第122話 世界は揺らぎ、赤い光を帯びていた。

 初めは警戒していた2人だったが、ローラ姉弟が無事であることがわかると、目に見えて肩の力が抜けた。


「は~、良かった。心配しましたよ」

「ごめんなさい。馬車が壊れて動けなくなったところを、ステファノに助けてもらったの」


 カイトと呼ばれた青年が御者台のステファノを見やった。


「君がステファノか? お2人を連れて来てくれてありがとう。ここからは我々が引き取ろう」

「えっ? ステファノにおうちに来てもらって、お礼を言わなきゃ!」


 ローラはここでステファノと別れることになるとは思っていなかった。


「お嬢さん。聞けばステファノは旅の途中でしょう? 街に戻っては時間を無駄にすることになる。そうではないかね?」

「はい。お2人がローラたちを守ってくれるのであれば俺がついて行く必要はないと思います」

「ステファノもこう言っています。よろしいですね、お嬢さん?」


 ローラは渋々頷くしかなかった。


 ステファノが馬車を降りると、カイトは馬車の後ろにステファノを誘った。


「すまんな。手間を掛けた。正直に言うと、君を連れて帰ると我々の失態が目立つんだ。失礼だと思うが、これを受け取ってくれ」


 カイトが取り出したのは5枚の銀貨だった。


「そんな……わかりました」


 断ろうと思ったステファノだが、黙って受け取ることが事態を納める早道だということに気がついた。

 おそらく護衛役であろうカイトとウィルとしては、はいさようならとステファノを追い返すのも心苦しかったのだ。


「ネルソン商会にはこちらからお詫びとお礼のあいさつに伺わせてもらう。それで勘弁してくれ」


 年下のステファノに、カイトは拘りを捨てて頭を下げた。


「ありがとうございます。ローラは間違っていましたが、お婆さんに対する優しさからの行動なのであまり叱られないように口添えをお願いします」

「わかった。責任は俺たちにある。お嬢さんの気持ちをきちんと伝えよう」

「それと、馬の引き綱は応急修理でつないだだけなので馬車はゆっくり動かしてください」


 カイトが馬車に目を向けると、馬具の確認をしていたウィルが手を振って見せた。修理箇所の状況に得心したのであろう。


「何から何まで、すまん」

「じゃ、俺はこれで」

「道中無事を祈る」


「ローラ! テオドール! じゃあね。また会おう!」


 姉弟は馬車の窓から顔を出して手を振っていた。1人は笑って。1人は涙を拭いながら。



 「それにしてもせわしない出会いと別れだったな」


 例の泥濘ぬかるみに戻って来てみれば、結局ステファノが無駄にしたのはたかだか1時間足らずのことであった。


「1時間で銀貨5枚なら良い稼ぎかな? なんてね」


 この水溜まりは通行の邪魔であった。


「何とかできないかな? 練習してみようか?」


 道中で見かけた「つむじ風」。あれを再現したら水を吹き飛ばせないだろうか。


「試しにやってみよう。だめで元々だし」


 力を籠めるためと言うのも変だが、今回は誦文を声に出してやってみた。


「い~ろ~は~に~ほ~へ~と~」

「ち~り~ぬ~る~を~」

「わ~か~よ~た~れ~そ~」

「え~つ~ね~な~ら~む~」

「う~ゐ~の~お~く~や~ま~」

「け~ふ~こ~え~て~」

「あ~さ~き~ゆ~め~み~し~」

「ゑ~ひ~も~せ~す~」

「ん~~~」


始原の光イド」を観念の中心に置き、成句を祈りとして捧げた。

 つむじ風のイデアを強くイメージする。藍の光紐よ。


 イメージを助けるため、ステファノは唇を細め、長い息を吐き出す。


「ふぅーーーーーっ」


イデアよ、来たれ!」


ごうっ!


 風なきところに風が生じた。

 空気にぶち当たり、かき分け、押しのける。


 藍の光紐が地表に渦を巻き、天を目指して駆け昇った。


 地表には急激な気圧差が発生し、周囲の大気が渦を為して流れ込んで行く。


「うわわ、危ない! 散れっ!」


 ステファノは体を渦に引き込まれそうになり、慌てて藍の光紐に指先を向けると「力の開放」を念じた。


 らせん状に上昇していた光紐は、ステファノの念を受けて上空で膨れ上がると、すーっと輪になり広がりながら拡散した。


 ひゅー。


 時ならぬ春一番が吹き抜けたように行き場をなくした大気が乱気流となって、一瞬辺りを騒がせた。


 終わってみればしんと何事もなかったような日常が、ステファノの前に戻っていた。


「何だ、これ?」


 広がっていた水たまりは竜巻・・に吸い上げられ、消えてなくなっていた。

 水は上空で急激に攪拌され、大気に溶け込んでしまった。やがて雲ができるだろう。


「さっきのつむじ風って、こんなに強かったかなあ……」


 イメージが強すぎたのかもしれないなと、ステファノは思い返した。


「その場に合った強さのイメージをしないと問題だね。あー、びっくりした」


 水たまりが消えたのは良かったと、ステファノは結果を片づけた。

 自分の放った術が上級魔術の威力に迫っていたことに、ステファノは気づいていない。



 ステファノはまだ幼かった頃に、竜巻を目撃したことがある。土を、木々を巻き込んで天空へと立ち上る黒々とした渦であった。生き物のようなその螺旋は畑や牧草地を蹂躙し、農場の納屋をおもちゃのように大地からむしり取った。


 めりめりと捩じられ、バラバラにされながら上空へ登っていく納屋の姿にステファノは呆然と見惚みとれた。悲痛な鳴き声を上げながら、1頭の牛が巻きあげられ、やがて宙に投げ出された。


 その夜、幼いステファノは黒々とした螺旋を夢に見て、熱にうなされた。



「術を使う時は巻き込まれないように気をつけないといけないな。危うく牛みたいに飛ばされるところだったよ。……牛?」


 ステファノは頭を振って、唐突な牛のイメージを振り払った。


「まあいいや。風魔術を1つ覚えたかな? これもローラたちと関わったお陰かも」


 それもまた事実であった。イベントを伴った記憶として、ステファノのイドに竜巻のイデア・・・・・・が記録された。インデックスはなぜか「牛」であった。


 

 その夜、1人野営をしながらしたためたいつものノートには今日の出来事が記録された。竜巻の件ではペン先から藍の光が立ち上り、光紐のイメージとなって文字を紙面に刻んだ。


「明日の昼には次の町に入れるだろう。食事と買い物をして、井戸で体も洗いたいな。明日は今日の遅れを取り戻そう」


 早めに横になってみると、目の前には満天の星空が広がっていた。


「1日歩いただけで、街とはまったく違う空だ」


 サン・クラーレを旅立った日も、こんな星空だったろうか? あの時の自分には空を見る余裕もなかったのだろうかと、ステファノは記憶をたどった。


 あの時とは違って、今日は満月が出ている。


「そうだ」


 ふと思いついて、ステファノはネルソンに授けられた遠眼鏡を取り出した。

 伸ばしたそれを目に当て、月を眺めてみる。


「うわぁ。大きく見える」


 普段月を見るとき、ステファノはそれが何であるかなど考えない。暗い夜空の中で明るい物。星よりも大きく輝いている物。その程度の意識しか持っていなかった。


 遠眼鏡を通して、こうして月を見るのは初めてのことだった。


 月は模様までさらけ出し、「物体」としての存在感を遠眼鏡の中の現実に映し出していた。

 そこに「月」があった。


「あれも『引力』を持っているんだよね」


 この大地も、自分も、すべての物が「あれ」に引きつけられている。そして自分もわずかな力で「あれ」を引いている。すべての「物質」が例外なく逃れられない運命。


「法則」が天体の顔をして、空に浮かんでいた。


 くらりと遠眼鏡が揺らぎ、ステファノの視界も揺らいだ。

 ステファノの「世界」が揺らいだ。


 安定して、覆ることがないはずの「世界」が揺らぎを持つものとしてステファノのイドに刻まれた。


「世界」はほのかに赤い光を帯びていた。

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