第277話 貴族出身生徒に商売の何たるかはわからない。

 金曜日の午後、3限目は「商業簿記入門」である。この日はチャレンジ・テーマの論文を回収し、講師のセルゲイは食料品商店を例にして、事業経営と簿記との関係をわかりやすく紹介した。


 簿記とはルールの塊である。どうしても味気なく、暗記ばかりの内容になりがちであった。

 それを現実的な商店経営を例に取ることによって、セルゲイは興味を引く内容に仕上げていた。


 例にした「食料品商店」という選択も上手いとステファノは思った。


 食料品であれば誰もが馴染みがある。商店であれば「品物を仕入れて売る」という単純な事業形態として紹介できる。

 現実の商売はそれほど単純でない。仕入れ販売以外にも業務はたくさんあり、資金が動くが、そこは問題ではない。基本的な・・・・取引の簿記的表現を知れば十分なのだ。


 この科目では平民出身生徒が圧倒的に有利であった。貴族出身生徒に商売の何たるかはわからない。

 人によっては「金を使ったことがない」という生徒も存在するのだ。


 そこはセルゲイもわきまえている。ステファノから見るといささかくどいほどに、仕入れと販売について語り、買掛かいがけ売掛うりかけについて説明していた。

 当たり前すぎて馬鹿々々しいのだが、売った金額が全額儲けになるわけではないということも、きちんと説明しなければ先に進めない。


 「金を払う」という感覚がない人間には、「仕入原価」という概念は極めて理解しがたいものであった。


 特に「掛買かけがい」の場合品物だけ受け取って、まだ支払いはしていない。それを「原価」と捉えることが貴族の感覚に馴染まないのだ。

 嘘のような話だが、この違和感が払しょくできないために簿記の授業を放棄する生徒が毎年存在した。


 それほどにお貴族様の世界は、平民の世界、とりわけ庶民の世界とはかけ離れている。


(お貴族様も大変なんだな。好きで世間を知らずに育ったわけじゃない。それでも簿記を勉強しようとするなんて、立派な心掛けじゃないか?)


 チャレンジ・テーマに関しても、平民2名はチャレンジを見送った。お貴族様の中から2名の挑戦者がステファノと共に論文を提出したのだった。


 合否の連絡は一両日中に寮に届くということだった。


 ステファノは合否にかかわらず、この講義を受け続ける決断をしていた。飯屋の商売に戻ろうというわけではないが、これから先生きていくためには何かの商売で食べて行かなければならない。

 その時に簿記は役立ってくれるはずであった。


(情革研だってコスト計算ができなければ、説得力のある論文はかけない。今のメンバーでそれができそうなのはスールーさんだけかな?)


 トーマは問題外であり、サントスも面倒くさがりそうである。自分がスールーをサポートすべきだろうと、ステファノは感じていた。


 ◆◆◆


「しかし、会の開催場所を再考しなければいけないね」


 全員が顔を合わせるなり、スールーは顔をしかめた。

 情革研の会合である。


 サントスの部屋に4人が集まったのだが、窮屈とは言わないまでも手狭感があった。


「ここには研究中の物が保管されているので都合が良いんですけどね。どこかに研究室が借りられませんかね?」


 ステファノは勝手な希望を言ってみる。無茶な話に聞こえるが、ステファノはスールーの行動力を高く評価していた。もしかしたら、彼女なら何とかするのではないかと。


「確かにな。これまでは僕とサントスの2人きりだったから、この部屋でも広すぎたくらいだった。今では倍の4人だからね。倉庫の件で動いているが、研究室も追加して探すことにしよう」

「と言うか、倉庫の一角を作業場に改造させてもらえばいいんじゃないのか?」


 トーマが言った。この2人は実家が金持ちだけに、物に動じない。いくらかかるかなど気にしていないのだろう。


「そうできるならありがたい。物が増えて、置き場所に困っていた」


 今更のようにサントスが本音を漏らした。


「そうだったか。わかった。何とかしよう」


 不思議とスールーがそう言うと説得力がある。本当に何とかなりそうな気がしてきた。


「当ては一応あるのさ。昔誰かが実験室を作ったらしくて、物置になったまま使われていない平屋がある。そこを改装して使えないか、申し入れているところだ」


 何でも建てたのは20年以上前の話だそうで、相当老朽化しているらしい。そのせいで使い手がなくなった廃屋だと言う。


「手直しっていうのは、俺たちでやるのか?」


 面倒の匂いを嗅ぎつけたトーマがスールーに尋ねた。


「さすがに無理だろう。業者を頼むさ。自分たちの物を運び込んだり、並べたりくらいは人手を借りずに済ませたいがね」


 スールーは改造作業自体は人を頼んで済ませるつもりだった。トーマはほっと胸をなでおろした。


「わかった。交渉はスールーに任せる」


 サントスはあっさりと納得した。スールーがまとめられない交渉事なら、最初から縁がなかったと諦められる。それくらいは彼女のことを信頼していた。


「さて、それじゃあ研究成果を報告してもらおうか? サントス、君は何かあるかね?」

「感光紙の件。灰汁あく処理、ワニス処理の効果を試している」


 実家から送られて来た「ヤエヤマブキ」の花汁を使って感光紙を作ったサントスは、感光後の画像劣化防止に挑戦していた。


「後処理なし、灰汁漬けのみ、ワニスのみ、灰汁漬けとワニス両方の4パターンで試料を作った」


 サントスは窓から遠い壁に貼ってある黄色い紙片を示した。


「あれは普通の室内に露出した場合」


 既に真っ白に近い紙片もあった。


「白い紙が後処理なしの分か?」

「そう。感光が早い分、劣化も早い」


 定着処理ができない以上、感度が高ければ露光後の退色も早い。それは避けられないことだった。


「室内露出でわかった有効性は、灰汁とワニス両方が一番効果が高く、次に灰汁漬けのみ、ワニスのみ、処理なしの順になる」

「なるほど。あれが灰汁とワニス両方で処理した紙か?」


 サントスの説明を聞いて、トーマは最も退色が少ない紙を指さした。

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