ウォーターサーバーの怪②
2
スーパーの独特な音楽とレジのバーコードを通す音が、不規則なリズムを刻んで聞こえた。
檜木が急に「コワイ話」なんて話題を持ち出したのは、僕をいじるためではなかった。
「……どうしてそんな話を?」
僕が聞くと、檜木は、少し目を見開いて、しばらくごまかすようにはにかみ口籠もっていたが、彼は口を開いた。
「……あのさあ。余島ってポルターガイストって詳しいだろ?」
「え、いや……」
詳しくはない。そう否定したかったけれど、いきなり水を差すわけにもいかず、僕は続きを促した。
「水が腐るって、フツーに考えたら、なんだと思う?」
「……密閉して、放置とか……水道管の不備とか?」
蛇口をひねれば飲み水が出る——それが当たり前の状態で、水が腐るということを、意識したことがなかった。
「そうだよなあ……」
檜木はまた押し黙る。何かぶつぶつと、悩んだように呟いて、おもむろにスマートフォンを差し出した。
「今度、うちに来てくれねえ? 詳しくはその時に話すわ。久々に桜井にも会いてえから、言っておいて」
*
それから数日後——さらに桜井に話してから、今に至る。檜木の家に行こうと決めたのは、「あくまでも旧友との再会のため」と桜井は念を押した。僕もそのつもり——そのつもりだ。もちろん。
僕と桜井は、心ばかりの手土産を持って檜木と待ち合わせをしている最寄駅に向かった。今日は晴天。朝の穏やかな日差しが降り注いでいる。子供たちのはしゃぐ声が聞こえ、電車の走る音がする。ありふれた休日を思わせている雰囲気。
僕はこういう時、不安になる。「ありふれたこと」に気づいた瞬間、どうして僕は、「ありふれている」ことに気づいてしまうのか。急に、世界から切り離されてしまったような、世界という在り方を知ってしまったような……それを誰かに見下ろされているような……。
はっとして意識を桜井に向けると、彼は横目で、僕を見ていた。ごまかすように、僕は笑った。
正直、夢想じみていることはわかる。だからまだこの不安は、桜井にも話したことがない。
「しっかし、檜木もこのあたりに住んでいたとはね。世間は狭いな」
桜井は、中断していた話題を再開した。僕は少しほっとして頷いた。
「まあ、地区も少し離れていたから……」
「確かに。家と反対方向の地区になんてわざわざいかないからな」
駅を支点にして、僕たちと檜木の家は正反対の地区にあった。スーパーが駅の付近だから、彼も仕事帰りの行きつけなのだろう。
「それにしても——」
桜井は言葉を止める。彼が言いたいことはわかる。
檜木から語られることは、一体なんなのか。
そのまま言葉は紡がず、桜井はごまかすように笑った。そのまま、会話は陽だまりに吸いこまれていく。朝の住宅街は、ひっそりとしている。誰もが僕らの会話に、聞き耳を立てているみたいに。
駅にたどりつき、待ち合わせ場所にいた檜木を見つけた。彼の私服のセンスは大学時代と変わらず、派手な服が好きなようだ。桜井と話し始めると、一気に大学時代の雰囲気が増す。僕は当時と同じように、話が弾む二人の会話を傍らで聞いていた。
休日であるせいか、檜木のまとう甘い香水のにおいが濃く、風に乗って流れてきた。
檜木の住むアパートの外観は、新しさと、懐かしさがほんのりと入り混じっている印象だった。古いアパートをリノベーションをしたらしい。僕は咳こみそうになるのを抑え、そう語る、隣を歩く檜木を覗き見る。やっぱり、香水がキツすぎる。大学時代でもこれほどではなかった。
檜木の部屋は角部屋で、一番奥にあった。部屋の扉を開けた瞬間、僕たちは檜木の香水の匂いの理由がわかった。
人の家の匂い——生活臭は、それぞれ独自のものがある。けれど、檜木の家はそれではない。ぬるい風に、生臭さが絡みついて鼻をつく。
停滞したにおい。まるで排水溝が詰まったかのようなにおい。何かが腐ったにおい。芳香剤が意味を成さず、その嫌な空気の表面だけを包んでいる。一言では言えないけれど、とにかく——誰も気分はよくないだろう。ちらりと桜井に目を向けると、彼もかすかに、顔をしかめていた。
うっすらとした明かりの中で見える部屋は、特にゴミが溜まっている様子もない。それなのにどことなく漂う悪臭が不気味だった。
玄関に立ち尽くす僕たちの様子を見て、檜木は諦めたような表情で笑い、何も言わずに部屋の窓を開け始めた。気にしないで、とも言えない。微妙な空気が流れる。窓から吹きこむ空気は、嫌なにおいと混ぜられて、少し薄まって吹き抜ける。
「やっぱりそういう顔になるわなー」
檜木は水の入ったペットボトルを人数分テーブルに置いて一息つき、腰を下ろす。僕と桜井はそろそろと部屋に入った。
「悪いなあ。なんだかんだ落ち着けるのは、家でさ」
僕たちが腰を下ろすと同時に、ペットボトルのキャップを開けて一口飲んだ。
「……まあ、ひとまず落ち着けよ」
かすかに息を吐いて、檜木は話し始める。
「さっきも話したけど、この家はリノベーションされてる……でも実際、いじられたのは外側と部屋部分だけ。ガスや水道はそのまんまなんだよ。俺、料理はIHだからいいんだけど——水は普段使いするだろ。だから、ウォーターサーバーを買ったんだよ。普通のやつじゃなくて、水道直結型のな」
親指で台所を示す。薄暗い廊下に、真新しい白い箱が置かれている。
「水道水ウォーターサーバーってやつか」
桜井が聞くと、檜木はうなずいて立ち上がり、二つのコップにウォーターサーバーの水を注ぎ、僕たちの前に差し出した。
僕と桜井は目を合わせる。飲めということだろうか。桜井が先にコップを取る。僕もコップを手に取り、少しだけ口に含んだ。僕たちは顔をしかめた。
まず生臭さと、錆臭さが鼻の奥に広がる。口の中にまとわりつくぬめりと、酸味、苦味——一言では表せない——「まずい」とすら、形容できない。
「……浄水器壊れてるんじゃないか?」
「こ、これ……本当に飲んで大丈夫?」
「ああ、よかった。俺だけじゃあないんだ」
檜木は長くため息をついて、少し笑う。
「浄水器の問題じゃない。台所の方だけじゃなくて、シャワーも、風呂も。トイレの水も。市販のだけど、水質チェックとかもしてみたんだよ。何にも問題ないらしい」
「いや、ちゃんと調べてもらった方が……」
僕はペットボトルの水を飲み、そう言った。サラリとしていて美味しい。水をこんなに美味しいと感じたことはなかった。
「それはそう。管理人に頼んではいるんだけど、まだ予定が決まんなくてさ」
「ちなみに、いつからこんなことに?」
「一ヶ月くらい前かなあ……」
「一ヶ月も放置してるのか!?」
桜井は飲みかけていた、まともな水にむせながら、檜木を訝しんだ。
「いやあ、忙しくてさ」
「お前、そういうところあるな!」
桜井は呆れたように息を吸って、軽く咳こんだ。檜木は確かに大学時代ズボラな面があった。講義の遅刻やサボりは数え切れない。
確かに——生活をしていく中で、慣れや麻痺もあるだろうが、このにおいを、ライフラインに関わる水を放置するだろうか。
「まあ、なんとかなっちゃうからさ」
冷蔵庫の脇、部屋の収納スペースから覗いている大量の水が入った段ボールを檜木は見やった。
「……でも、つまり、原因は水道だよね。業者は呼んだ方が、いいよね」
「うん」
「うんって……」と桜井が眉間のシワを指で押しこんで言う。
「あのさ……これがポルターガイストってこと?」
僕が尋ねると、余島、と桜井が僕の背中をついた。
檜木は軽くうなずいて、そうだよな、とうなずいた。
「お前はそっちの方が気になるか」
「いや、だって……言い出したのは檜木の方だから」
「そうだな、悪い悪い」
軽く笑い、檜木はまたペットボトルの水を飲んだ。
「まあ今、こんな感じだから、隣人から苦情がきたりもするわけよ。だから俺は事情を話す。お宅もそうじゃないかって聞いても、不審な顔をされるだけだよ」
「じゃあ、他の部屋では起きてないってことか?」
「そうじゃなかったら一ヶ月も放置されないだろ」
「確かにそれもそうか……」
「だから、最近はずっとペットボトルの水で生活してる」
「ネットで買えばいいだろ」
桜井が首を傾げる。そうすると、檜木は少し言葉を濁らせた。
「そうなんだけど、受け取る時間もないっつーか。溜めておくと腐るんだよ」
「開封しなくてもか?」
桜井がまじまじとペットボトルの山を見る。檜木は大きくうなずいた。
「え、じゃあ、この量は……」
「大体は二日三日が限度だな。飲料水、と入浴用と……さすがに風呂に溜める量は無理だから、シャワー程度でしか使えねえけど。だから行ける時は銭湯。どっちにしても出費がエグいわ」
ね、マジ怖くね? と檜木は肩をすくめる。
「そっか……」
……わざわざもったいぶって、家に呼んでまでする話ではない。もしかしたら、ただ今の現状を誰かに共有したかっただけなのかもしれない。
本当に、そうだろうか。
桜井の表情を覗き見る。呆れ返った顔をして、どこか、安心しているようにも思える。
だけど、僕はまだ、引っかかるものがある。
檜木は、この状況を、出費がどうこう、というだけじゃなく、おかしいと思っているはずだ。
彼の水事情を聞く限り、トイレだけはどうしようもないようだ。水が溜まっているのだから、自然に悪臭は発生してしまう。
においの原因はわかったが——根本として何も解決してはいないが——家に置いておくだけで水が腐る——というのは、さすがに、理由をつけづらい。
ならば、ポルターガイストとでもした方が彼にとっては都合がいいのだろう。
「……引っ越した方がいいんじゃないか?」
桜井がそう口にすると、檜木は「そうだなー」と生返事を返し、またペットボトルの水を飲んだ。
ごぽ、とウォーターサーバーが動く音が聞こえた。
その瞬間、檜木の表情がひくりと固まるのを、僕は目にした。
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