第94話 マルチェル変幻自在。

 ステファノをアランに託して送り出し、後始末を済ませて口入屋一味を衛兵詰め所に突き出すと、さすがに時刻は深夜に達していた。


「今日の仕事は今日の内にと言いますからね。ジェドーとやらの片をつけておきましょうか」


 マルチェルはコキコキと首を鳴らすと、人気のない夜道を1人歩いた。

 街は寝静まっていたが、月の明かりがあれば夜目の利くマルチェルには十分であった。


 歩みを止めることなく、ジェドー邸を囲む塀に飛び乗る。気配を消して邸内の様子を窺ったが、見張りも番犬も見当たらなかった。


「悪党というのは意外と不用心なものですね」


 それだけ守りに自信があるのかもしれない。


「何にしても、やることに変わりはありませんが」


 ここでもマルチェルはすたすたと玄関まで近づき、姿がかすむほどの勢いで装飾過多なドアを蹴り破った。


 さすがに「成金」の邸宅だ。分厚い一枚板のドアは破片を散らすこともなく、マルチェルの蹴りに堪えた。

 しかし、ドアを支える蝶番ちょうつがいと錠前は理不尽な打撃に耐えられず、破壊されてドアごと内側へと吹き飛んだ。


「なるほど。建つけが安物ですね。こういうところで業者に足元を見られましたか」


 妙な所に納得しながらマルチェルは館に足を踏み入れた。

 

 20キロ近い重量のドアを吹き飛ばしたのだ。地鳴りのような衝撃が館中を震わせた。

 わらわらと警備の用心棒たちが出張って来る。


「ここも10人くらいですか? 用心棒の数というのは決まりでもあるんでしょうか」


 大半が短剣を手にしており、レイピアが2人いた。最後尾の1人は……魔術師か?


「魔術師だとしたら珍しい。さすが成り上がりは違いますね」


 口元に皮肉な笑みを浮かべると、囲まれることにも構わず、マルチェルは正面の敵に歩み寄った。


「リンゴを売りに来たんですがね?」

「はぁ?」

 

 語りかけられた男の顔が困惑に歪んだ。今相槌と共に吐いた息を吸い込もうと男の肺が膨らみ始めた時、マルチェルの前蹴りが男の横隔膜を正面から踏み抜いた。

 後ろの2人を巻き込んで、蹴られた男が吹き飛ぶ。


 左右には短剣を手にした男が立っているのだが、まだマルチェルの動きに意識が追いついていない。


「リンゴなんか持っていませんよ?」


 マルチェルの言葉に男たちが意識の数パーセントを持って行かれた時、マルチェルは膝を抜いて床に体を落下させながら右の敵に迫る。

 言葉のフェイントと予備動作のない加速により、男の目からマルチェルが消える。


 いや、視野には入っているのだが「意識」が捉えられない。脳の認識に無い動きと早さであった。

 脳が遅れて行った「マルチェルが動いた」という認識は、「転んだのか?」という疑問と同時であった。


 確かに、男の目にはマルチェルは転んだと見えたのだ。マルチェルの顔は踏み出した足の膝に近づいている。

 男には、弧を描いて宙を切り裂くマルチェルの踵が見えていなかった。


 縦回転の胴回し蹴り。


 重力加速度と踏み出しの力を回転力に変換した蹴りは、僧帽筋を叩き潰し、鎖骨をへし折ってマルチェルの元に戻った。

 まるで別の生き物が襲いかかるような、意識外からの攻撃。


 背中どころか膝も手さえもつかず、回転を収めたマルチェルは静かに立っていた。


 足元には、肩を粉砕された男が苦痛に身をよじっている。


「おやおや? 大丈夫ですか、あなた?」


「うぐっ! む、む、うごぉーっ!」


 激痛に苦しむ男にはマルチェルの声は届いていなかった。


「手を貸しましょう。立てますか?」


 身をかがめて脇の下に手を通し、マルチェルは苦しむ男を引き起した。


「ふぐっ。はがぁあ……」

「ほら、まっすぐ立ってごらんなさい。そうじゃないですよ。それじゃ傾いちゃいますよ?」


 目を固くつむった男は、まともに立っていることができなかった。


「それじゃあ倒れますって――」


 言いながら、マルチェルは男を掴んだ腕を捻る。男自身の体重に回転力を上乗せした。


 変形の「隅落すみおとし」。


 俗に空気投げと言われる、究極の投げ技であった。


 担ぐでも背負うでもなく、足を掛けることもない。体重移動と崩しだけで70キロの敵に宙を舞わせる絶技だ。

「倒れまい」とする相手の力が技の威力を高める術理を、マルチェルは応用自在に極めていた。


「倒れますよ」と声を掛けて相手にバランスを意識させながら裏を取る。

 相手の踏ん張りが自ら体を吹き飛ばすロケット代わりになってしまう。


 肩の激痛で受け身も取れない男は、「あびせ蹴り」の態勢で隣の男を巻き込んだ。


 もちろん飛ばす方向を調整してやったマルチェルの狙い通りである。


「あ。あぶっ――」


 人の心配をしていた男は、投げられた男の踵をまともに顔面に受けて悶絶した。

 格闘家でありながら、マルチェルは自在に飛び道具を操る武道家であるかのようだった。


 ようやくこの頃になって、マルチェルにいいようにあしらわれているということに大方が気づいた。

 罵声も気合も発しないマルチェルの動作が静かすぎたせいもあっただろう。


「てめえっ! 覚悟しやがれ!」


 今更な気勢を上げて、隣の男が短剣を構える。


 にやりと笑ったまま、マルチェルはすいと一呼吸で男に近寄る。短剣の先が胸に触れるほどの近間である。


 短剣を構えたところに、両手をぶらりと下げたまま寄って来る奴などいない。少なくとも、マルチェルの前に立つ男には経験が無かった。


 驚くと同時に、舐められたと頭に血が上った。「刺してやる」と、殺意を抱いた。


 すると、マルチェルがさらに足を進めて・・・・・・・・近づいてきた。男との間には突きつけた短剣の刃先がある。


 信じられないことに、男はマルチェルが進むにつれて短剣を後ろに引いた・・・・・・――。

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