第73話 市井の暮らし。

 悪所通いと言ってもいわゆる女遊びではない。治安の悪い盛り場に出入りするということであった。


「俺は平民の生まれですから大体わかりますが、そんなところにお貴族様が出掛けて何か良いことがありますか?」


 ステファノは不思議に思った。


「良いことがあるかと聞かれると、答えに困りますね。ただ『知らないこと』ならたくさんありました」


 庶民が何を着て何を食べているのか。日々の糧をどこで稼ぎ、何を楽しみに暮らしているのか?

 どこで何が買えるか、値段はいくらか?


「高位貴族の子弟ともなると、お金を使うことさえありませんからね」


 休みの日にはくたびれた庶民の服に着替えて、街に出た。日雇いの仕事に参加して、その日暮らしの小銭を得たこともあった。

 そういう金で酒場に出かけ、博打場を冷やかしたりもした。


「薬が高すぎる」


 青年ネルソンの口癖だった。

 庶民の収入に比較して薬の値段は高すぎた。貴族か金持ちにしか手が届かない。


 仕方なく人々は怪しげな民間療法や、まじないの類に救いを求めていた。

 薬が買えないばかりに命を落とす人々が多すぎた。


 その一方で医師や薬師、薬種問屋は大きな屋敷を構え、大勢の使用人にかしずかれてぜいたくな暮らしをしていた。


「馬鹿げている!」


 その頃ネルソンは良く場末の酒場で安酒を食らいながら、行き場のない怒りをマルチェルにぶつけていた。


「はは。馬鹿が馬鹿を馬鹿にして、何か面白いことがあるのかな?」


 隣のテーブルで食事をしていた男が、からかうような言葉を発した。

 見れば、ネルソンより相当年下の子供のように見えた。


「何だ、お前! 俺を馬鹿にしているのか?」


 聞きとがめたネルソンは、拳をテーブルに叩きつけて立ち上がった。


「あれ? 怒ったのか? 馬鹿であるという自覚はあるんだな」

「貴様、やる気か!」


 真っ赤になったネルソンをちらりと見上げた少年・・は、興味を無くしたようにステーキを食べ続けた。


やらない気・・・・・だよ」

「何を?」

「そんなチンピラみたいなことは、君には似合わないから。こっちに座って酒でも飲みなよ。何が馬鹿なのか説明して上げるから」


 聞けば少年はアカデミーの下級生であった。


「いきなり君を馬鹿呼ばわりしたのは悪かったよ。謝る。しかし、言っていることがあまりにも馬鹿々々しいからさ。馬鹿にしたくもなるだろ?」

「お前、仮にも上級生に向かって馬鹿、馬鹿と……」

「まあ、怒らないで。悪気はないんだから。今から説明するよ」


 何とも人を食った少年だった。柔らかそうな金髪がゆるくカールして丸顔を包んでいる。

 小柄で童顔なので、アカデミー生には見えない。


「良いかい。まず第一に、医師も薬師も法を犯していない。許された商売をして報酬を得ているだけだ」


 中には悪質な医者がいるかもしれないが、それは「別の話」だと少年は言う。


「ならば薬が高いと言って彼らを責めるのは間違っている。つまり、君が馬鹿な訳だ」

「庶民のために値段を下げたら良いだろう!」

「なぜ? 貴族に高い値段で売れるのに? わざわざ値下げするのは余程の馬鹿だ」


 少年はポテトにフォークを突き刺し、大口を開けてかぶりついた。ネルソンにも酒のお替りを頼めと催促した。


「法を作って薬の値段を下げさせることはできる。でもそうしたら廃業する薬種問屋が出て来るよ。儲けが無くなるからね」


 すると、薬の供給量が減り、結局値段は上昇する。


「物の価格を決めるのは個人ではない。需要と供給のバランスが市場を動かすのさ」

「何を言って……」

「だからさ。薬が高いと言うんだったら、薬の供給量を増やせば良いのさ」


 簡単なことじゃないかと少年はうそぶく。そんなことも考えていないから馬鹿だと言ったのだと。


「どういうことだ?」


 ネルソンはまたも馬鹿だと言われていることに気づかず、身を乗り出した。


「そうだね。一番簡単なのは君が薬屋になる・・・・・・・ことだね」


 ほら簡単だろうと、少年は無邪気に笑った。

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