屍子 【一話完結】

大枝 岳志

屍子

 文江は朝六時きっかりに、けたたましく音を立てる目覚ましで起床する。使用し始めてから四十余年が経つその黒い目覚まし時計は小ぶりだが、音だけは今も昔と何ら変わりなかった。文江が痩せ細った腕を伸ばすと、粘着性の汚れに髪や食いカスや埃がこびりついている鐘がリン、と余韻を残して止まる。


「おはよう、私」


 使用暦三十年は越える染みだらけの汚布団の中でそう呟き、万年床から這い出た文江は子供じみたピンク色のカーテンを勢い良く開ける。すると、陽に照らされた埃がダイヤモンドダストのように部屋中に舞っているのが分かるが、文江は気にもせずに深呼吸をして、背中を丸めながら闇に隠れる鼠のような動きで着替えを始める。 文江は風呂が大嫌いで週に一度、少なければ十日に一度しか入浴をしない。枝毛だらけのざんばら髪にはフケや脂があちこちで塊を作っており、頭皮に痒みを感じて伸びっぱなしの爪で掻くと、黒ずんだ爪の隙間のカスの上に淡黄の脂カスがこびりつく。文江はそれを認めるとおもむろに指を鼻先に持って来て、くんくんと匂いを嗅ぎ


「まだ、大丈夫だわね」


 などと独り言を呟いてにたりと笑う。 

 枕横に置かれた金フレームの眼鏡を掛けると、ようやく一日が始まった気分になる。レンズは手垢に塗れているが、物が見えていたらそれで良いと文江は特に気にする様子はない。 


 部屋の砂壁には文江が五十年を過ぎた人生で唯一恋をした相手であり、スーパー銭湯などをドサ回りしている演歌歌手『煌星光一』のポスターが貼られている。それに向かって手を振ってみせたりなどするが、文江は異性にも、同性にも自分が歓迎されないことを幼少期の頃から気付いていた。 


 それは一重の釣り目で鼻が上を向いており、がちゃ歯の出っ歯という悪条件のロイヤルストレートフラッシュのような醜い容姿がそうさせたのもあったが、人に関わることを極端に面倒臭がる本来の気質による部分もかなり大きな要因のひとつなのであった。 


 小学校六年の頃、同じクラスの女子達が「どのロケット鉛筆が一番可愛いか」などという、文江にとっては反吐が出るほどどうでも良い話で盛り上がっている事に苛立ちを感じ、その話が自分に向けられた途端に文江は膨大な怒りが湧き上がるのを止める事が出来ず、自分の座っていた椅子を持ち上げると彼女達の輪の中へブン投げ、机の上から散らばったロケット鉛筆をわし掴みにすると一本一本手で折ってやり、それを「馬鹿めらが!」と叫びながら投げつけるという暴挙に出たことさえあった。 


 思春期を迎えると風呂嫌いが祟り、周りから「今藤は生臭い」と囁かれるようになり、あからさまに避けられるようになった。この頃、歯磨きも嫌いになっていた文江が授業中に教科書を読む機会があると、周囲の生徒達は手で鼻を摘んで抗議したこともあった。事実、若年にして歯槽膿漏に罹っていた文江の息は、真夏の炎天下に置かれた生ごみ袋のような腐った匂いを発し続けていたのだ。  


 そのまま大人になった文江は人と関わることを面倒臭がり、引きこもりがちになった。働きに出てもすぐにクビになるか本人が逆上して退職するかのどちらかで、長続きしたものは何一つ無く、せめて人並みの社会経験をさせてやりたいという過保護な父母は休みがあると文江を外へ連れて歩くことが多かった。

 ある日地元に出来たスーパー銭湯へ行ってみようという話になり、そこで出会ったのが煌星光一だった。当時まだ若かった煌星は妙齢の主婦達のアイドルのような存在で、その端整なルックスに文江は思わず目を奪われた。ステージの後に握手会という運びになり、誰にでも分け隔てなく握手をする煌星の手を握ると、文江の中の「女」が唐突に目を覚まし、なんといきなり抱きつくという行為に及んだのであった。しかし、その手の出来事になれている煌星は


「みんなが見てるから、またあとで二人の秘密を作りましょうね」 


 などと、自分の歌の詞をもじった洒落のつもりで返したのだが、ろくに彼の歌を知らなかった文江の心はその瞬間、恋の蟻地獄に落ちて行ったのである。女が目を覚ましたせいなのか、文江は家に帰ると煌星の手の質感や抱き締めた時に感じた胸板の厚さを思い出し、日に四度の自慰行為に及んだのであった。 


 文江の生活はほぼ全てが煌星に会う為にあると言っても過言ではない。父は年老いて何の変哲も無い古い一軒家だけを残して他界した。そこで年金暮らしの母と二人で暮らしていたが、実入りのない文江は常に金に困っていた。そこでアルバイトを近所のコンビニで始めることにしたのだが、社会性の乏しい文江は当然難儀した。 

 自分よりもふた周りほど離れた年下の副店長の女は苛立ちを隠すことなく、文江にゲキを飛ばす。


「今藤さん、その品出し今やらなくてもいいってさっき言いませんでしたっけ?」

「えっ……でも、早いに越したことはないんでしょう?」 


 文江は冷凍食品の箱には目もくれず、菓子の入った箱をカッターナイフで開け始める。それに痺れを切らした副店長が「あー、もう!」と小さく怒りを破裂させて冷凍食品の箱を手で叩く。


「こっち先にやらないと溶けるから!」

「あー……あー、そういうことね、はいはい……」 


 納得したふりをしながら文江は開け掛けた菓子の箱を手に、ふらふらと冷凍食品のコーナーの前へ行き、持っていた菓子の箱を冷蔵庫の中へ押し込んだ。


「ちょっと、今藤さん何してんの!?」

「だって……えっ? 何がおかしいのかしらねぇ……あとでやろうと思って、しまっておいただけなんだけど」

「ここに入れたら新しい冷凍食品が入らないでしょ!? 考えなくても分かりますよね!?」

「そんな勝手なこと言われても……」


 終始このような噛み合わないやり取りが続いたが、店のオーナーは「日本語は話せるし、人が足りないから」という理由で今藤をクビにしようとはしなかった。いつも背中を丸めておろおろしている文江の容姿に不快感を露にする客も少なくなく、彼女が立つレジに頑としてでも立とうとしない客まであった。行列が出来ていて、文江がレジを開けて


「こちらへどうぞ」


 と声を掛けると


「結構です!」 


 とあからさまに断る客まであったほどだった。中には文江がいるだけで踵を返す客の姿も居て、近所の中学生などは


「今藤ってあっちのライバル店が送った極悪スパイなんじゃね?」  


 という根も葉もない噂さえ流すほどだった。 


 文江はそれを理不尽だと捉え、ストレスを食卓を囲む母にぶつけたりもした。


「まだ慣れないあたしが頑張ってるっていうのに、店の奴らも馬鹿客もあたしを認めようとしないの! ねぇお母様、ひどいって思わない!?」 


 文江が何を言っても母は何も答えず、俯いたまま固まっている。


「あら嫌だ、あたしったら……お母様はこのお食事はお口に合わなかったんだわね」 


 文江は食卓の上に並んだ惣菜の肉じゃが、いわし、味噌汁をキッチンへ運ぶと、それをミキサーで一緒くたに混ぜ始める。出来上がったヘドロのような物体を味噌汁茶碗に入れ、母の前へそれを置くとさっさと話の続きを始める。


「私が何のために働いているのか分かってないんだもの、腹が立つったらありゃしないわよ。お母様は分かってらっしゃるけれど、あたしはあいつらみたいに”生活の為”なんてケチな理由で働いているんじゃないの。あたしは煌星様との逢瀬の為に働いているんですもの。ふふ、ふふふ。それにしてもあいつら、人の事を見る目が無いったらありゃしないの」 


 ブーンと羽音を鳴らす銀蝿だけは意気揚々と飛び回る食卓で、文江はその後二時間もの間母に愚痴を漏らし続けていた。  


 コンビニの店員達があまりに不衛生な文江を注意したが、文江はその度に注意を受けている意味すら分かってない素振りをみせた。副店長が口臭を注意すると、文江は不満げに「はぁ……」という声を漏らした。


「今藤さん、お願いですから歯磨きくらいして下さい。接客業ですから」

「だって、ここに勝手に来てるのはお客さんでしょう? あたし、ここには自分の強い意志で働きに来てるんだから、あたしの勝ちでしょう?」

「はぁ? 何言ってんの? 臭いから歯磨きしろって言ってんだけど」

「やだわ、臭くなんかないわよ。お母様だって、何も言わないし言われたことないもの」

「みんな臭いって言ってます。すぐに歯を磨いて下さい。今すぐ、はい」  


 副店長は自腹で歯ブラシと歯磨き粉を買い与えると、洗面所で磨いて来いと指示を出した。これは立派なパワハラだから本部に訴えないと、と思いながらしぶしぶ歯を磨くと、歯磨きに不慣れな文江は何処まで歯ブラシを口内に突っ込んでいいかが分からずに何度も嘔吐いてしまう。 


 心なしか胃が気持ち悪いままレジへ立ったが、その後も副店長は文江からやや距離を取った場所から肩についたフケや、蛍光灯の光をてらてらと反射させる脂ぎった髪の毛のことなどを注意し続けた。その間、文江は副店長の言い分があまりにも理不尽だと感じ、風呂に入らない権利だってあるのに、と口に出しかけると、不意に急激な吐き気が込み上げて来るのを感じた。さきほどの歯磨きで嘔吐神経が刺激されていたのだ。 


 そこへ何も知らない呑気なサラリーマンがやって来て、おでんなぞを注文し始めた。文江は大きなおでん用のカップとトングを手に、おでん什器の前へ立つ。客はにこにこと愉しげな笑みを浮かべている。


「んー、どれにしよっかなぁ。ねぇ、この大根染みてる?」

「あぁ……あぁ、どれも、一緒です」

「じゃあ大根二つとー、あ、がんもあるかな? バッチのグーグーがんもちゃん、ある?」

「がん……がん……」 


 おでんの中を掻き分けている間に、文江は胃の奥底から吐き気がどんどん込み上がって来るのを感じ始める。熱くて臭い汁気が胃から食道へせり上がり、言葉を吐こうとすると熱い汁気が口端から漏れ出そうになるのが分かった。サラリーマンはおでんを掻き分ける手を止めたのを見て、不審人物を見るような怪訝な目を文江に向けた。


「あのさ、がんもあるの? ないの?」

「が……が……」 


 もうこれ以上は無理だと感じたが、ここであの副店長に代わろうものならまた何の理不尽を突きつけられるか分かったものではない。そう考えた文江はせり上がってくるものを無理に戻そうとごくりと飲み込んだ。


「あんたもういいよ、俺がやるから貸せよ。ほら、トング貸せよ」

「がんっ……がん……もお! もおおえ!」 


 胃の中へ押し戻したはずの熱くて臭い汁は振りまくった後の炭酸飲料のごとく文江の口から噴出し、ぼとぼとびちゃびちゃと音を立てながら黄色い吐瀉物がおでん什器の中へと落とされて行った。 


 跳ね返った臭い汁がサラリーマンの顔面やスーツを汚し、男の悲鳴が狭い店内に響き渡り、薄茶色の鰹出汁が泳いでいたおでんの什器内はたちまち黄土色になり、いわしと野菜が腐ったような匂いがすぐに辺りに立ち込める。 

 パニックを起こしたサラリーマンをよそに、吐き出した当の本人である文江は妙に冷静だったが、やはり判断能力に乏しいのだろうか、おでん用のおたまを手に取ると、それで黄土色の汁を掬い取り、躊躇うことなくごくりと飲み込んだ。


「うん、うまい。お客様、まだちゃんとおでんの味がするので、安心して下さい。がんも、でしたっけ?」


 この一件があり、文江はついにクビになった。  


 あくる日、文江は一日中母に向かって怒り混じりの愚痴を零し続けていた。


「あたしは下手をしたら死ぬところだったっていうのに、あのオーナーも副店長もあたしの命なんかこれっぽっちも考えてなかった! それにあのサラリーマンだって、まだこのおでんは食べられますって言ったのに「食える訳ねぇだろ」なんて怒ってるのよ!? 北朝鮮じゃ食べられなくて困ってる兵隊さんだっていっぱいいるって言うのに、日本のサラリーマンって何であんなに強欲なのかしら!? お母様もおかしいって思わない!? あ、お茶のお代わり淹れるわね」


 茶渋のカスが浮かぶ淵の欠けた茶碗に茶を注ぐと、それを手にして文江は甲斐甲斐しく母の口元に運び、茶碗を傾ける。


「熱くないかしら? ちょうどいいと思うんだけど」


 母の口から入った茶色掛かった茶が喉を通ると、骨の隙間からぼたぼたと零れてテーブルを濡らして行く。


「わぁー、飲めた。お母様、お茶は美味しいわねぇ」


 母は俯いたまま、もうここ一ヶ月ほどテーブルの椅子から動いていない。空気を入れ替えるたびに羽音を立てる銀蝿がやって来て、今藤家の前を通る近所の者達は近頃になって鼻を摘んで歩くようになった。


「あー、でもこれで煌星様に会いに行けるわぁ。次はあっちのコンビニへ働きへ行けばいいわよね。さて、お部屋に戻らないと」


 文江は「煌星様」とその名を連呼しながら、新しい箱ティッシュを持って部屋へと戻って行く。リビングテーブルに残された母は俯いたまま、首の肉片辺りから新しい蛆虫達が続々と顔を覗かせ始めている。 


 ブーンという無数の羽音は台所の換気扇の音を掻き消すほどになっているが、それを上回るほどの地獄の喘ぎ声が今度は文江の部屋から聞こえ始める。「光一」と連呼する声と粘性のある水を掻き混ぜるような音が窓から外へ漏れ続けている。時間はちょうど小学校の下校時間に当たっており、今藤家の前を通る子供達は恐怖のために耳を塞ぎながらそれをやり過すのであった。


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