ウォーターサーバーの怪⑥


 大学の同期に、坂尾という男がいた。彼はいつも檜木とつるんでいて、顔を合わせれば必ずと言っていいほど二人は一緒にいた記憶がある。記憶の中の坂尾は、明るい爽やかな男だった。テニス部で運動抜群。三年次にはサークル代表もしていた、とグループ面接で聞いた。確かに責任感がある人物だったと思う。

 彼はよく、軋轢が起きるたびにこっそりとフォローをしていた。特に檜木はマイペースで、人に気を遣う方ではなかったから、彼の起こしたヘイトの後処理が主だ。いくら友人だからといって、尻拭いをするなど、なかなかない。桜井と負けず劣らずの世話焼きだと僕は思っていた。

 陽キャの彼とはもちろん僕は、あまり関わりはなかった。桜井はもちろん、仲が良かった。


「別に普通だったよ。サシで遊んだことなかったし」

 桜井はスマートフォンを操作しながらそう答える。

 じゃあグループでは遊んでいたということじゃないか。プライベートで「遊ぶ」という選択肢は、「仲が良い」には含まれるはずじゃないか? 僕は口がへの字に曲がるのを感じていた。


 長く一緒にいると、たまにこういうギャップを感じる。大学時代の桜井は、みんなに親切でみんなが友達、という印象があった気がするが——それは僕に対してそうだったから、という思い込みだったのかもしれない。そう思えるくらいには視野が広がった。僕も大人になったということだ。ということは、僕は桜井と一番仲がいい、とさえ言っても過言——ではないのかもしれない。ほんの少し自慢だ。


 風呂を出て、僕が落ち着いた時には、すでに深夜を迎えていた。テレビの深夜番組から聞こえる笑い声がどこか遠く感じる。パソコンを立ち上げ、僕は検索サイトを開いた。

「だめだ、坂尾の既読つかない。携帯変えたのかもな」

 そう言う桜井の方を見ると、スマートフォンの画面から目を離して肩を落とした。

「そっか……まあ、夜も遅いしね」

 坂尾が今どんな生活をしているかはわからないが、やはり大学時代のように、オールをするようではないだろう。


「余島は何をしてるんだ?」

「ちょと気になって、ウォーターサーバーの会社を調べてる」

「檜木の使ってるやつか?」

「うん、メーカー名は確か……」

 僕は検索窓に、部屋で見たメーカーを打ちこんだ。検索結果が表示されると、桜井が画面を覗きこみ、顔を寄せた。


「あっ……ここ俺知ってるぞ」

「え?」

 僕たちは顔を見合わせた。桜井は言葉を続ける。

「最近、倒産したんだよ、ここ」

「倒産……ってなんで」

「まあいわゆるブラック企業——っていうか、ちょっと社会的にもまずい、詐欺まがいの会社だったって聞いてる。確か商品も不良品が続出で——」

 そう言いかけ、桜井ははっとした。

「待てよ、なんだじゃあ、やっぱり、ただの浄水器の故障ってことか?」

 気が抜けたように思わず笑う桜井に、僕は笑みを返せなかった。

 確かに検索結果を見ていくと、その会社名の後に続くブラック、倒産の文字。複数の記事のタイトルが、画面に表示された。


「ん……?」

 僕はその中の、一つの記事を開いた。

「過労死……」

 ブラック企業が露見した際には必ずと言っていいほど付きまとう言葉だ。記事をスクロールしていく指はすぐ止まった。僕たちの視線の先には、坂尾の名前が書かれていた。

「は……マジで?」

 呟かれた言葉は静かだったが、桜井は愕然としていた。

「桜井も知らなかったの」

「あ、ああ。葬儀の連絡なんて来なかった……から」

 桜井は思った以上に動揺しているようだった。僕は——驚きはしなかったものの、実際事実として確認すると、やっぱり気落ちする。

 坂尾は浴槽で発見された。異臭に気づいた住人が通報したと記事には書かれている。一人暮らしで、発見が遅れたそうだ。

 普段の生活の中で、人知れず死んでいる——その寂しさが、僕は恐ろしかった。


 異臭とは——つまりは、水が、生物が、腐ったにおいなのだろうか。思い返すと鼻腔に、においが蘇りそうだった。

「じゃあ、もうメッセージも……通じないわけだ」

「家族の人は?」

「わからない」桜井は少し唸った。眉間を押さえていた指を離し、思い至ったように顔をあげる。「あいつ、末っ子だって言ってた気がする。親御さんはもしかしたら機械に疎い世代かもしれない」

「そっか……」

 となると、僕たちには届かなくて当然かも知れない。坂尾の家の住所すら知らないのだ。

「なあ、檜木は……坂尾のこと知ってんのかな」

 僕はわからない、と首を振った。いくら仲が良かったからと言って、親との付き合いや、本人の死後は——不明だ。

「連絡してみるか」

「電話して」

 早口に告げた僕にうなずき、桜井が電話をかける。一分ほど呼び出し音が鳴った。その一分が、息が詰まるほど長い。

「寝てんのかな」

 桜井はそう口にしているが、どこか一抹の不安を抱えた表情をしていた。

 もう二分ほど待ってみた。ループする呼び出し音が、部屋の中を飛び回っている。だんだん歪んで広がり、僕の耳に届く。

「だめだ」

 桜井が小さく舌打ちをして、電話を切ろうと端末から耳を離す——その瞬間。


 ヅ、ヅ。


 繋がった音がした。


「……檜木?」

 桜井は恐る恐る、耳を当てた。何も聞こえない、と首を振って僕に目配せをして、スピーカーに切り替えた。

 ノイズがずっと走っている。

「……雨か?」

 桜井と僕は、思わず窓に目を向けたが、外は晴れていて静かだ。檜木の方の地域だけ雨が振っている——無くはないが、それにしたってこんなに雨音だけはしないだろう。

 僕は桜井の持つスマートフォンの、スピーカー口に耳を寄せた。

 ノイズに混じり、微かに水音が聞こえる。ちゃぱちゃぱと跳ね返る音がする。水辺にいる? いや、それにしては、他の雑音が聞こえない。

 僕たちは押し黙った。

 ごぽ、

 機械的な、水の動く音がした。

 言い知れない、嫌な予感がした。僕は思わず桜井の方を見る。彼は少し眉をひそめていた。

「行ってみよう、何かあったのかも」

 僕の言葉にうなずいて、桜井は僕に上着を投げた。



 僕たちは着替えもそこそこに、深夜の町を走っていった。途中でタクシーを捕まえたかったが、深夜の住宅街を回るタクシーはなく、全力で走る二人組は、まばらにいる人々から不審な目を向けられた。

 檜木の部屋の前にたどり着き、僕たちは異変を即座に理解した。息切れのままに深呼吸をしてしまい、僕はえずいた。

「うっ……」

 桜井は咄嗟に手のひらで鼻を塞ぎ、立ち止まった。

 扉の奥から、ひどい、生臭いにおいが漏れている。それと——扉の隙間から、水が流れ出ていて、檜木の部屋の前だけ、水溜りができていた。

 僕は咄嗟にインターホンを押し、ドアノブに手をかけた。鍵はかかっていて、開く様子はない。


「檜木! 檜木!」

 返事はない。僕はパニックだった。ドアノブをガチャガチャと回す。手汗で滑る。

「余島、窓!」

 はっとして声の方を見る。角から桜井が顔を出していた。「窓開いてる!」

 檜木はにおいのために、防犯も顧みず窓を開けていたのだ。

 僕が窓に向かう間に、桜井は窓のヘリに手をかけて、中へ飛び入っていた。桜井の後を追って部屋を覗きこむと、ムッとした生臭さがより強く漂った。ごぼごぼ、と水が動く音がする。浄水器の音だ。水道の水が溢れて、暗い部屋は、水浸しになっていた。桜井の足首まで水が来ている。電灯の光で、水面が揺らめいて、海のように思える。


 ——そうだ。

 このにおいは海だ。


 僕は、ぼんやりと白くなる思考でそう思った。

 檜木、と呼びかけながら、桜井は奥を進んでいく。じゃぶじゃぶと波音がする。

 桜井が部屋を出て、姿を闇に隠した。

「桜井? 大丈夫? 檜木は?」

「……いや、部屋には、あっ」


 バチン!


 強い音と、閃光が走り、何かが倒れる音がした。ざぶん、と波が、部屋の四隅から寄せて返す音がする。僕は部屋を覗きこむ。暗い。水面の反射がチラついて、視点が定まらない。

 何があった? 嫌な予感がする。脳から血が引いていく。

 閃光は強い音と共に、水面を走ったように思えた。

 差しこんだ光で、一瞬部屋が薄暗く照らされる。思い至って、心臓が殴られたように鳴る。壁のコンセントが水没していた。


「桜井!」

 僕は身を乗り出した。部屋に入ろうとした瞬間、僕は窓枠から引き剥がされた。振り返ると、警察官が僕を取り押さえている。

 通報されたのか、と思い、僕は慌てて弁明しようとした。多分、言語になっていなかったと思う。

「離れてください、感電しますよ!」

 警察官がそう言いながら、僕を引き剥がした。

「さ、さ、桜井! 檜木!」

 僕の声は聞こえているのだろうか。心臓が痛い。

 暗闇はぬらぬらと水の乱反射が見えるだけだ。

 浄水器はごぼごぼ、と、ずっと唸っている。強烈な生臭さと、張り裂けそうな動悸で、どんどん具合が悪くなった。

「き、救急車……救急車を……」

 気の遠くなる中、僕は、譫言のようにそう呟いていたことは、覚えている。

 玄関の扉が開く音がして、別の警官が部屋に押しいる様子を、霞む視界に見て——それからはもう、記憶がない。

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