記憶する部屋
記憶する部屋
桜井財(会社員)
記憶って、どこまで続くと思います?
いや、歳をとって忘れるとかそういうのとは少し違うんですよ。写真とか、動画とか、日記とか、SNSにあげるとか。記録したものに引っ張られて、思い出すことがあるでしょう。
自分で記録したもの以外でも、場所、もの……。例えば家族旅行の思い出の場所だとか、小学校の自分の机とか、お気に入りの場所であったり、苦い記憶を思い出すようなものだとか。
そういう媒体が人に影響を与えることってあると思うんです。
大学一年の頃に、怪奇というか、身に妙な現象が起きていた友人がいました。そいつは余島と言います。
余島とは大学で出会いましたが、同郷であること、高校時代に弓道をしていたことで意気投合しました。余島は大人しくて、周囲から見れば地味な印象だったと思います。けど俺からすれば、妙なところで豪胆というか、腹が据わっているというか。新歓の時には、柄にもなさそうなラッパ飲みをしてぶっ倒れていました。当然未成年飲酒は、よくはないことです。でも後で彼の近くにいた同期から聞いた話だと、気の弱い同期の代わりに強要された酒を引き受けていたようでした。
本人は「グズで断れないだけ」と言っていたものの、彼は些細な気配りができる人間です。
グループワークでの円滑な意見の交換に必要な質問をしたり、話す人間の言いたいことを補強するような投げかけをしているところをよく見ていたので、出来る奴だなあと思っていました。余島は人のいいところを見つけるのがうまかったんです。
俺の名前、財って書いて「たから」って読むんです。結構大層な名前をつけられてしまったなあと自分では思っていて。ちょっとコンプレックスだったんですよね。そういうことを初めて話したのが余島でした。
そんな大したことはできないと思っていたんですけれど、お世辞でも余島に褒められると嬉しかったです。人以上に優しくて、信頼のおける友人です。
同時に、放っておけば損をするやつだと思いました。実際彼は、人だけじゃないものまで引き受けてしまった。
余島が怪異に遭ったというか、取り憑かれていたのか、いまだに俺はわからないですが、おかしくなった時がありました。詳しくは余島に聞いた方がいいんじゃないかと。俺はあの時のことを語ることはできないです。
彼のお祓いに行った後は、目立ったおかしさはなかったので、多分大丈夫なんだと思います。けれど、俺が心配でした。
幽霊って、かわいそうだとか、同情するとつけこむとよく言うから……霊については、いるかいないかっていうのはわかりませんけれど、俺は少なくとも死者を否定したり面白がったりはしたくないので、そういうのは信じるようにしています。生ている人間に感情があるように、彼らにもそういう意思とか、あるんじゃあないかと。
とにかく、余島は寛容な、というより断るのが苦手なやつだったので、俺はそこにつけこまれたんじゃあないかと思っています。放っておいたら、また何か妙なことになるのではと、俺は余島にことあるごとつきそいました。
「もう大丈夫だから」
余島は気まずいようでした。俺から聞いた話と、自分の行動も覚えているようで、あまり俺の顔を見ようとしません。
「いや、心配させてくれ。俺のせいでもある」
「桜井が責任感じる必要、ないんだって……」
彼が妙なことになる前に相談を受けていて、うすうす変化を感じていながら、俺は何もできなかった。気づけていたのは自分だけだったのに。
俺は余島が好きです。それが恋愛感情なのかどうか、わかりません。……当時も今も。あんまり抱いたことがない感情でした。守りたくなるというか、そばにいてほしいとか……。彼が妙なことになっている時に、あてられたのかもしれない。ただ、それがなくても俺は、彼を親友だと思っていたし、大切だということには変わりないです。
……とにかくまあ、そういうところがあって。俺は彼を、放っておけなかったんです。
「僕なんかに構ってちゃあ、自分の時間ないでしょ」
そう言われ、俺はちょっと考えました。講義やサークル、バイトの時間を抜けば、余島と関わる時間はむしろ少ない。自分の時間がないというより、余島を心配している時間が長かった。
そこで、余島に一緒に住むことを提案しました。
余島は戸惑っていましたが、説得の末、最終的にはうなずいてくれました。
学業もバイトもあったし、早急に決めたかったので部屋については家賃が安めであればいい、二人住めればいいと、それくらいしか条件はつけませんでした。
大学付近の小さな不動産で、俺と余島は、あるアパートの一室を見つけました。内見に行ったところ、二階の角部屋で築三十五年の、畳ばりの少し広い部屋でした。狭いベランダが見えるガラス戸、台所と、少しガラスの曇った食器棚、前住人が置いていったのか、年季の入った縦長のテーブルがありました。トイレとバスは別、襖で仕切られて、二つ小部屋もあり、二人なら十分の広さでした。日当たりもよく、雰囲気は昭和か平成初期のドラマで見た家庭のイメージというか、懐かしい感じがしました。スーパーも近く、大学へのアクセスも寝坊に慌てない程にはよかったです。
俺は、祖父母の実家を思い出して、その部屋が気に入ったんです。値段も破格でしたから。
でも余島は、その時少しだけ、曖昧なうなずきを見せていました。
以前彼に起きたことを考えると、余島には何か感じるものがあったのかもしれない。そう思い、物件の資料を見ている彼に尋ねました。
「何か、気になることでもあった」
「いや……べつに」
「何でも言ってくれ」
「……安いにしても、ほんとうに安いなって」
余島はそう遠慮気味に告げました。
確かに、一人用でも可能とはいえ、複数人を想定している住居にしては、安いと思いました。俺はリノベーションとかをしていない物件だからじゃないか、と思っていました。なぜ余島が、不安を滲ませていたのかがわからなかった。俺は、事故物件、心理的瑕疵物件という概念を知らなかったんです。
内見に同行してくれた不動産の営業さんに聞いてみると、三つ前の住人で、一人の男性の自殺があったそうです。あいだ二つの住人には、何もなかった、と、言われました。その表情は妙に張りついているように感じました。
因果をつけるのもなんですが、やはりそう言った話を聞いてしまうと、部屋にも妙な意識が湧いてしまった。
「そうですか」
余島は部屋に視線を向けて言いました。不安げな怯えより、どちらかといえば「同情」に近しい気がしました。一度やばいことになっているというのに、彼のこういう優しさが、危ないと思いました。
「やっぱり、そういうの気になりますか?」
不動産の営業さんが、不安そうに尋ねました。
「あー、えっと、そうですね……」
俺は一度、保留をすることにしました。ほとんど、断るつもりで。
とは言え、早く部屋は決めたかった。俺は奨学金を返すこともありましたから、やはり家賃の安さは譲れず、あの物件と同等の値段というのはなかなか見つかりません。
学食で俺たちは、物件の情報交換をしていました。チラシで安い物件を見つけるものの、駅やスーパーから遠かったり、生活利便があっても、ネットの評判を見ると、だいたい事故物件とされるものでした。
「余島は何か、つけたい条件はないのか?」
「特にない……やっぱり無理に一緒に住まなくても……」
彼はそう言いかけるのですが、こうなると俺も意固地です。テーブルに手を置いて、彼に詰め寄りました。自分は多分、ちょっと威圧的な顔をしていたかもしれません。余島は遠慮がちに首を縮めて言いました。
「じゃあ、桜井がいちばん気に入ったところがいい」
そう言われて思わず、俺は、手の下敷きになったチラシに目をやりました。
目に入ったのは、あの築三十五年のアパートでした。真っ先に切り捨てる予定だった部屋を、俺は忘れられなかった。
俺は、両親が共働き、しかも父親は単身赴任で、母方の祖父母の家に預けられていることが多かったんです。だからなのか、畳の部屋とか、懐かしい匂いがする場所に弱くて。それに余島と住む新居の内見の、いちばん最初がそのアパートだったし、印象深かったのかもしれません。誰かと一緒に住むのなら、祖父母の家のような場所がいいと、思っていたところもあります。
「何も起きなかったそうだし、大丈夫だよ」
余島はそう言いました。自分は怖がりだというくせに、まるで気にしないそぶりだった。
「余島、無理してないか?」
「人が亡くならない場所なんてないから、気にしてもしょうがないよ」
聞くと、父方の田舎に住む伯父さんは、彼が幼い頃、家屋で一人、心不全で亡くなったそうです。最初に見つけたのが、夏休みで遊びに来ていた余島だった。伯父さんを悼む気持ちや、葬儀やら何やらの大変そうだったという記憶しかなく、死因がどうであれ、人が亡くなった家というのについては、考えてもしょうがないという感じでした。
「桜井が気にしないなら、僕は全然大丈夫。……どう?」
迷いました。実際言ってみれば、気にしないわけではなかったです。ただ余島が、心配だから……と、当時はそのつもりでした。今思うと、俺は余島の心配をかさに、自分がいちばん「事故物件」ということを意識していたんでしょう。その時にやめておけばよかったのに、俺は、結構負けず嫌いというか、意固地になりやすいというか……俺だけ怖がるのは、嫌でした。余島から問いかけられたことで、俺は強がりました。
「じゃあ、そうしようじゃあないか」
俺は、不動産にその場で連絡を入れました。
そうして、俺たちは同居を始めました。
互いにまだ、もと住んでいた場所の荷物が少なく、引っ越しにはそんなに手間はかかりませんでした。友人に引っ越しと余島との同居を伝えると、経緯などを聞かれることが多かった。家賃の安さに、事故物件であることを話さなければならないこともままあり、友人たちには何か出るんじゃないかと茶化されたりすることがよくありました。
それでも、最初の数週間は特に異変も起こらずに、生活は平穏そのものでした。俺や、余島にも影響は何もありません。もともと気が合ったもの同士、喧嘩もすることもなく。ずっと修学旅行かお泊まり会が続いているみたいで、楽しかったですね。
一ヶ月が経とうとしたある日、アパートを紹介された不動産から、連絡が入りました。
「その後、いかがでしょうか?」
「ああ、別段何も……普通に過ごしてますけれど。ええと、何か問題でも?」
俺は、何か契約に不備があったのかなと思い、ちょっと不安になりました。
「いいえ、いえ、何もないのであれば。そうですか」
そう言って、あとは丁寧な挨拶で、電話は切れました。
いち契約者に、不動産から連絡が来るものなのか、俺はあまり知りません。小さな不動産だから、アフターケアが手厚いのかなと俺は思いました。
異変が起き始めたのは、同居が二ヶ月目に入った頃でしょうか。
夕方、サークルもバイトもなかった俺たちは、大学から一緒に帰りました。アルミ階段を登り、足音がカンカンと二人分響く。
カンカカンカカカン、カカン、カン、カン。揃ったり、バラバラになるあの音が好きで、俺はよく耳に意識を向けて聞いていました。
そのせいで、すぐ気づいたんです。
部屋ドアの前で立ち止まると、パタパタ、と軽い足音がするんです。
違う部屋かな、と思いましたが、聞こえてくるのは、目の前のドアの奥から。なら、部屋を間違えたか、と、番号を見ても、そこは明らかに自分の部屋です。
聞き間違い、かもしれない。そう思いましたが、その一瞬の音が、どうにも気になりました。
俺が、鍵を開けずに突っ立っていると、余島が不思議そうに、俺の顔を覗き込みました。
「え、なんか……あった?」
「あ、いや……」
気にするから気になるのだ。余島の前に立ち、南無三、と俺は鍵を開けて、ドアノブを捻りました。
部屋はしん、として、誰もいませんでした。俺と余島の生活のあとが、夕焼けに照らされているだけ。俺は安堵しました。……まあ気になった分、静寂は異様に思えましたが。その日はそれ以上何もありませんでした。
けれど次の日、朝食中に余島が夜中にあった異変を告げました。
「昨日、咳で寝れなかったり……した?」
「え? いや……」
確かに部屋は乾燥していましたが、特段眠れなかったことはありませんでした。ふーんと言う余島の目の下には、うっすらクマがありました。
「まあ、一応聞いただけ……」
「……なんかあったんだな?」
「……うん……」
俺と余島は、それぞれ個室を持っていました。居間を挟むように小さな部屋があって、俺は隣の号室と接する側の部屋で、余島は外側、角側の部屋でした。……ええ、だから寝室はもちろんバラバラです。
それで、余島が言うには、夜にふと目が覚めると、咳が聞こえたそうです。軽いものではなくて、重い風邪だとか、呼吸困難だとか……のような、ひどい咳だったそうです。籠ったような響きがしていたので、俺が咳き込んでいるのかと最初は思い、居間側の襖へ視線を向けていた。けれど、すぐ気がついた。咳は、居間の方……俺の部屋がある方向からではない。
自分の背後から聞こえている。
そうわかったそうです。
俺たちの部屋の作りは対になっていました。居間へと繋がる襖、畳の部屋、反対側には押し入れの襖になっている。
つまり余島が聞いた咳は、押し入れから聞こえていた、と言うことになるんです。
もちろん、彼の部屋の壁向こうは、外です。なので、隣人の咳ということもあり得ないんです。
余島は身動きを取ることも出来ず、そのまま息を潜めて一夜過ごし、朝方にふっと気絶をしたらしいです。起きたらもう、咳は聞こえなかった。押し入れを開けても、自分の荷物をまとめた段ボールが置いてあるだけだったと。
俺も実は、と、部屋から聞こえた足音のことを話しました。
「住職さんに相談してみるか……?」
俺たちにはちょうど、余島のお祓いを頼んだ縁で知り合いになった住職さんがいました。
「うーん、別に何かされたって訳じゃ、ないし……」
「また手遅れだとか嫌だぞ、俺は」
そう言うと余島はばつが悪そうに苦笑していました。
「ま、まあ、それは……そうだね。また桜井に、迷惑かけるのはね」
長年のつきあいで思いますが、余島にはほんとうに気をつけてほしい。怖いだなんだ言っておきながら危機感がまるで無さすぎるし、迷惑になるかどうかじゃあなくて、自分の・心配を・しろっ・て、俺はずっと言ってるんですけどね。
そう強く出られればよかったのですが、彼が引け目に感じてしまうのも嫌なので、もう少し様子を見よう、と話は落ち着きました。
「よし、余島、今日は俺のとこで寝ろ」
「え……部屋を交換するってこと? そこまでは……」
「いや、俺もやだよ。俺の部屋で寝よう」
「ええっ、いや、それは……」
余島はひどく動揺していました。なんだか、思春期に入った弟のような反応をされて少し寂しかった。きっと、また俺に迷惑をかけたくはないとでも考えているのだろうと思いました。
「嫌か?」
「い、嫌、じゃないけどさ……」
「じゃ、決まりだな」
「ああ、うん……」
ひとまず出来るのは、なるべく妙なことから遠ざけること、何か起きたら俺が近くで対応できるようにすること、だけでした。余島は気まずそうでしたが、むさ苦しさと狭苦しさは我慢してもらうしかないです。
そして夜。部屋は布団を二枚敷いたらやっぱり手狭でした。寝転がってみると、合宿の時に鮨詰めになった大部屋よりも近かった。
「あのさ、僕、やっぱ部屋に戻るよ……」
「じゃあ、俺もそっちに行く」
そんな問答を就寝直前まで繰り返し、翌日一限がある余島が折れました。
「……わかったよ、おやすみ……」
「なんか気づいたら、遠慮なく起こせよ」
「はい……」
彼が目を閉じた後も、俺はしばらく起きていました。何かあるかもしれないと思うと、少し警戒して目が冴えて。でも余島の半端に口が開いた、口呼吸の寝息を聴いているうちに、俺もいつの間にか寝落ちをしていました。一晩中、起こされることはありませんでした。
はっと意識だけが浮上して、瞼の裏にはわずかに明るい気配がありました。朝だ、と思い、開かない目を擦っていると、居間からテレビの音がかすかに聞こえてきました。それから、トントントンと小気味よいリズムが耳に届き、いい匂いが漂い、ああ味噌汁だ、と、俺は思いました。もう余島は起きて、朝食を作っているのかなと。
まれに早く目覚めた時、母親が忙しいにも関わらず朝ごはんを作ってくれていた記憶を思い出して、懐かしくて、いい目覚めだなあと、俺はもう少し寝ていようと寝返りをうちました。
すると、隣に気配を感じました。小さく息がかかる。うっすら目を開くと、まだ薄暗いなか、背を丸めて余島がすうすうと寝息をたてていました。
え? って思いましたよ。夢かな、って。しばらく、理解できないでいた。
じゃあ襖の向こうから聞こえてるこの音と、この匂いは何なんだよって。
コトコトと鍋の蓋が揺れる音がする。
ものすごく、平和な朝のはずなのに、俺は動悸が止まらなかった。
体を起こせないまま、俺は冷や汗ばかりを流して、気を落ち着かせるために余島の寝顔をじっと見つめていました。アラームが鳴り、目を覚ました余島は俺の顔を見るなり、ひどく驚いていました。
「おとがする、なんかいる」
俺は小声で告げました。余島はえ、と、まだ寝ぼけ気味に狼狽していました。
彼が目を覚ましたことで少し落ち着いたので、体を起こして襖に近づき、しばらく耳を当ててから、そっと襖を開きました。
包丁の音も、鍋の音も、味噌汁の匂いもなくなりました。ただ、まるで誰かが、さも今席を外したかのように、テレビだけはついていました。俺たちは顔を見合わせ、無言になりました。情報バラエティ番組の朗らかな声が、しんとした居間に流れていました。
一応、鍵や、トイレやバスを見回りましたが、自分たち以外の出入りした痕跡はなかった。二度寝も出来なかったので、一限もないのに余島に同行して大学まで行きましたよ。
徐々に、こういう変なことが増えていきました。家鳴りのような小さいものから、はっきりとした怪異まで。玄関扉の向こうで感じる、廊下を歩く音。鍵は閉まっているのに、ガチャリと開いてドアノブが回されたような音。冷蔵庫を開く音。プルタブを開ける音。溜息。咳。風呂のすりガラス越しに見える、洗面台の女性の影。
あげていけばキリはないですが、ふとした瞬間に「自分たち以外の誰かが住んでいる」気配を感じました。
特に怖いのは声でした。咳だ、影だはまだ、聞き間違いだ見間違いだと言い訳ができるじゃあないですか。でも、声、発音、発声は……テレビと、すぐ側で聞くものは、違う。そうでしょう。
ある夜、俺と余島は、お互いに課題のレポートに追われていて、それぞれ個室にこもっていました。発表まで教授以外に見せてはいけないという決まりがあったので、一緒に課題が出来なかった。集中するため互いの姿も見えないように、襖を閉めていました。パソコンに向きあっていて、だんだん相手の気配も気にならなくなってきた。その時、声は急に聞こえてきました。
二人ともー、お風呂わいたよ。
ほら、わいたって。
姉ちゃん、先入っていーよっ。
はっきりとした会話でした。女性の声、それよりも若い、けれどちょっと大人びた女の子の声。それと多分、小学生の男の子でしょうか。襖越しに聞こえて、音量を絞ったようにまたフツと消えました。
俺と余島はほぼ同時に襖を開けました。居間にはもちろん誰もいません。テレビもついていません。でも、さっきの会話は間違いなくそこにあった。
ありふれた家庭の会話ですよね。だからこそ、俺はゾッとしていました。
隣人の声かもしれない、と思いたかったのですが、隣は家族住まいではなく、一人暮らしの女性だと聞いていました。近隣の住人もありえない。だって居間から聞こえたんですから。
それにしても、変なんですよ。不動産からの情報では、この部屋で亡くなっているのは男性一人のはず。
「いったい何人いるんだ、あの部屋」
俺たちは近くのファミレスに避難し、頭を悩ませていました。
「一回、不動産でちゃんと聞いてみよう」
余島の提案に乗り、夜は遅いですがダメモトで担当営業の連絡先に電話をかけてみました。
幸い、営業さんとすぐ繋がりました。
「ええと、部屋のこと、ですよね」
そう言っていたので、もしかすると、来るかもしれないと相手も予感していたのでしょう。
「あの……ほんとうに、一人しか亡くなっていないんですか?」
「部屋で、という意味では、確かです。どうしてか皆さまこの質問をされるので、何度も確認していますから」
同じ質問をされて、本人も不安に思うところがあったのでしょう。さらに心理的瑕疵を理由に退去者が増えたらもう言い訳が出来ないと思ったのか、より詳しく事故物件の原因となった住人のことを教えてくれました。
住んでいたのは四人家族で、夫、妻、その子供の、当時は中学生の姉と小学生の弟。途中、夫は単身赴任で別の地に移り住んでいたそうです。妻と子供たちは夫の出張先へ小旅行へ行き、その途中トラックとぶつかる事故に遭い、即死だったそうです。一人残された夫は、アパートで遺品整理を行った。退去前日に包丁で首を切り、亡くなったとのことでした。
その次の入居者は、フリーターの独身男性、その次は単身赴任の男性でした。現在は知らないが、どちらも、部屋を借りている間に亡くなるということはなかったそうです。
「確かに、『部屋』では一人ってことだな」
通話を切り、俺と余島は結局唸りました。最低四人は亡くなっている。
「三人家族の声がする理由は、何となくつきそうだね……」
「うーん……普通……普通って言うべきか、こういうものってその部屋で死んだ人間が出るものじゃないか?」
「……確かに、なんか……妙な感じ。部屋に思い入れが強かった、とか」
腑に落ちないところはありますが、詳しくは知ろうとしませんでした。俺たちはそれで少し、不可解な現象に理由をつけようとしていました。
押し黙るなか、余島は、少し軽口のつもりだったのか、弱く笑って言いました。
「そう言えば僕ら、聞くけど見たことってあまりないよね……」
そんな話はするものではないですね。
その夜、相変わらず俺の部屋で二人寝ていましたが、寝つきははっきり言って悪かったです。襖を閉めるので風通しも悪く、蒸し暑く、連日の心霊現象に神経が過敏になっている。俺も余島も、目があうたび気まずい沈黙が起きました。修学旅行よろしく、世間話をぽつりぽつり交わし、結局話題は、部屋での現象についてに帰結します。
「なあ、思ったんだけど……」
「……なに?」
「俺たちが何かを聞く時って、襖とか、扉とか仕切りがあるよな」
「ああ、確かに。……桜井? まさかとは思うけど」
「ツーカーだな。嬉しいよ余島」
「いやあーだな……僕は……開けられたりってことはこれまでにないじゃないか……このままさ、お互いの縄張りを守っていこうよ」
「今は俺たちの家でもある。もしも開けてみて、いたとして、幽霊でも話し合いは必要だとは思わないか」
「思わない……」
余島は何度も首を横に振りました。でも俺は、仕切りを開けていれば現象は起きないのではないか、と言う仮説を確かめたくなりました。現象は不気味であったものの、危害を加えるようなことはありませんでしたから、もし見てしまっても大丈夫なんじゃあないかと思っていました。……慣れてきていたからか、油断していましたね。
「さくらい〜……」
服の裾を引っ張り止めようとする余島と服の型崩れを無視し、俺は、少し耳をすませてから、勢いよく襖を開きました。
俺の考えは全く間違っていたのだとわかりました。
暗がりの居間に一人ポツンと立つ、男が見えました。どこか疲れている様子の、中年の男性です。
だらんと下げられた男の手には包丁が握られていた。ぼんやりと窓の方向を見つめながら、男は包丁を持った手を首筋へ躊躇なく突き立てます。肉に刺さって切れる音って、意識して聞いたこと、ありますか。
血が噴き出る様子を、俺たちは絶句して見つめていました。あまりにも恐ろしくて、身動きも取れず、息も出来ず。そしてこれまでより遥かにはっきりとした怪現象に、頭が追いつきませんでした。男はぱっくり抉れた首をぐりんと動かして、俺たちの方を見ました。飛び出るほど目を見開いて、スローモーションのように顔を悲しく、苦痛に歪めていき喉から絞り出す慟哭を——聞く直前に、俺は襖を勢いよく閉め、施錠がわりにつっぱり棒をしました。不思議なことに、戸を閉めるともう声は聞こえず、嫌なほど静寂が広がりました。
ひどい動悸で、全身に冷たい汗が浮き震えが止まらない。はっとして余島を見ると、彼は青い顔をして気を失っていました。息があることを確認し、なんとしても余島を守ろうと抱えました。俺は猛省してこれ以上恐ろしいことが起きないように願いながら、じっと閉じられた襖を見つめて夜を明かしました。
翌日俺たちは飯も食わず、というか食えず、知り合いの住職さんのもとを尋ねました。わけもわからない頭だったのが、住職さんの顔を見たらなんだか落ち着いてほっとしましたね。
事情を話し、部屋に来てもらい、経をあげてもらうことになりました。これで、余島の時のように終わると思いました。
ええ、思いました。……そうではなかった、ってことです。
自分たちでも経を覚えて、一日一回は読みました。それでも、起きるんです。足音とか、笑い声とか、誰かがすれ違って生活をしている。誰かの気配が、常にある。
あの男を見て以来、扉や襖など仕切りを開ける時はひどく注意を払うようになってました。確実に「いる」と思う空間に帰るのは、なんとも気が進まなく、気の休まらないものでした。
互いに限界が来ていたと思います。重い足取りで大学から帰り、玄関の前の扉に立ち尽くして、俺から切り出しました。
「……引っ越そうか」
余島は無言でうなずきました。
「ごめんな、俺のせいで」
彼に危機感がないなどと言っておきながら、俺もよっぽどでした。正直怪異なんてものをほんとうに理解すると言うことは出来ないし、対応なんてそれこそしようがないんですよ。だから余島の方がよっぽど、怪現象については慎重に考えていたのかもしれない。
「桜井のせいじゃないって……それにほら、楽しいことも、たくさんあったし」
「……おう」
「あのさ、僕……避けてたけど、ちょっと調べたいことがあるんだよね」
その日は部屋に戻らず、近所のネットカフェに向かいました。
余島はカップルシートを取り、つくなり検索を始めました。俺がシャワーから戻ると、余島はパソコンで掲示板やウェブサイトを見ていました。
「何してるんだ?」
「オカ板の検索とスレ立て……あと、事故物件の検索」
「おかばん……何それ」
「えーと……怖いものみたさの人の集まり」
「怖いもの、嫌いなのに見るのか?」
「人の経験談を通してなら、好奇心が勝ることもある……よ」
少し居心地が悪そうに、余島は言いました。
余島は、あのアパートと部屋について、情報を集めるつもりみたいでした。
彼が実際立てたスレッド名はこれです。
【急募】角部屋の心霊現象に心当たりある?
某県の築三十五年のアパート、二階の角部屋です。部屋を借りているのですが、変なことが起きるんです。
ええ、下手したら個人情報ですよ。俺は当時、ネットリテラシーというものがそれほどわかっていなかった。むしろ、余島の方が詳しかったと思います。けれど彼はあえて、情報を晒していた。それから、体験した怪現象についてを書き記して行きました。返信は芳しくありませんでした。それについて書き込めば自分の個人情報もバレるかもしれないし、住んでいた人間は存命していて二人ですから、出会う方が難しいです。
余島は別のウィンドウを開き、あのアパートの部屋について事故物件サイトのレビューを見ます。そこには、コメントが入っていました。
「隣の2××号室に住んでいました。母親と姉弟と思われる声が聞こえ、隣人の声かなと思っていたら、隣誰も住んでいませんでした」
「真下に住んでいたけど、パタパタ子供の走る音がしてて、上階の人子供いるんだーと思ってたら独り身の男性だった」
「部屋に住んでいました。当時フリーターだったので、安さが有り難かった。包丁持った男の人がリビングにいるのを見て、人間だとしても普通に怖すぎて引っ越すことにしました」
「深夜部屋の前を通りかかったら、ひどく咳き込んでいる声が聞こえました」
それの返信。「それ、自分です。喘息持ちだったので、おさまるまで押し入れにいたんですけどね。お騒がせしました」
さらに返信。「ほんとですか! 無人だと聞いていたので、怖かったですw ×年前の謎が解けてよかった!」
さらに、返信。「×年前だとその時、もう自分、住んでないですね……僕じゃないです、それ」
咳。押し入れ……。俺は眉をひそめ、首を傾げました。
掲示板に、新たな書き込みがありました。
「そこの部屋、住んでたわ。〇〇アパート?」
余島がほんとうですか、と返信を書くと、続きの書き込みがありました。
「なんか、家族の声とか、咳の音が聞こえたなあ。冷蔵庫のビール開けて飲んでりゃ全然誤魔化せたから、転勤するまで住んでたわ」
冷蔵庫、ビール……プルタブの開く音。
俺はなんかもう、頭が痛くなりました。公共の場で叫びそうになるのを抑えて、頭を抱えて唸りました。起きた現象を全て繋げるのも、なんか、あれなんですけど、そうとしか思えなくて。
「ど〜〜〜〜うなってんだよ……」
「い、生き霊みたいな?」
「生きてる霊も、死んでる霊も住んでるってことか?」
あの部屋はそんなに、禍々しい場所なのか? 俺はなぜか、虫かごに蝉と抜け殻がみっしり入っている様子を思い浮かべました。
「でもなんか、うーん、釈然としない……」
余島はこめかみを抑え、キーボードを叩いていました。掲示板に、苦悶して書き込みを入れます。
「実は、あなたの霊も出ています。冷蔵庫開けてビール飲んで、深夜番組を見ています」
同じ人からと思われる、次の書き込みが来た。
「草 生き霊飛ばすほど思い入れねーわ。俺はあの部屋が残留思念とか残りやすいスポットなんだと思ってる」
「それって幽霊とどう違うんや?」
別の人から質問が来た。それに対し、前住民と思われる冷蔵庫の彼が書き込みました。
「幽霊も残留思念みたいなもんだけと思うんだけどさ。俺的には、あれだよ、あの部屋の『幽霊』は、写真とか、ビデオの録画みたいな。もっと本人から切り離されたものに思うよ。
あるだろ、行ったことある場所を見たら忘れていた出来事がフラッシュバックしたり。それが個人だけだったら思い出なんだろうけど。他人の思い出が、というか、『部屋が思い出している』ような気がするんだ。あの部屋自体が、大きな記憶媒体だと思わないか。どうだ、主」
「主?」俺は書き込みを見て尋ねました。
「ぬし、僕のこと」
余島は、かなり納得した様子でそうですね、と返信した。俺の中では部屋が思い出している、という言葉が何度も、繰り返されました。
「記憶媒体、というのはしっくりきます。……なおさらちょっと、怖い気もします」
「まあ、住む人が住めば気は狂うだろうな。引っ越しを勧める」
冷蔵庫の彼は、あくまでも冷静な人でした。
俺は、全ての蝉が死んで空になった虫かごを思い出していました。ここに蝉がいた、という記憶は、確かに俺の記憶には残るし、虫かごもただの空の虫かごではなく、「かつて蝉がいた虫かご」になる。こういうのもあれですけど、「穢れ」の概念と少し似ている気がします。
俺は、ゾッとしていましたね。
もしも冷蔵庫の彼が言うように、部屋が記憶媒体ならば、ですよ。
家族を亡くした夫が、がらんとしたあの部屋に帰って。葬儀があったのに、家族の楽しげな声を毎日、毎日、生々しくその部屋で再生され続ける、なんてこと、したら。
どんな気持ちになるのだろうか。思い出されるのは、はっきりと見た、自殺した男の表情でした。
それから俺たちは早急に、部屋の退去と転居を進めました。同居は継続。それから、今度は少し高くてもいいから、「心理的瑕疵物件を避ける」ということを決めました。
退去するまで、やはり部屋は俺たちに、さまざまな「思い出」を見せていました。
ある夜は、居間の方から夫婦の会話が聞こえてきました。女性の声は、聞いたことがありました。あの家族のお母さんだと思います。夫が単身赴任になる前の会話でしょうか。
さみしいなあ。また、みんなと離れ離れかあ。
三年なんてすぐでしょう。
そうだなあ……。すぐだ。その間に、ずいぶん大きくなる。……遊びに来いよ。
もちろん。ちょっとした旅行ね。子供たちも喜ぶでしょ。
ちょっとした旅行が、な。ははは……。
何とも言えない気持ちでした。唐突に心細さというか、切なさがあって。思わず眠る余島顔を見つめました。目が覚めたら、余島も消えているのではないか。そんな妙な不安がよぎって、俺は余島の手を握りました。
あの人たちに、あんな最悪な未来が来なければいいのに。もう過ぎてしまったことを、そう祈って、俺も眠りにつきました。
部屋が思い出すなんていうなら、何を思って、夫に家族の記憶を見せたんだろう。善意であればいいなと思います。それとも、ただそこにあった記憶だったから、というだけでしょうか。
ねえ、部屋って、考えると思いますか。……いや、そんなことを考えること事態、変ですよね。
でも思ってしまうんです。だけどそのことを考えようとすると、すぐにでも恐ろしさで、どこともなく逃げ出しそうになる。よくないんでしょうね。あまりしないようにしています。
楽しい記憶まで、もやをかけたくはないですから。
俺は今でもあのアパートの部屋が怖いです。
現在もあの部屋に「思い出された」俺たちもいるんでしょうか。いや、確認するつもりは、ないですけどね。
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