第410話 それこそが指し示す真理であり、究極の知恵であった。

 マルチェルは馬車に揺られていた。


 ギルモア侯爵より家伝の短剣を受け取り、それを護っての帰路である。

 獅子の紋章を掲げた馬車を襲う間抜けな盗賊はいない。マルチェルは目を閉じて馬車の揺れに身を任せていた。


(色即是空、空即是色……)


 目の前にある事物は現実でありながら架空のものとも言える。イデア界に実体はなく、概念そのものしか存在しない。

 しかし、両者は2つにして1つ。相反するものではなく、コインの両面であった。


(2つの面を持つコインが意子イドンということか。2つの面が1つのものの裏表であるならば、裏を見る必要もないのか?)


 表裏は一体。同じものを別の面から見ているに過ぎない。


(色即是空、空即是色)


 2つを分ける必要はない。「そうあるもの」として受け入れよ。

 尊師はそう教えたのではなかったか。


「御師!」


般若波羅蜜多呪はんにゃはらみったしゅ


 それこそが世界をあるがままに捉え、受け入れるための「真言」であった。


羯諦ぎゃてい羯諦ぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい 菩提薩婆訶ぼじそわか――」


 真言は真理を示すのみで、それ自体に特別な力はない。

「色即是空、空即是色」。それこそが指し示す真理であり、究極の知恵であった。


 マルチェルは第三の眼を開き、自分自身を見下ろした。

 そこには肉の実体があり、それに重なってイドが存在する。「しき」と「くう」の同時存在。


 それは意子イドンというコインの両面であった。肉体を動かすのも、イドを動かすのも等しく「意志」である。

 肉体だけが動くことはなく、イドだけが動くこともない。


(わたしの意志が赴くところ、肉体があり、イドがある。それだけのこと。それで良い)


 マルチェルは全き心の平穏の中で、亡き師に感謝を捧げた。


 ◆◆◆


「こちらがギルモア家所蔵のアーティファクト『玄武げんぶの守り』でございます」


 テーブルの上には30センチほどの細長い木箱が置かれている。


「拝見しましょう」


 マルチェルの口上に応えたのは王立アカデミー学長リリー・ミルトンであった。その横には魔術学科長マリアンヌの姿がある。

 テーブルの手前には中央にマルチェル、右隣にドイル、左にステファノという並びであった。


 リリーの求めに応じてマルチェルは白手袋をはめた手で、うやうやしく白木の箱の蓋を外した。古い木箱は薄茶色に変色しており、表面には何一つ文字や飾りがない。


「どうぞ手に取ってお確かめください」


 箱に収まっていたのは古風な短剣一振り。実戦の役には立ちそうもない儀式用の護り刀と見えた。


「マリアンヌ、見せて頂戴」

 

 貴族らしく鷹揚なリリーの指示を受け、マリアンヌは厚手の布を広げた上に短剣を取り出しておいた。彼女の手にも白手袋がされている。


「古い物ですね。由来などは伝わっていますか?」


 ヒルトブリム、そしてシース。いずれも当世風の流行りとは異なり、時代を感じさせる意匠が施されていた。


「伝書などは残っておりません。代々の口伝えにて王国初期のものということと、もう1つ――」


 目を伏せながらマルチェルは語尾を引いた。


「何と伝わっていますか?」

「持ち主を護る、と」


 やり取りの間、マリアンヌは短剣を手に持って裏を返し、あるいは向きを変えてこじり柄頭つかがしらをリリーに示した。


「刀身を改めます。マリアンヌ」

「失礼します。砕けるべし、返し波!」


 マリアンヌは腰のベルトから短杖ワンドを取り出し、リリー学長に向けて一振りした。

 学長の周りで空気がふわりと膨れ上がる。


 襲い来る物体をはねのける土魔術であった。「帯剣禁止」の学内において、短剣の鞘を払うにあたっての用心である。


 そうしておいてマリアンヌは改めて短剣を取り上げ、目の高さに捧げた後、鞘を払った。

 右手で柄元、左手で刀身を支えてリリーの検分を待つ。


こしらえに加えて鍛え、造りも古式ゆかしきもの。片刃の軽い反り、何よりも波のような刃紋が特徴的ですね」


 手入れの行き届いた刀身は白々と光を跳ね返して、曇りひとつなかった。


「結構です。収めてください」


 マリアンヌは目礼すると、刀身を鞘に納め、元の箱に戻した。


「私は刀剣の目利きではありませんが、見事な一振りであると感嘆しました。ジュリアーノ殿下へのお祝いにふさわしいものと言えましょう」

「ありがとうございます。改めまして、魔道具としての鑑定をお願いいたします」


 マルチェルは木箱の蓋を戻して箱ごとリリーの方に押し動かした。


「鑑定の趣旨、侯爵閣下の書簡にて承っております。ここにおりますマリアンヌが中心となり、数日中には魔道具としての効果をまとめさせましょう。よろしいですね、マリアンヌ?」

「結構です。『玄武の守り』と言うからには防御の魔術が籠められているものと思います。しかし、ジュリアーノ殿下は魔術師ではございません。魔道具としては使いこなせないかと……」


 かすかに眉を寄せたマリアンヌに、マルチェルはにこりと微笑んで見せた。


「ご心配には及びません。伝えられるところによれば、『玄武の守り』は使い手を選ばず。魔力なき主をも災いから守ると」

「何? それはまさにアーティファクト! 失礼。そこまでのものと思っておりませんでした」


 マリアンヌは予想を超えるマルチェルの言葉に驚きを隠せなかった。


「続きがございます」


 言葉を荒くしかけたマリアンヌを気にも留めず、マルチェルは静かに告げた。


「続き? アーティファクトに関する伝承に続きがあると言うのですか?」


 リリーは上品に小首をかしげた。


「守りは刀刃除けのみにあらず。いかなる魔術もこれを退けると」

「馬鹿な! そんな魔道具があってたまるか!」


 黙っていられず、マリアンヌは思わず唾を飛ばす勢いで大声を発した。


「静かに。魔術除けの魔道具とは珍しい物ですか?」

「し、失礼しました。ですが……いや、非常に珍しい物です。火除けの魔具、水除けの魔具など数えるほどのアーティファクトしか知られておりません」


 マリアンヌは顔を赤くして、語気を抑えようとした。それでも不信の響きを言葉から拭い去ることはできなかった。

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