裕ができた。


 眼下には街道がまっすぐ伸びていた。前を走っているはずの馬車があっという間に近づき、後ろへと去っていく。


「馬車がまるで止まっているようだ――」

「夕方にはサポリにつきますよ」

「サポリとまじタウンとの往復を日帰りだと……?」


 ようやく眼下に広がるパノラマを脳が受け入れると、その壮大さにドリーは圧倒された。


「これが滑空術か」

魔核マジコア錬成を磨けば、ドリーさんにもできますよ」


(これは――世界の王たる術ではないか)


 ドリーは腕の中の小柄な少年が、見知らぬ存在になったかのような気がした。

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