ウォーターサーバーの怪⑤


 何もかもが濁って見える、暗い場所に僕はいた。


 生ぬるい水が体を包んでいる。僕は水の中に浸されていた。その水はぬるつく半固形のゲルのような、暖かいもの——羊膜のようなものがまとわりつく。人肌の水、そして、どこか、覚えのある、生臭さを感じる。これは、そうだ、檜木の家で感じたにおいだ。

 渦の中に閉じこめられている。体が勝手に揺らされる。ごおお、と水の音が耳に響いている。


 水。汚濁した水。見渡すと、歪んで、何か景色が見える。——部屋だろうか。手を伸ばすと、壁があることに気がついた。透明な壁の向こうには、ぼんやりと人の姿が見える。誰だろう。目を凝らすと、ゆらゆらとした視界に、檜木の姿を見た。


 檜木の視線はこちらを向いた。気づいた、のか。

 声は出ない。僕は、僕は、誰だ。

 僕はふうと、壁から手を離した。脱皮するように、僕と、視界が分離する。そうして僕が入っていた誰かの顔を、僕は見ることができた。


 その顔に僕は、覚えがある。

 声をかける手前に、僕は流された。

 濁流が体を持っていこうとする。水が全てを飲みこんでいく。


 ——暗い。

 何もかもが暗い。

 「彼」は一人だ。

 水の中で僕をじっと見ている。

 濁った瞳で、僕を見ている。



 誰かが呼ぶ声がする。真っ白い光が、視界に歪んで飛びこんでくる。耳が詰まる。身体中を柔らかい、半抵抗の感覚が包んでいる。


「……おい、おいって! 余島!」

 はっとして目を開いた。息を吸いこんだ途端、口の中に空気と、跳ねた湯が勢いよく入る。

 桜井が僕の背を抱え、浴槽から引き上げようとしていた。僕を揺する桜井の服はすっかり濡れている。

「さくらい」

 咳こみながら彼の名前を呼ぶと、彼は少しホッと緩んだ表情を見せた。それからすぐ、険しい顔になる。

「大丈夫かよ、溺れてたぞ」

 僕は上体を支えられ、体を起こした。飛び起きたショックでどくどくと跳ねる心臓の振動で、湯船が揺れる。

「ごめん……ね、寝てた」

 僕は桜井から目を逸らした。彼が何かを言った気がしたが、耳に水が入ったのか、桜井の声が遠く歪んで聞こえる。頭を振ると、ぬるい水が抜ける感覚がした。


「……とにかく、一旦出ろよ。風邪ひくぞ」

 立ちあがろうとする桜井の手を掴み、僕は引き止める。

「桜井、やっぱり……檜木のこと気になるよ」

「え? お前……」

 表情が曇る桜井を遮り、僕は矢継ぎ早に言葉を続けた。

「昔さ、ゼミに坂尾っていたよね。檜木と仲良かった」

「ああ、いたけど……なんで坂尾が出てきたんだよ」

「連絡先、わかるかな。ちょっと聞きたいことがあるんだ」

「余島」

 咎める視線があった。それでも僕は、この時引くことを考えていなかった。

「僕は、やっぱり放っておけない。桜井が僕を見捨てなかったみたいに」

 大学時代、僕には友達少なかった。唯一の話し相手と言って良かったのは、不思議なことに、自分とは真逆の存在だった桜井だ。彼がそばにいたから、僕は怪異と向き合うことができた。だから——怪異の最期を見届けることができたのだ。


 檜木は今、目を逸らしている。いや——もしかしたら、まだ話せる根拠がないのだと思う。

 それはおそらく——怖いから。

 じっと見つめると、桜井は屈んで僕に視線を視線を合わせた。

「何度も言うけど、俺はそんなにいいやつじゃない。お前だから見捨てられなかっただけだ」

 僕の頬に手を当てる。指先で軽く、まるで子供をあやすようにトントンと押される。

「坂尾に連絡すればいいんだな?」

 桜井は小さくため息をつき、風呂場を後にした。

 僕は、見た夢を反芻する。俯くと湯船に映る自分の顔が揺らぐ。

 夢であってくれ、と思う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る