蒐集・怪談BL
塩野秋
生木のこけし
生木のこけし
余島宗吾(会社員)
僕は昔、子供がいたんですよ。
今、社会人四年目ですが、それは大学生の時でした。
学生結婚とかじゃあないんです。あやまちなんかでもない。だけど確かに子供を授かりました。
きっかけは、ほんとうにひょんなことだとしか表現ができません。
その時僕は、大学生になったばかりで、初めての一人暮らしをしていました。
講義のレジュメを貰ったりレポートがどうだこうだ、人間関係を作ったりだの忙しい時期でしたよ。一人で心細い環境にあったから、とにかくまわりに馴染もう馴染もうと必死でした。新歓でもお酒をラッパ飲みをしたりして、無理をしていましたよ。あ、もう、時効としてください。当然未成年でした。
僕はアル中寸前で、家路を歩いていました。春用の薄手のジャンパーでは耐えられないほどの寒気がして、視界がひどく歪んでいました。ほんとうにひどい吐き気で、いきおい電柱に手をかけてゲロってしまいました。ひとしきり吐いたら楽になりましたが、あんまり動く気もしなくて、そこでうずくまってたんです。俯くとゲロの臭いでまた吐きそうになるので、なるべく顔をあげて深夜の風に当たっていました。
そこで、声がしたんです。
あー、とか、ふにゃー、みたいな、か細くて甲高い声でした。
初めは猫かなって思いました。耳を澄ませると、すぐ近くの暗がりの路地裏から聞こえていました。不思議なことに、電灯の明かりがあるにも関わらず、その路地裏はペンキで塗りつぶしたみたいに真っ暗でした。
僕は正直、怖いものは得意ではないです。普段はそんなところはサッと目を逸らしてしまう。でも酒もあってか、その時は怖さがあまりなくて、それに猫が好きなので、路地裏へ行ってみることにしました。
路地に入ると、声はだんだん近づいてきました。それほど長い路地じゃあなく、コンクリートの壁の行き止まりがあって。着いたときには、声は聞こえませんでした。
猫はいませんでした。代わりに、そこにぽっつり、横倒しのこけしが置かれていたんです。
こけしって言っても、顔もついてなくて、粗く木を削ってそれっぽく見えるだけっていうか。でも、顔の部分があって、胴の部分があって。表面が凹凸した、手作りのこけし……だと思ってもらえれば。
なんだろうなあと一度拾い上げたら、なんだか、持って帰らなきゃいけない気がしたんですよ。
別に高級そうでもなんでもないんです。ほんとうに生木を彫ったようで、ちょっと湿っていて。なあんとなく、温かいような気がして。
うん、そう、妙に生気を感じたんですよ。
どうにも、そこに捨て置くっていうのが、恐ろしいような気がしたんです。というよりも、かわいそう、というか。放っとけない気がしました。
僕はそのこけしを持ち帰りました。その日はもう眠気もあって、こけしを枕脇に置いて眠りました。
その日、夢の中でずっと水音がしていたんです。
チョロチョロ、とかじゃあなく、なんだろう。ホラ、真夏のプールにどぶんと落ちて、しばらく水の中にいる。その時のような感覚。わかりますか?
まあなんとも言えない、気持ちよさがあったんですよ。
生ぬるくてね、ずーっとそこにいたい。気持ちがいい、ここにいたい……。でもだんだんそれが冷たくなっていって、水音の代わりに、声がどんどん大きくなりました。
だんだんだんだん、大きくなっていくのは甲高い喚き声で、僕はうなされました。やかましい、やかましいと思っていて、……あ、と気がついたんです。
赤ちゃんの鳴き声だ。
その瞬間、はっと目を覚ましました。
あまりにもリアルな声を聞いたので、僕は思わず目だけで、まだ薄暗い部屋を見渡しました。酒のせいもあったのか、体は汗でびっしょり濡れていて……。
で、ふっと胸元をみると、自分の両手が鳩尾あたりをぎゅうーと、押してるんです。それは苦しいわけだ、と思ったんですが、手の中に、あのこけしが握られていたんです。
えっ、て思ったんですけど、酔って手に取ったんだろう、ということにしました。
正直寝起きだったし、二日酔いが酷かったので……。そうでも思わないと。
怖かったんですよ。
それが一体何を示しているのか、何が起きたのかを理解するのが嫌で、そう思うことにしたんです。
次の日こけしは、とりあえず部屋に置いておきました。捨てるのは怖いし、何か、そういった……オカルトに詳しい人とかに、アドバイスがもらえないかと考えました。
それに、心霊系なんかのオカルトは、大学生とか、若い時期の話題としては恰好でしたから。僕は、元々すごく人見知りで。話のタネにできるかも、と思うと、実は、ちょっとワクワクしていたんです。
大学で僕は、桜井という男と友人になっていました。桜井はなんというか、陽キャです。とても明るい性格で、グループワークでも積極的にリーダーシップを取って、僕なんかにもよく話を振ってくれる。高校時代は弓道部をしていて、陽気なだけでなく、真面目で誠意もある男です。
僕と桜井の共通点は、この弓道部というところでした。自分も桜井も、出身は同県で、大会で一緒になっていたかもね、と話が盛り上がりました。それ以外にも話しているうちに、出会って間もないですが、気の置けない間柄になっていました。
桜井は、僕が先日ひどい酔い方をしているのを心配してくれていました。
「余島、連絡しても返事ないからさ、死んだのかと思った」
「いや、ごめん、朝気づいた」
僕は謝るほかありませんでした。LINEの通知はスタンプでいっぱいに埋まっていたのです。
それでさ、と僕は彼に、昨日起きたことを話してみました。変な夢を見たんだよね、と端的な、軽口のような感じで。
「それ、置いといて大丈夫なの?」
桜井は怪訝そうにいいます。彼がオカルトとかを信じるか信じないか、というと、彼は祖先を大事にするようなので、どちらかといえば信心深い方でしょう。
「わからない、から、なにか専門的な人って知らないかな?」
「そういう知り合いはいないなあ……俺もちょっと、探してみるよ」
僕と違って友人の多い桜井でも、さすがに霊能者の知り合いはいないようでした。普通、怪談なんかではすぐ霊能者の目処がたったりするものですが、実際はうまく行かないものですね。
思ったような茶化しにもあわず、桜井とはそこで、変なこともあるなあと話が終わりました。ただの夢かもしれない話を、こうも真剣に耳を傾けてくれる桜井に、僕は好感を持ちました。
今思うと、それからなんだか、ちょっとずつ、おかしかったような気がします。
自分でも何かしら、お祓いなどしてくれる寺だとか、神社だとかを調べてみようと思いネットで検索をかけてみました。けれど、なにせ数が多いし、パワースポット何選だとかが、触れ込みも大袈裟で怪しいものが多かったもので、すぐにギブアップをしてしまいました。
桜井の方も、話はネタのように思われて、あまり真面目な受け取り方をされなかったそうです。
「ごめんな、まだ全然見つからない」
「いいよ、こっちこそ変なこと言ってごめん」
「まだ、その、夢とかは見るのか?」
桜井は神妙な顔をして、僕に問いかけました。僕はうなずきます。
確かに、夢は見ていました。けれど別に、最初に見た夢と特段変わったところはありませんでした。気持ちのいい温度の水の中にいて、赤ちゃんの声がする。不思議な気持ちで目が覚めるだけだったのです。……まあ相変わらず、どこに置いても、起きたらこけしは僕の手の中にありましたが。
でもね、なんだか僕は、このままでいいような気がしてきていたんです。なんというか、そのこけしがどんどん、いとおしく思えてきていました。つるつる、とした手触りがなんとなくよくて、起き抜けにはよく撫でていたくらいです。
こけしはどんどん、生気が感じられるようになりました。それが不安……と思わないわけでもなかったのですか、恐ろしい、というよりも……小さな生き物を初めて触るような気持ちでした。
その時の僕は——やっぱりちょっと、変だった気がします。
僕は、話の脈絡もなく桜井に尋ねました。
「桜井はさ、子供、欲しいと思う?」
「ええ、何、急に」
桜井は戸惑い、少し肩をすくめました。
「そうだなあ、欲しいなと思うけれど、結婚だとか家族を持つとか、まだあんまり想像つかないかも。いい相手がいればなあ」
照れを隠すように笑い、腕を組んでそう答える彼に、僕は妙に、期待をしていたんです。
彼を見つめていると、気恥ずかしくなるような胸の高鳴りがありました。
僕は、言っておきますが、当時も今も、恋愛対象は女性です。今まで憧れはしたものの、男性に恋をすることはありませんでした。
けれど、その時の僕は、
確かに、桜井のことを好きだったと思います。
その気持ちを当時は微塵も疑わなかったし、葛藤や混乱もありませんでした。なぜかはわかりません。そうであることが、自然でした。
彼を男性として、異性として見ていた、とでも言いましょうか。……なんだか、ややこしいですね。つまり、僕が、もともと女性である、というような気持ちになっていたんです。だから何も、不思議ではない……。でもたまに、ふっと我に帰ると、その気持ちは消えていました。それでまた、気がつくと、というような。でもそれもまた、不自然とは思っていませんでした。
「ああ、この人が好きだ」という気持ちを僕は受け止めていたし、覚えている限りは、隠そうとしていなかったと思います。何かと彼を頼ったり、見つめたり、触れたがったりとして。
体調も悪かったんですかね。終いには、よろけた時に桜井の胸にもたれかかって、抱きしめられたことを至福にも思いました。
彼は僕がひどく参っているのだろうと思っていたのでしょう。心配の表情を浮かべて、僕の背をさすってくれました。それがとても心地よかった。僕はすがるようにして、彼の胸にすり寄っていました。
でも、多分その時から、桜井も変に感じていたんだろうと今では思います。それでも突き放さなかったのは、ほんとうに彼が優しくて、誠実な男とだということですね。
……話を戻します。こけしと夢のことについて。
とは言っても、僕の奇行はこれらにも関係しているのです。
僕が桜井を好きだ、と日に日に、感じる頻度が増えていきました。他の女子と話しているのを目にすれば不安がったり、悲しくなったり。側にいてほしいとねだってみたり。……なんというか、恋慕の感覚って凄まじく正常な判断を麻痺させますね。穴があったら入りたいです。
とにかく、まあそういった恋に心を揺らしていると、夢の内容が、少しずつ変化をしていきました。
赤ちゃんの声が、弱くなっていったんです。強くなるんじゃないんです。弱くなっていった。どこか遠くへと消えるような。
その声は、笑っていました。きゃっきゃと、静かに、透き通るように。どんどん小さくなっていきました。
遠くへ行っているのではない。
僕は直感的に、そう理解していました。
それからふっと切り替わるように、夢は別のものが現れました。
……内容は、その、後ほど。
それでその夢も終わり……目が覚めました。ああ、と思う時には、僕は自然と自分の腹部に触れていました。
その子を宿したのだ、と、気付いたんです。
僕がいくら、自分が女性だと思い込んでいたところで、僕の体は男のものです。自然に考えれば、子供は産めませんよね。
でもその時はほんとうに、自分が身籠ったとわかっていたんです。
……夢の内容は、言ってしまえばその根拠を補強するいち理由に過ぎません。
僕は抱かれたんです。
相手は、まあ、言わなくとも、でしょう。
それに目が覚めた時、こけしは僕の腹の上にありました。
僕は、喜ばしかった。けれどもう一人、冷静に警鐘を鳴らす自分もいました。
ありえない、と言っている自分が、ちゃんといたのです。
流石に、自身には到底起こり得ないであろう事象に、感情に、強烈な違和感を覚えました。
その時になって初めて、僕は、怪異を受け入れてしまった恐怖を実感していました。
僕は吐き気を覚えて、寝起きざまトイレに駆けこみました。
気が狂いそうでした。なにかまずいことが起きている。けれど、なにが?
理解したくない、という防衛本能からなのか、僕は、考えることをやめてしまいました。
僕は、震えていました。このままでは、なにか、なにかが違ってしまう。それはすべて、あのこけしが原因である。そうも思っていました。
それでも、どうしてもこけしを手放すことができませんでした。
こけしに耳を当てると、なんだか優しい寝息が聞こえてくるような気がしました。そうすると僕は、やはりいとしさがこみあげました。いとしさを感じていると、恐怖が和らぐのです。守らなければ、と、とても大切なものに思えました。
僕はこけしを柔らかいタオルで包み、ベッドに置くようになりました。
どれだけ妙なことがあっても、人間は意外と、日常生活を手放せないものですね。
僕は、大学にはちゃんと行っていました。
正気が残っていた僕は、桜井と会うのがとても気まずかった。だって、あんな夢を見た……巻き込んでしまったのかもしれないですから。これ以上は接近を控えるべきだと、思っていました。
声をかけてきたのは、桜井からでした。当時僕はどんな顔をしていたのでしょう。桜井の表情からは、困惑や不安が見えました。
実物と再会すると、やはりとても気まずくて、まともに顔が見れませんでした。同時に気を抜くと、恍惚と彼を見つめている自分がいる。もう、自分で自分がわからなかった。
桜井は真剣に告げました。
「そのこけしがあった場所に行ってみないか? 何かあるのかもしれない」
確かに、怪談には理不尽なものもあれば、理由、というより因果のようなものもあります。
知りたいとは、僕も思いました。ありえないはずなのに、妙に存在を感じる下腹部に手を触れてしまいました。
桜井と二人で、例の路地裏へ向かいました。昼ごろの路地裏は流石に、前のような恐ろしさは感じませんでしたし、実際に見てみれば、ほんとうにただの行き止まりでしかありません。
「ここにあったんだよな」
桜井は行き止まりの前に屈み、地面を示しました。僕はそうだとうなずき、その場をじっと見てみました。
地べたには特に変哲もなく、代わりに、見上げて初めて、その近くの建物に目が行きました。
「お寺」
行き止まりの路地の向こうに、寺の屋根が見えていました。
近場にあっただけの寺に安直な因果を結びつける、というのも何でしたが、身に起きていることを考えると、何かあるような気がしました。
「ちょうどいい、ちょっと、相談だけでもしていこう」
桜井が、僕の腕を引っ張り歩き出そうとして、その直後、僕は下腹部にひどい鈍痛を感じました。
いきおいうずくまり、今度は頭痛がひどくなる。また、赤ちゃんの声が聞こえ始めたんです。夢じゃあなくて、起きている時に。苦しそうな泣き声でした。僕も、泣きたくて、泣きたくて、たまらなくなった。悪寒がひどくなり、これは……なんだろう、なんと言ったら、いいのでしょう。
悪い事を、昔したことがありませんか? 仲のいい子がいじめのターゲットになってしまった時、自分も無視をしてしまう……そういう事で思い悩んでしまった時……。罪悪感。そうですね。
例えるなら、そんな風に、罪を犯した後の後悔、そんな震えに近かったと思います。
桜井の呼びかける声が、どんどん遠くに歪んで聞こえました。赤ちゃんの声と、下腹部の異様な痛み。パニックで、頭の中が小さな、たくさんの虫に削り取られるみたいに、真っ白になっていった。
僕はその場で嘔吐しました。
結局、僕は救急車で病院へ運ばれ、到着した時には、高熱が出ていました。原因不明、ですが桜井の話から、医師の診断はおおよそ精神的な疲れからだろうということになりました。
それから僕は、熱もあって数日、入院をしていました。その間ももちろん、夢は見続けていました。
夢の中では、僕のお腹が徐々に、膨らんでいくのです。質量も、皮膚の張りも感じる。夢とは到底思えないリアルさが、眠るたび僕の体に起きるのです。目が覚めた時は、いつもの体です。でも、感覚は覚えている。夢と現実の境目は、この体しかない。けれど、つわり……吐き気が突如襲ってきたり、今まで食べたいと思ったことのないものが食べたくなったりと、現実でも妙な症状が現れていました。胃痙攣だとか、ストレスだとか、想像妊娠だとか。……ある意味正しいと思います。色々と診断されましたが、症状が併合していたため、やっぱり「原因不明」で落ち着いてしまいました。
妊娠をしている僕が、現実なのかもしれない。そう思うほど、ほんとうに何が現実なのか、僕には判断がつかなくなっていました。
僕は、桜井と、家に置いている、こけしが恋しくなっていました。
はやく顔が見たい。
僕は朦朧としながらも、そんなことを思っていました。
それは、桜井のことなのでしょうか。いや、それとも……。
桜井が見舞いに来た時に、僕は、あのこけしを持ってきて欲しいと頼みました。彼はひどく困っていました。
「それは、よくないと思う」
そう言って、見舞いの品を棚へ置く。
「どうして?」
「……わからない」
「こわいの?」
「当たり前だよ。こんな、こんなさ……」
桜井は震えていました。
僕は、彼の手を取り、しっかりと見据えて答えていました。
「大丈夫。君の子なんだから。怖がる事はないんだよ」
僕は当時のことを覚えてはいますが、この時の問答が自分のものとは思えません。
桜井の表情に、苦々しさや、恐怖が滲んでいました。その中に僕を哀れに思う視線も、あったでしょう。ただ僕はその時、彼は母体を心配してくれていて優しいなあ、と思っていたんです。
それから一週間後、僕はついに夢の中で、子を産みました。退院をした夜のことです。暗闇で一人、とても耐えられないような痛みが体を襲っていました。
僕は子供を、産んだのです。
目が覚めると、目の端が濡れ、額も、背中も汗が玉のように流れていました。顔を横に向けると、タオルで包まれたこけしが置いてあります。それを見た瞬間、僕は、喜びに満ち溢れました。
僕の子だ、と思いました。顔のないはずのこけしには、うっすらと、顔に見える木目が見えていました。さながら嬰児に似た、開かない目と小さな口。愛おしくて、潰さないようにそっと抱き寄せて、気絶するように眠りました。
「絶対におかしい。おかしいって、余島」
見舞いに僕の家を訪れた桜井は、僕を見るなり、肩を掴んで揺さぶりました。
「なにも、おかしいことなんてないよ。僕と君の子だ」
その時僕は、こけしをあやすように、タオルに包んで胸に抱えていました。ちょうど赤ちゃんがおくるみ顔を出すように。こけしの顔が、見えていました。少し鼻を近づけると、不思議とミルクのにおいがしたんです。ほんとうに愛おしくて、たまらなかった。
「こんなに……いい子でしょう。どうして嫌がるの」
「それは、俺の子でもない、お前の子でもないんだよ!」
そう言われて、ショックでした。今思えば、現実ではなかった。それでもその時の僕には、夢がほんとうだったんです。
だから、桜井から裏切られた、と感じました。この子が捨てられる、捨てなくてはいけなくなる。今度はちゃんと生まれたのに。と。そういう感情が流れ込みました。
僕は咄嗟に、子を庇うように身をよじって叫びました。
「僕が産んだんだ、僕の子だよ。……君の子じゃなかったとしても」
そうだ、俺の子じゃあないと、認めなかった。また、認めないの。まだ、認めないの。今度は、わたし、ちゃんと、産んだ。産んだんだ。わたしの子。
「余島……」
「君が協力しないなら、僕は一人でもこの子を育てる。僕の子なんだ……僕の子だ」
そう。この子の親に。親になってあげて。大事にして。今度は守って。今度は産んであげられたの。わたしの子。わたしの子なの。
「……余島を返してくれ、頼む」
気がつくと桜井は、項垂れていました。僕の手を握る手は、白くなるほど、指先に力が入っていました。
「そいつは、お母さんじゃないよ。……あんたも、一緒に逝ってあげてくれよ」
夕暮れになる頃、僕は、はっと意識を取り戻しました。僕は桜井に抱きしめられており、僕の手には顔にヒビの入ったこけしが握られていました。
……前述の会話について、僕は、少し記憶が曖昧です。桜井から聞いた話の補完を織り交ぜて話したということを、了承ください。
僕がまるで、別人のように見えたと桜井は話していました。僕はひどく喚いていたらしく、気絶するまで桜井が押さえつけてくれていたそうです。
あまり僕に思い出させたくないのか、今でも桜井は詳しく教えてはくれません。ただ、悲痛だった、と言っていました。彼の目は少し赤かった。
彼は、ほんとうに優しい人だと思います。
件の事があっても、僕はまだ、はっきりと正気は取り戻していませんでした。こけしを自分の子だと思っているし、自分の手を引いて寺へと向かう桜井に対し、懇願の気持ちがありました。
その寺の住職さんは六十代くらいで、とても穏やかな表情で桜井の話を静かにうなずきながら聞いていました。そして僕の持つこけしを見せて欲しいと言われ、僕は最初、ひどく抵抗しました。けれど桜井がなだめても暴れてしまったのに、住職さんと目を合わせていると、不思議と落ち着いて、手渡す事ができました。
桜井は、近くの路地でなにか事件はなかったか、ということを住職さんに尋ねました。
「親子……母親と赤ちゃんに関わることとか」
住職さんは少し考え、こけしを眺めて言いました。
「事件と言いますか、この、こけしについて、心当たりがあります」
住職さんの話では、十数年前に、一人の男性警察官が住職さんのところへ、相談を持ってやってきたそうです。彼は近所の人の通報で、深夜路地裏で泣いている女性を保護したのだと言います。
なんでもその女性が保護された時、彼女は、既に亡くなっている嬰児を抱えていたそうです。流産された方で、亡骸を抱えて病院から抜け出したらしく、彼女自身も衰弱していた。精神も体も……。彼女は程なくして、病院に戻されたそうです。
彼女は病院で、こけしを彫っていたらしいんです。病院の人がよく、刃物を持たせるのを許したなと思いましたが、人の目があるところでのみ許されたらしく、彼女も従っていました。
仏像を彫るのと似ている気持ちなんですかね。どうして彼女がその知識に行き着いたのかはわかりません。文学や民俗学に通じているか、仏教に熱心だったかもしれません。お寺の近くで発見されましたし、神仏に救いを求めていたのかもしれない。
彼女は身寄りがなかったそうで、子の父親も現れませんでした。それから彼女は、寝食を満足に出来ず、衰弱死をしたそうです。
警察官は、彼女を保護した当人であり、彼自身も子供を亡くしたことがあるらしく、その女性に同情的でした。どうか経でもあげてやってはくれないか、と、彼女が残したそのこけしを持っていたそうです。
供養の済んだこけしは、女性の納められた無縁仏の前に、置かれたそうです。
それがどうして、路地にあったかはわかりませんでした。その警察官が置いたのかもしれないし、あるいはこけしが意思を持って……なんて、ないですよね。ぞっとしないです。
住職さんに、僕が体験したことについて尋ねられ、覚えている限りを答えました。……桜井もいたので、多少はぼかしましたが。
「僕は、取り憑かれている……のでしょうか」
だとしたら、誰に? その女性? ……子供?
「当時も強い思念は感じましたが……悪いものに転じかけているのかもしれません」
住職さんは難しい顔をして言いました。
「母親の無念や祈り……罪悪感が、引き寄せるようになったのかもしれませんね」
確かに僕は、住職さんの言う通りの気持ちや、悔しさとか……嘆きだとか……そんな、気持ちがいっぱいだったんです。恨み、というものを見せなかったのは、彼女自身が、子供を一人で育てようと思っていたのかもしれない。それでも、父親を求めたのは……信じたかったのだろうか。やはり、恨んでいたからなのか。それとも、寂しかったのだろうか。僕にはわかりません。
……今にして思うのですが、水の中にいる夢は、母体の中の、赤ちゃんの記憶だったんでしょうか。それとも、彼女の見た夢なのでしょうか。……どちらにしても、泣き声も、笑い声も、あげられなかった産声だった。思い返すと未だにやりきれなさを感じます。
住職さんに話を聞いてもらった後、お祓いと、こけしのお焚き上げをしてもらうことになりました。
形を残してあげたい、と言う警察官の気持ちを汲んでいたそうですが、こうなってはそうする他ない、と言う判断でした。
パチパチとこけしが燃えていく様子を見つめていると、堪えようのない気持ちになった。無意識に炎の方へ走り出そうと身を乗り出しました。それを咄嗟に、桜井が止めてくれました。それからこけしが燃え尽きるまで、僕たちは無言で炎を見つめていました。
僕は、下腹部を押さえてじっと、煙の染みる目を見開いていました。母子の姿が見えるんじゃないか。少しだけ僕たちは、ある種、運命共同体だったのだから。
去っていくのは、僕の子なのだから。
桜井がハンカチを差し出してくれました。頬がふっと冷えて、僕はずっと、泣いていたことに気がつきました。
それからは、あの夢は見ていませんし、結局どうしてこけしが、あんなところにあったのか、というのも、よくわかりません。根掘り、葉掘りと探すのは、あの母親の悲しみを掘り起こすようで、申し訳ない気がしました。
桜井とは、今もいい友達です。相変わらず気のいい、誠実な男です。最近は中間管理職になったせいか、愚痴も多くなりましたけど。
桜井のことは……好きですけど。もうあの時みたいな、浮ついた恋心はないです。
あのこけしは、どうして僕にお母さんになって欲しかったんだろう。もしかしたらその母親の相手が、桜井に似ていたのかも。それとも彼は誠実だったから、ちゃんと父親になってくれそうだったから……当時の僕基準で選んでしまったのかも。なんて、まあ、全部、憶測です。
今は、仮に桜井が父親だったら奥さんも子供も相当大変だと、これまでのつきあいでそう思いますけどね。はは。過保護なんですよ。友人でこれは、大変ですよ。
まあ、でも。いい父親になるんじゃないですか。
……これ、桜井には内緒ですよ。
僕は子供、好きだし、将来的に欲しいと思っています。でも、自分が産みたい、できればあの夢の相手の、とふいに思ってしまうんですよね。
【了】
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