第123話 うゐのおくやま けふこえて。

 翌日、ステファノは夜明けと共に歩き出した。昨日の遅れを取り戻し、早く町に入りたかった。

 泥濘ぬかるみに汚れた服や手足を、井戸の水で清めたかった。


「少しは身ぎれいにしないと、食堂にも入れないね。気をつけないと」


 外を歩けば土を被り、埃を浴びる。多少の汚れで追い返されることはない社会であったが、何事も限度という物がある。

 特によそ者や、ステファノのような若輩者に世間は厳しかった。


 それは社会内部に生きる者たちを守る「見えない壁」であった。ダニエル先輩が行商を避けるのは、「見えない壁」を相手にする厄介さを知っているせいもあった。


 街道を歩みながら、ステファノは「念誦ねんじゅ」を欠かさない。最早ステファノにとって歩くことと念じることは一体と言っても良かった。

 日本で言えば札所を回る巡礼の姿に似ていたかもしれない。あるいは富士講で山頂を目指す人々に。


 ステファノは何かを願うためではなく、歩く行為と一体となるべく「諸行無常いろはにほへと」を念じていた。


 山が近づき、その細部が目に映るようになってきた頃、ステファノは町に到着した。


 小さな町で城壁も城門もない。村をそのまま大きくしたような場所であった。

 それでもステファノのように徒歩で移動する旅人にとっては重要な休憩ポイントであり、呪タウンに入る前に一泊する宿場町ではあった。


 ステファノはまず井戸を探した。


 幸いなことに水の豊かな土地であるらしく、中央の広場に井戸が開放されていた。

 跳ね上げ式の釣瓶を落として、ステファノは衣服と体を清めるための水を汲んだ。


 何年も繰り返して来た水汲みの仕事も、ここしばらくは遠ざかっていた。あれほど嫌いだった仕事が懐かしくなるとは身勝手なことだと、ステファノはいっそ恥ずかしくなった。


 泥濘ぬかるみに跪いて汚れたズボンの上からステファノは桶の水を掛けた。替えの服などないので履いたまま、服と脚をいっしょに洗ってしまおうという算段だった。

 動いている内に体温でズボンは乾くだろう。


 それから手足を清め、顔と髪を洗い、口をすすいだ。

 プリシラにもらった手拭いで水気を拭きとると、随分さっぱりとした気持ちになった。


「さて、早めのお昼にしようかな。濡れたまんまで店に入るのも悪いから、何か買って食べようか」


 一本だけの目抜き通りに面した食堂をのぞき、カウンターに料理が並べてあるのを見定めて、入ってみた。


「料理の持ち帰りはできますか?」

「いいよ。何にするかね?」


 店主は大柄な中年男だった。


「それじゃあ、そのパンにこっちの炒めた肉を挟んでもらえますか?」

「あいよ。嫌いじゃなければ野菜も挟んでやろうか?」

「お願いします」

「ほい。20ギルだ」


 店主の好意で店の外に置いてあるベンチを使わせてもらうことにした。旅人に優しい町なのかもしれない。


「へえ。スパイスが利いてる」


 肉はそれなりの部位だったがちゃんとした処理をしてあったし、十分火も通っている。ふんだんにとはいかないが、ケチらずにスパイスが使われていて肉は悪くない味だった。


 さっきの井戸で汲んで置いた水で喉を潤しながら、ステファノは肉入りのパンを平らげた。


「ごちそうさま」


 ステファノは入り口から店主に声を掛けた。


「また来てくんな」


 店主はカウンターを拭きながら、頷いた。


 食料雑貨店の場所を聞こうかと思ったが、小さな町のことだ。すぐに見つかるだろうと思い、ステファノは通りを歩き始めた。


「服屋に靴屋、洗濯屋に床屋か」


 バーを兼ねた雑貨屋は、宿屋の隣にあった。


「サン・クラーレよりお店が少ないな」


 その割に店構えや品揃えがしっかりして見えるのは大都会が近いせいだろう。

 雑貨屋に入ると店内所狭しと商品が積まれていた。


「こんにちはー。保存食を見せてもらえますか?」


 ケントクに分けてもらって来てはいたが、ネルソン邸にあった物は在庫が偏っていて万全ではなかった。

 できれば買い足したいと思っていたのだ。


 干し肉、乾燥トウモロコシ、干した豆などを荷物にならない範囲で購入した。ついでに小さなフライパンと、なた、小さなスコップも購入して背嚢に下げた。


 最後に細いロープをひと巻加えたのは、山に入ることを考えての準備であった。


「お前さん、まじタウンから来たのかい? ふーん。山に入る気なら、狼に気をつけな」


 南の野山には狼が出るらしい。人数が多ければ寄りつかないらしいが、1人でフラフラしていると狙われることがあると。


「ありがとう。用心します」


 買い出しにはカイトにもらった銀貨が役立った。そのお陰で物惜しみせず野営道具が買えたとも言える。


(情けは人の為ならず、か)


 背嚢は重さを増したが、この2週間適度な運動で体を整えることができたステファノにとって問題ではなかった。


(マルチェルさんのお陰だ。身心一如。これからも心掛けよう)


「腹も満ちたし、買い物もできた。明るい内に峠を越えよう」


 力強い足取りで街を出ながら、ステファノは緑濃い山肌を眺めた。


 畑や果樹園の風景を眺めながら進むと、1時間程で山道が始まった。ここから峠越えだなと、ステファノは気を引き締めた。一旦足を停めて、水分を補給する。背嚢や靴紐の具合も確かめた。


「よし。狼除けに声を出して行こうかね」


「い~ろ~は~に~ほ~へ~と~」

「ち~り~ぬ~る~を~わ~か~」


 ステファノはケントクに教わった「いろは歌」を口ずさんだ。リズムが一定なので、歩調を合わせやすいのだ。


(山まで来たけど、土魔術のイデアってどういう物なんだろう? 火や風と違って、目に見える変化なんてないよねえ?)


 普通の・・・魔術師は現地を見てイデアを覚える必要はないのだろうが、それにしてもどうやってイデアの引力を掴まえるのであろう? 土が持つ引力とは何だろうと、ステファノは考えた。


(土が動くと言えば……地震、地滑り、土砂崩れ。そういう類の天災かなあ)


 そういった現象であれば、十分魔術の力となってくれるだろう。だが、そう都合よく天災が目の前で起きてくれるものでもない。


(地震なんて滅多に起きないからなあ。火山のあるところでは珍しくないそうだけど)


 地滑りや土砂崩れは側にいたらそもそも危険だ。普通は遭遇するのを避ける物だろう。


 ステファノが踏み込んだのは峠道である。目の前にあるのは木々に覆われた山だ。大きな土の塊がそこにあった。


(山に来なくても、足元は全部土だけどさ)


 いったい何の因果を掴まえれば、土を自在に操れるのだろうか。ステファノは考えあぐねた。


『考えに行き詰った時は、違う考え方をしてみると良いよ』


 それはかつてドイルが教えてくれたことであった。


『物事を単純化したり、違う言い方に置き換えたりすると、思いも寄らない考えが浮かぶ。人間の脳というのはとても面白い働きをするのさ』


(やってみようか? どうせ歩く他にすることはないし……)


(えーと、「地震」は大地が揺れること。「大地が動く」ことかな。大地は、「大きな土の塊」か)


(「大きな土の塊」って言うと、岩、山、島……それから大陸?)


 大陸はかつて今とは違う場所にあった。そう主張する学者がいるそうだ。途方もない年月をかけて少しずつ移動したのだと言う。

 それもドイルが教えてくれた。


(大陸が動いてもなあ……。目の前で動いてくれるわけじゃないし……。長い間かあ。うん?)


 ステファノの口は「誦文」を唱え続けている。最早思考を割くことさえ必要ない。


(待てよ。俺が探しているのはイデアだ。現実は目に見えているその瞬間の姿でしかない。イデア界では大きさも、場所も、変化もないはずだった)


 時のない世界に自分を置いて考えなければならないのであった。


「あさきゆめみし~ ゑひもせす~ ん~」


 脳裏に「始原の光」を置きつつ、ステファノは「世界」を想った。昨夜見たほのかに赤い光を帯びた世界を。


 大陸の運動は遅い。何千年の時を費やして陸地は移動したと言う。悠久とも思える時間の流れがそこに横たわっている。


 しかし、イデア界に時はない。


 平地は山となり、山嶺は崩れ落ちる。生成と消滅が同時にある。それが純粋概念世界であった。

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