ウォーターサーバーの怪③


 夕暮れの中、僕たちは檜木の家を後にした。だんだんと薄い闇が住宅街を包んでいる。家に着く頃には、夜になってるだろう。

 昼間の日差しに温められた熱が、抜け落ちいくやわらかな風が体を包む。数時間檜木の家にいたため鼻が麻痺していたが、外に出てみると、風が運ぶ新鮮な空気に驚いた。


「まったく、人騒がせな」

 桜井はようやくというように深呼吸をした。

「いくらズボラだからって、引っ越しも考えてないのかよ」

 そう言い終えてから僕の視線に気がついて、桜井は咳払いをする。僕らも同じようなものなのだ。かつて大学時代、住んでいた部屋は瑕疵物件だった。

 その家もおかしなことは起こった。誰もいないのに子供の笑い声がしたり、テレビが勝手についたり。つまり、状況的にはよくある心霊現象だ。幽霊のような存在というのは、いようが、いるまいが、意識をするだけでなんだか精神が過敏になる。

 だから、住んでいれば慣れようと、麻痺をする。その感覚は僕も、桜井もよくわかるはずだ。それに僕だって一人暮らしだったら、耐えられなかっただろう。それに——物件を離れ難かったのは、僕の場合、引っ越したら、桜井と離れることになるのだと、思っていたから。


 じゃあ、一人暮らしの檜木は——どうして引っ越さないのだろうか。

 僕はずっと黙っていた。


「余島。何、考えてんの」

「うーん……檜木ってさ……気に入らないことがあったら、すぐ辞めてたよね」

「あー、確かに。サークルとか、バイトとかすぐ変えてたな」

 僕はあまり知らないが、グループで話している彼から出てくる話題が短期でころころと変わっていた記憶があった。辞めた理由は「朝が早いから」とか「バイトリーダーがムカつくから」とか「飽きた」とか……ある意味それほど自由な檜木は羨ましくもあったけれど。

「そう考えると……やっぱりおかしい気がする」

「社会人だと、学生より時間はないからじゃないか?」

「そう言われたら否定はできないけど……怖い、ってこともあるかも」

「怖いって、それこそ、今の状況が怖いんだろ」

 桜井は首をかしげた。

「そうなんだけど、そうじゃなくてさ」僕はちょっと唸る。「もしも、引っ越したとしてさ……同じ現象が起きたら、嫌じゃないかな」

「どういう意味だよ?」

 部屋にポルターガイストが起きるなら、引っ越せばいい。いくら時間がないからといって、律儀に部屋を使う必要もない。友人の部屋や、ホテルにでも行けばいいのだ。けれどそれも彼は思いつかない——状態なのではないか。

「いや、つまり……部屋じゃなくて、自分が……原因だったら」


 つまり——そう、自分に取り憑いている、その心当たりがあるのだとしたら。

 僕が言い切る前に、眉をひそめた桜井は足早に僕の前に立ち塞がった。


「なあ、余島。入れこむなよ」

「え?」

「お前はさ……変なところで共感するから」

「じゃあ、放っておけってこと?」

「それは……」

 言い淀む桜井に、僕は少し腹が立つ。桜井の視線が僕の腹部向いている。気がつくと僕は、臍の上で拳を握っていた。

「だって、余島が巻きこまれる必要はないだろ」


 桜井は少しだけ口籠りながらそう言った。彼は優しい。きっと本心だと思う。けれど、そう、何でもかんでも、「僕のため」なんて言うのは——ムッとしてしまった。

「桜井が心配してるのは、また自分が巻きこまれるってことじゃないの」

「そうじゃないよ、俺は……」

 押し黙る。うつむく桜井は唇をきつく閉ざして、肩を落とし、先導して歩き始めた。

「……早く帰ろう」

 桜井は口早に僕を促した。僕は後悔した。

 日没は全てが曖昧な色をしている。横目に見た行き止まりの路地裏に、夜の暗さが溜まっていた。

 僕たちはいつも、肝心なところで行き詰まる。

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