第97話 それは薄っぺらい封筒に入っていた。

 ステファノがネルソン別宅で目を覚ました日、その夕方にネルソンが王都から帰りついた。


 マルチェルから留守中の報告を受けた後、夕食を執りながらステファノと話をしようということになった。

 両手が上手く使えないステファノを思って、料理はスプーンで食べられるビーフシチューと米の炒め物を中心としたメニューだった。


 最初は恐縮していたステファノだが、ほろほろと触るだけでほどける牛肉の美味さと、ケントク自慢の「チャーハン」という米料理に魅了された。豚肉とネギ、そして卵しか具材が無いのに、なぜこんな味わいが出るのか? 香ばしさとみずみずしさのバランスは何なんだ?


 一口ごとに唸るステファノを見て、給仕に立つプリシラは笑いをこらえるのが大変だった。


 夕食は、ステファノの女装がお似合いだったなどと他愛もない話の中で進み、デザートの時間となってようやく落ちついた雰囲気になった。


 今日はネルソンと一緒のテーブルについていたマルチェルが、静かに声を掛けた。


「ありがとう、プリシラ。後はわたしがやります。今日はこれで下がりなさい」

「はい。それでは失礼いたします」


 エリスに教わった貴族風の礼をして、プリシラは給仕のワゴンと共に下がった。


「留守中大変な目に遭ったそうだな。ご苦労だった」


 主人でもあり、王子のために命じた仕事でのことだ。ネルソンとしては詫びる訳には行かず、労をねぎらうという形でステファノに声を掛けた。

 心の整理をつけたステファノは、たじろぐことなく受け止めた。


「マルチェルさんのお陰で無事に戻ることができました」

「怪我が軽くて良かった」

「2週間ほどで包帯が取れるだろうと」

「うむ」


 縄で擦れた傷は深くえぐれ、傷口は荒れていた。

 左手首には跡が残ることになるだろうと医者に言われていた。


 おそらく傷跡を見るたびに、昨日のことを思い出すことになるだろう。忘れ去らないためにはむしろ良いことかもしれないと、ステファノは考えていた。


「王国内の敵対勢力はほぼ洗い出せた。王都の黒幕が元凶だが、明日マルチェルが対応に向かう。こちらが先手を取っている以上、事態は収拾に向かうだろう」

「相手は想像以上にずさんな連中でした。貴族の世界を知らない、暗黒街でも駆け出しの勢力が中心となっております」

「うむ。そういう連中は得てして無理をする。新旧勢力の入れ替わりを狙うのだろうが、王家に弓引いて無事でいられると思うとは、あきれて物が言えん」


 この世界では旧勢力が幅を利かせがちである。権力というものが社会構造に根づいている以上、良くも悪くも「旧来社会の仕組み」を知らなければ長く繁栄することはできない。

 若い世代、新興勢力にはそれが「旧態依然」「旧弊」と見えて反発するものが多いが、自由も民権も限定された固定的な社会秩序の中では「下剋上」はなかなか上手くいく物ではなかった。


「元凶の金貸しはわたしが直接始末をつけます。周りの小物は、王都の顔役たちに掃除させましょう」


 ギルモアに盾突くような跳ね返りも御せないのかとねじ込んでやれば、保身のためにせっせと商売敵を片づけるだろう。

 自分たちの得にもなることなのだから文句は言わないはずだ。


「今回は護衛騎士のネロさんに同道してもらいます。王立騎士団と協力して手下の討伐に当ってもらえば、『ジュリアーノ殿下自ら犯罪組織を一掃した』という記録が残りますからね」

「うむ。良い考えだ。ネロも活躍場所を得て喜ぶだろう」


 王都にいる間、マルチェルとネルソン商会の間には定期的な連絡手段があるらしい。半日ほどの時差で手紙のやり取りは可能なのだった。人と馬、そして安全の確保が必要なので金持ちにしか使えない方法である。


「それにしても雲を掴むような話だと思っていたが、ステファノが来てから目まぐるしく解決が近づいた。正に天の配剤だった。ステファノ、改めて礼を言う。世話になったな」


 ネルソンの立場にしては最大の謝辞であろう。表向きはともかく、内実は侯爵家につながる人間なのだ。軽々しく人に下げる頭は持っていない。


「いえ。わたしは自分が感じたことを伝えたまでで、解決の道を開いたのはすべて他の人の働きです」


 敵の正体、命令系統、連絡経路などを暴いたのも、敵地に乗り込んで討伐したのもステファノの力ではない。

 今現在もジュリアーノ殿下の早期縁組に精力を傾けている宮廷政治の担い手も、ステファノが手助けできる相手ではない。


「自分は見えているものを並び替え、見やすいように印をつけただけです」

「まあ、そう言うな。お前に指さされるまで、目の前の物が目に入らなかった自分が情けなくなる」


 ネルソンは苦笑いして言った。


「それでな、ステファノ。お前にはネルソン商会で働いてもらおうと思っていたが、いささか事情が変わった」


 そう言うと、内ポケットから封筒を1つ取り出した。


「これは?」

「中を読んでみなさい」


『王立アカデミー入学案内』


 そう表書きされた書類が入っていた。


「お前の才能を商会勤めで消費してしまうのはもったいない。そう思って、用意したものだ」


 どこでどうしたら手に入れられるのかさえわからなかった、アカデミー魔法科への入学願書が次のページにあった。


「でも、入学金や学費が――」

「お前は正式な使用人だからな、わが商会の。働きに見合う報酬を出せないようでは、ネルソンの名が泣く。第3王子殿下のお命を救った功績は、たかが学費などではつり合いが取れん」

「旦那様……」


 夢が手の届くところに来た。ステファノは胸が詰まって言葉が出なかった。

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