第90話 吹き荒れる旋風。

 前に出たマルチェルは、何しに出てきたのかとごろつきたちが不審顔をしている内にするすると間合いを詰めた。


 中央でやや前に出ている大柄な男の前に立ち、にやりと笑って見せた。


「おま……」


 男が言葉を出しかけたところで、床に吸い込まれるようにマルチェルの右半身が前方斜め下へ落ちて行く。

 「膝を抜いた」ことによる自由落下と、前方への踏み込みを合わせた「予備動作のない動き」であった。


 喋り始めていた男にはマルチェルが目の前から消えたように見えた。


 ここからは乱闘になる。

 マルチェルはあえて大きく気合を発した。敵を混乱させるためだ。


「ハッ!」


 半身で飛び込んだ低い姿勢、床を蹴り破る勢いで右足を踏み下ろし、右ひじを男の水月に叩き込む。そのまま右肩で胸を跳ねのけながら、ついでとばかり肘を中心に振り上げた右の裏拳で敵の鼻頭を叩き潰した。


 鼻を潰されると呼吸に障害が出る。みぞおちの太陽神経叢を強打された男は、横隔膜がけいれんして呼吸ができないところに追い打ちを食らった。もはや戦闘継続は不可能だ。


「……え、だにじに――」


 言葉の途中で吹き飛ばされた大男は、後ろの仲間をなぎ倒す。床に倒れ込んだ時には、白目を剥いて口から泡を吹いていた。


 マルチェルの動きは止まらない。踏み込んだ姿勢からさらに体は落下していく。


 床につくほど尻を落とし、左足で床面を薙ぎ払う。右手に立つ男2人が足首を刈られて、宙を舞った。

 何をされたのかわからないため、受け身も取れずに頭を床に強打した。2人とも脳震盪を起こして、数分は立ち直れない。


 右足を軸に水平に円を描いたマルチェルは、それでもまだ止まらない。

 戻って来た左足を床につけると、今度は畳んでいた右足を後ろ回し蹴りで振り上げる。左側の男2人のこめかみを踵で打ち抜いた。


 男たちは意識を刈り取られ、木偶でくのように膝から崩れ落ちる。


 既に前列の5人が戦闘不能になり床に倒れている。残りは3人。倒れた仲間が邪魔で前に出られない。

 うち1人は、最初に倒された大男の下敷きになってもがいている。


 大男が脅しをかけようとした……男たちの意識はまだそこで止まっている。マルチェルが5人蹴散らしたことは意識に上っていない。


 そのマルチェルはまだ回転の途中にいた。男二人を蹴り飛ばした右足を畳みつつ、左の軸足で床をポンと押す。

 バレリーナが舞うように、羽毛にも似た軽さでマルチェルが宙に浮かんだ。


 右足を畳んで得た旋回力に、宙で体を捻ることによってさらに加速を加え、するすると伸びて行く左足に載せる。


 人の足はこれほど長かったか? アランが見とれるほどの美しい線を描いて、マルチェルの左足は回し蹴りとなって右後列の2人の延髄を一塊ひとかたまりに撃ち抜く。


 棒を振り回すような蹴りではなく、鞭のように首の後方から巻きついて来る蹴りであった。1人目の首を巻き取りながら、二人目の首に叩きつける。


 ようやく降りてきた右足で鶴のように着地すると、回転し終えたマルチェルは引き寄せた左足を柔らかく折り曲げながら摺り足で前に出す。左手はゆったりとしたカーブを描いて前方に伸ばされ、拳は作らず、何にでも変化できる形で顎の高さにある。

 右手は軽く握って、あばらの下に置かれ、いつでも打ち出せる威を放っていた。


「ふぅー」


 思わず止めていた息をアランが吐き出した時、停止したものと思っていたマルチェルの右足が天井に突き刺さるほど高い宙にあるのを見た。


「えっ?」


 足そのものにかかる重力に、太ももの裏、大腿二頭筋の収縮力を加えて、マルチェルの踵が雷のように空気を切り裂く。


 ごぼん。


 聞いたことのない音を立てて、大男の陰でもがいていた男の頭が床に縫いつけられた。

 男は動きを止めた。


「こんなものでしょうか」


 壁に飾る詩の一篇を書き上げたかのように、動きを止めたマルチェルはアランに語り掛けた。


「これが『鉄壁』――」

「いや、お恥ずかしいですね。大分時間をかけてしまいました。歳は取りたくないものです」


 本気か、このオヤジーーアランは驚きを隠せなかった。


「たったの2呼吸ほどだったが」

「『2呼吸も』、使ってしまいました」


「10年前なら、『1息目を吐ききる前に』全員倒していたでしょうに」


 語りながら、マルチェルは息を吹き返しそうなごろつきの頭を蹴り飛ばして歩く。


「虫けらといえども数が集まると、思いの外うっとうしいですからね」


 羽虫を2、3匹を叩き潰したような気軽さで言うと、マルチェルは汚れてもいない袖口を払った。


「それでは親玉にご対面とまいりましょう」


 そう言うと、躊躇なく奥の部屋へ続く扉を押し開けた。

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