ウォーターサーバーの怪④
4
湯船の湯気に、なんとなく生臭さを感じた気がして、深く息を吸ってみる。そんなにおいはしない。檜木の家のにおいがまだ鼻腔に残っているだけなのか、僕にはわからなかった。
昔のことを思い出していた。
大学時代は、僕の方が不満を持っても押し黙ることが多かった気がする。不満、というか遠慮だ。性格も、交流関係も真逆のなぜか気の合う友人を、手放したくなかったから、迷惑になりたくなかった。
一緒に住むようになってからは、そうもいかなくはなったけれど。
一時期、僕はよく夢を見ていた。その悪夢——僕はそうは思わないけれど——が、原因で僕は、最終的に入院する羽目になり、原因不明の悪夢は「女性の霊が憑かれていた」という結論になった。僕は真実だとも思うし、いまだに夢のようにも思う。それが要因で桜井と同居するようになったのだ。
僕に憑いていた女性は、桜井のことを「夫」だと思っていたらしい。その夢の影響で、僕はちょっとだけ、桜井のことが好きなのだ。親友、という意味ではもちろんなのだが、ほんの少し、恋という意味でも。だから、僕はこの同居が少し後ろめたい。
桜井と喧嘩をするのは、いつも「オカルト」関連だ。僕は詳しいわけではないけれど、インターネットが関わる趣味の人間だったら、オカルト掲示板くらい、たまには見る。「くねくね」とか、「八尺様」とか。ちょっとしたオタクならみんな知ってる程度のことだ。けれど桜井はまるで聞いたことがないらしかった。
僕たちの「怪異」への認識は齟齬がある。僕は怖いものが得意なわけではない。けれど少し知識があるから目につくというだけだ。だからなのか——妙なことには遭遇しやすいが。それを桜井は、僕が「憑かれやすい」体質か何かだと思っている。
まったく、ホラー映画じゃあるまいし。どっちが現実味がないんだか。
ため息をついた瞬間、脱衣所の扉が開く音がした。閉められた浴室の戸の向こうで、桜井の影が見える。バスタオルか、何かを取りにきたのだろう。すぐに去ってしまった。
僕は無意識にすくめた体の緊張を解き、再び湯に沈んだ。
散々な目にあったくせに、なぜ今も桜井は僕と住んでいるのだろう。常々、よぎる疑問だ。
——さっきは、嫌な態度をとった。
無臭の湯船に浸かりながら、僕は長く息を吐いた。
桜井は純粋に、僕のことを心配してくれているのだ。彼の生来優しい。そしていつも正しい。きっと檜木の件についても、多分、深追いはしない方がいい。僕には関係のないことだ。もちろんそうだ。けれど桜井はまだ、わかっていない。
桜井は常識の中に生きている。だから、きっと気づくことはないだろう。
深入りをしようとか、関わるまいとか、そんな気持ちなどお構いなしに、「それ」たちは存在している。悪い噂。曰く付き。呪い。心霊現象——怪異。うっすらと開いた隙間から、常に、曖昧に、僕たちに忍び寄っている。僕たちとそれらに明確な境界線などはないのだ。
ピチャリ、と天井から、湯の表面に水滴が落ちた。水紋が広がる。うっすらと映る僕の輪郭が歪んだ。
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