第385話 人は生まれよりも育ちだ。

「私自身の願いを天秤の片方に載せ、それに見合う現実を探し求めるべきだったのだ」

「発想の、というよりも視点の転換でしょうか」


 マルチェルはネルソンの意図を理解し始めていた。


「目標や願望を立てることは誰でもやっているようでいて、すべての行動をそのために測り、整えられる者はまれでしょう」

「それをやってのけている者が身近にいたのだ」


 2人はステファノを振り向いた。


「へっ? 俺ですか?」

「お前の願望は魔術師になることであったな」

「あ、はい。そのために家を出ました」

「そして我々と出会い、能力を示して王立アカデミーで学ぶまで己の道を切り拓いた」


 わずか半年の間にその目標を成し遂げようとしているステファノであった。


「魔術師になることだけが目標なら、すでにそれは成し遂げたと言える。それでもお前は自分の道を突き進み続けている」


 ネルソンの言う通りであった。ステファノの願望は既に魔術師になることではない。


「『誰もが美味いものを食べられる世界』。お前はそれを求めるのだったな」

「それが俺の目標です。俺はやっぱり飯屋のせがれなんでしょう。人の胃袋のことが気になるんです」

「人は生まれよりも育ちだ。お前の願いがお前の育ちを反映しているのは当たり前のことだ。育ちの違いを除けば、お前の願いと私の願いは同じものと言える」


「誰もが美味いものを食べられる世界」

「誰もが願いを口にすることができる世界」


 違う世界を述べているように見えて、2つの世界は同じものとも言える。見る角度が違えば同じものでも違う形に見えることがあるのだ。


「私は今まで自分ができることで世の中を変えようと努めてきた」

「それが抗菌剤の開発であり、数々の薬品の製法改良であったわけですね」


 自分ができることを行う。努力の仕方として当たり前のことである。ネルソンも自分のやり方に疑問はなかった。


「私はやれることをやっている。最大限の努力をしている。そう信じていた。レイチェル王女の御霊みたまとの約束を私は果たしていると」

「その通りだと思いますが……」

「そうではなかった」

「旦那様……」


 誰にも責めることができないほどネルソンは己を犠牲にして医術の発展に尽力してきた。それは常にそばにいたマルチェルが、誰よりもよく知っている。


「旦那様は自分の生活を犠牲にしてあれほどの貢献をなされたではありませんか」

「ありがとう、マルチェル。お前の言葉には励まされるが、そうではないのだ。私は知らず知らずの内に『自分ができること』という枠を自分の周りに設けていた」

「それはいけないことでしょうか?」

「悪くはないさ。悪いと言ってしまったら、私はこれまでの自分の人生を否定することになる」


 ネルソンは自分を責めているのではなかった。


「しかし、他にできることがあったのかもしれない」

「それは――」

「うん。言い出したらきりがない。終わった後では何とでも言えるからな。だが、これから・・・・は違う」


 自分とステファノの違いは何か? それは育ちではない。


「ステファノにはかせがない。これはできない、あれは無理だという思い込みがない」

「それは俺が田舎者で物を知らないだけで」

「そうかもしれん。だが、それだけではない。お前の姿勢そのものが可能性を現実に変えてきたのだ」


 太陰鏡たいいんきょうの照射を受けた幻視の中で、ネルソンはその事実を確信した。


「私が見たビジョンは誰に与えられたものでもない。私の無意識が見せたものだ。つまり、私自身が自分に足りないものを自覚していたのだ」


 ネルソンは憑き物が落ちたようにさばさばとしていた。


「今日この時から私も飯屋流の門弟だ。世界を測りにかけて最善手を探すことにした」


 最適化問題において解を求めるアルゴリズムはもちろん重要である。しかし、同じように大切なのはアルゴリズムが求めるべき解、すなわち「目標」を正しく定義することである。

 目標が適切に定義されていなければ、どれほど優れたアルゴリズムでも正しい解を導き出すことはない。


 これまでネルソンは「改善」を目標に最善を尽くしてきた。いつか誓いを果たす日が来ると信じて。

 だが、そのアプローチでは永遠に目的地に届かない袋小路に入り込む可能性があった。


 目標があるならはじめからそれを最適化問題のゴールにすれば良い。

 そう言うのは簡単である。

 しかし、あまりにもゴールが遠すぎる時、人は次善の策として手近な目標をゴールに定める。


「目標に一歩でも近づけば良いではないか」と。


 それが悪いということではない。少しの改善であっても「ないよりはマシ」である。


 しかし――。


「そのやり方ではいつゴールにたどりつけるかわからないのだ。だが、それしかできなかった」


 選択肢がないがゆえにネルソンは自分を誤魔化していた。これで良いのだ。これが最善手だと。


「だが、もうやめだ。自分で限界を決める必要はない。ステファノが作った太陰鏡はギフトの限界を破ってくれる。それよりも大きなことは、『ないものは作れば良い』というステファノの姿勢だ」


 できないと諦めたらそこで終わりだ。だめなら違う方法を考える。

 何も持たないからこそ、ステファノは誰よりも自由で大胆であった。


「そして、しつこい」

「えっ?」

「飯屋流最大の特徴は、そのしつこさだな」


 ネルソンの指摘はドリーに何度も言われたことであった。


「仕方がないだろう。何しろシンボルが蛇だからな」


 ドイルの一言に一同は破顔した。

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