第24話

 高瀬は夢を見ていた。

 何度も繰り返し見る、8年前のあの日の夢だ。

 

 その事件が起きたのは、高瀬と優香の婚約が決まって間もない頃だった。

 犯人の男は、孤児院の子供たちと引率者を人質にとっていた。

 運の悪いその子供たちと引率者は、休みを利用して国会議事堂へ見学に来ていた。

 子供たちは正面にある石造りの柱のひとつを全員で抱くように手と手を結束バンドで繋がれ、柱と自分たちの間にそれぞれ時限爆弾が装着されていた。

 更に犯人は、引率者と自分の体をぴったりと重ねるようにして縛り付け、体中にシート状のプラスティック爆弾を取り付けた。その引率者が優香だった。

 膠着は続き、子供たちに取り付けた爆弾の爆破時刻までもう間もなくと迫っていた。

 下手に突入させれば優香の命が危なく、しかしこのままでは子供たちの命が危ない。子供たちの命と、一人の女性の命が天秤にかけられていた。

「私は構いません! 子供たちを!」

 優香はしきりに訴えた。

 しかし、誰も手出しは出来ない。

 その中に、高瀬もいた。

「何とか出来ねぇのか!」

 高瀬は苛立ち、何度もそう叫んだ。

 解除するのに必要な時間が刻々と迫り、タイムリミットとなった時、胸部にのみシートがない事実が明らかとなった。

 肺には太い動脈や静脈が通っているが、それが傷付かずに、片肺が無傷なら呼吸は可能だ。

 肺に穴が空く事で『外傷性気胸』となるだろうが、片方の肺が機能しなくても、残る片方で息が出来るため、命は助かる。

 他に手段がない。

 高瀬は自ら婚約者の右胸を狙った。

 右胸なら、処置次第では助けられると、万に1つの可能性に賭けた。

 そこへ、ニュースで事件を知り、月見里が現場へ駆けつけた。


「止めろ文孝! 優香は右胸心だ!」


 不幸にも、優香は五千人に一人と言われる『右胸心(心臓が右側にある)』だった。

 崩れ落ちる、犯人と優香──。

 その後、直ぐに子供たちは解放。爆弾も解除された。

 しかし、優香は二度と戻る事はなかった。


 ──筈だった。


 目を開けると、そこに優香がいた。

 心配そうに高瀬を見ている。

「──香」

 乾いた唇を何とか動かし、その名を呼ぶ。

「優香……」

「た……たかせぇぇぇぇぇ!」

「ちょっ! 遠子さんッ! 高瀬さんが死んじゃいますから!」

「だがぜぇぇぇぇぇ!」

 柴田が必死に、高瀬の脚に全体重を預けのし掛かる、涙と鼻水でぐしょぐしょの遠子を引き離そうとする。

 遠子は離れまいと、力一杯高瀬の脚を抱いた。

「だぁがせぇぇぇぇ!」

 高瀬は声にならない悲鳴を上げた。

 

 *   *   *


「このクソ女! 俺を殺す気か!」

 柴田に買って来させたスポーツドリンクを飲むと、高瀬はそう言って遠子を睨んだ。

「だって、もう目覚めないと思ったし」

 高瀬は盛大なため息をついた。

 コイツは殺す気どころか、もう殺してやがった。

「もうイイから、二度とそのツラ見せんじゃねぇ」

「そんなこと言って。アタシを全力で護ったじゃない」

 遠子はにやにやと嫌らしい笑みを浮かべた。

 何しろ遠子は自己肯定感の非常に高い女だ。すっかり高瀬が自分に好意を持っていると思い込んでいた。

 

 *   *   *


「高くつくと言ったろう。うん?」

 病室の前では、墳堂と月見里が話し込んでいた。

 月見里は眉尻を下げ、請求書を見ている。

「それにしたって、着物の帯でこんなにする?」

「あの女ヒットラーは容赦無いのだ。全額とは言わん。だが、2/3は手伝え」

「しょうがないなぁ……。まあ、今回は墳堂のおかげで本当に助かったし……。まさか自衛隊のヘリで来るとは思わなかったけど」

 墳堂のヘリは一般人を襲う鬼を何体も追撃し、多くの人を助けている。

 しかし、そんな功績を墳堂は何とも思っていないようだ。

「たまたま防衛省に友人がいてな。少々顔が効いたからに過ぎん」

 それよりと、墳堂は指紋だらけのサングラスをくいっと上げると、珍しく小言を言った。

「今回は、総理大臣の緊急事態の布告のタイミング良かったからこそだ。遅れたらどうなっていた? そう上手く行く事ではないぞ」

 全くだ。

 とにかく全てがギリギリだった。

 そう。自分が目覚めたのも──。


「生きているか、エテ公。うん?」

 墳堂は無遠慮に病室のドアを開けると、ずかずかと中に入っていった。

 それに続いて月見里も病室へと入る。

 高瀬は墳堂を見るや否や顔を顰めた。

「貴様、独活の大木」

「貴様の足の上にダイブしてやってもよいのだが。うん?」

 高瀬の横では柴田がくすくすと笑っている。

 高瀬はぎろりと柴田をにらむと、その尻を思いっきりつねった。

「痛ああああッ! 痛い痛い痛い!」

 柴田は尻を押さえ、ぴょんぴょんと飛び跳ねている。

 高瀬は頭を掻くと、照れくさそうに言った。

「冗談だよ。アンタには世話になった」

「ふん。まあ、それでチャラにしてやろう」

 そう言うと、墳堂はベッドわきの棚に、DVDボックスを載せた。

「ここはDVDプレーヤーが有ると聞いたのでな。貴様も退屈だろう。俺のコレクションを貸してやる」

「へぇ。悪ぃな」

 一体何だろう。エロビデオかな。

 そんなことを思いながら手を伸ばした高瀬だったが、その手がピタリと止まった。


 ──世界名作劇場・フランダースの犬(完全版)。

 

「心が洗われるぞ」

「さ……サンキュ……」

 礼を言い、そろそろと手を引っ込める。

 満足げな墳堂の後ろで、月見里が肩を震わせていた。

 

 *   *   *

 

「月見里。千里たちは大丈夫なのか」

「大丈夫。流石に若いね。入院した翌日には退院したよ」

 そうか。良かった。

 高瀬は心底ほっとした。

 あの炎の中、千里は必死になって自分を救出してくれた。

 12年前と立場が逆転していた。なんだか自分が随分年を取ったような、そんな気がした。

「俺は何日眠ってた?」

「丸3日だよ。脚と胸の手術があったからね。よく頑張ったと思うよ。胸の方も、あと1㎝ズレてたら危なかった。本当に無事でよかった」

「そうか」

 随分眠っていたようだ。

 背中が軋むのは、あの日の怪我のせいかと思ったが、3日も同じ体勢で眠っていれば、そりゃあ痛くもなるだろう。

「足はどうなってる」

「どっちも大腿骨骨幹部骨折。太腿の骨折だね。だから当面は車いすだけど、直ぐに良くなるよ」

「そっか」

 あちこち痛むが、それでも、御岳山で遺体が発見されて以降の出来事は現実味がなく、夢だったのではないかと思わせる。

 鬼──。

 あれは一体何だったんだろう。

「月見里」

「どうしたの?」

「あの鬼は何だったんろう。そもそも御岳山の鬼って、一体何だったんだ」

 月見里はそうだねと言うと、スツールを引き、高瀬の傍に腰を下ろした。

「日本の昔話なんかに出てくる鬼は、往々にして外国人の事だったんじゃないかという説があるけど、僕は、ウィルスによる感染症だったんじゃないかと思う」

「ウィルス?」

 月見里は頷いた。

「今回と同じようにウィルスに感染して、DNAが書き換えられることによって、体つきも顔も変わってしまった。お伽噺の鬼も同じなんだと思う」

「元はみんな、普通の人間──日本人だったって事か……」

「そう。ウィルスに耐えられた屈強な人間だね」

 なるほど。異形の者など存在しなかったのだ。

 ウィルスによって姿形が変わってしまった、言わば『変容』だったという事だ。

「それから、実は長谷川英明たち鬼の解剖を行ったんだけど、色々なことが分かったんだ」

 そういうと、月見里は解剖で分かったことを高瀬に話して聞かせた。

 鬼となった人間の脳には損傷があった。

 正確には大脳である。

 脳には理性をつかさどる『大脳新皮質』と本能をつかさどる『大脳旧皮質』があるが、その理性をつかさどる『大脳新皮質』に損傷があっのだ。

 『大脳新皮質』は、言語、判断、思考、意欲などの知的な活動をつかさどっている部分だ。

 そのため、彼らは言葉を話すことも出来なくなり、思考することもなく、ただ本能に従い人を襲った。

「本能に従うのは分かったけど、なんで人を食うんだよ。しかも肝臓を狙ってたぜ?」

 月見里はそこなんだと言うと続けた。

「彼らはみな、『肝性糖尿病』だった。鬼のウィルスに感染すると、肝性糖尿病を引き起こすんだ」

「かんせい糖尿病?」

 病気と縁のない高瀬は、なんだそりゃと首を傾げた。

 糖尿病とは、膵臓から出るインスリンと言うホルモンが不足することにより、血液を流れるブドウ糖が増えてしまう病気としてよく知られており、『1型糖尿病』、『2型糖尿病』、『その他の特定の機序、疾患によるもの』、そして『妊娠糖尿病』といくつかの種類がある。

 肝性糖尿病は、『その他の特定の機序、疾患によるもの』に分類され、急性肝炎、慢性肝炎、肝硬変、アルコール性肝障害がきっかけとなって発症する肝臓疾患の合併症である。

「彼らはその病気によってインスリン低下を引き起こし、グリコーゲンの合成能力が低下。それを補う為、本能的に人間の臓器で最もグリコーゲンを含む肝臓を狙ったと思われる。それに加えて、グリコーゲンは運動能力の限界を上げた。それであの驚異的な力を発揮出来たんだ」

「事実は小説よりも奇なり。ってやつか」

 高瀬は腕を組むと、訳知り顔で言った。

 謎の多い、また、実に現実味のない出来事だったが、それでもこうやって少しずつ、色々なことが明らかになって来ている。

 高瀬は見舞いの苺に手を伸ばした。

 苺は暑さに弱く、本来旬は12月~6月と言われているが、昨今は『夏いちご』と言われる、冷涼な地域で、夏から秋にかけて採れる苺があるのだという。

 その苺をいくつか口に放り込んだところで、高瀬はパックの赤い苺をまじまじと眺め、柴田を呼んだ。

「なんでしょう、殿」

「例の赤いドレスの女はどうなった?」

 高瀬が言う赤いドレスの女は、あの、赤塚公園でカメラに写っていた女だ。

「クラブ沙紗のママですよね」

 言いながら柴田は眉尻を下げた。

 「それが、高島平警察署が行方を捜していますが、未だに見つかっていないそうです。一体どこにいるのやら……」

 

 *   *   *


 成田空港の第1ターミナル南ウイングのラウンジで、黒いワンピースにつばの大きな黒い女優帽の女は、ゆっくりとした動きでスマホを耳に当てた。

『終わったかい』

 聞こえてくるのはしゃがれた老女の声。女は静かに答えた。

「はい。全て」

『羅刹は』

「自爆したようです。生きてはいないでしょう」

『そうかい。……で、あんたはどうする。沙紗』

「暫くは犯罪人引渡し条約を結んでいない国で、ほとぼりが冷めるのを待ちます」

 黒木沙紗は、胸に抱いた骨箱を愛おしそうに撫でた。中には藤田憂夜の遺骨が入っている。

 養父母に引き取りを拒否された、可愛い、そして哀れな憂夜の遺骨──。

「如来様は」

『あたしかい?』

 老婆は、そうさね、と、暫し考える様子を見せた。

 電話の向こうから、大勢の騒々しい声が聞こえてくる。

『まだ当分は、この御山荘の大女将を引退出来そうにないようだねぇ。今日も満員御礼だよ』

 老婆──、御山荘の大女将・土屋静江は、そう言うと笑った。

 鬼騒ぎが収束して以降、御岳山にはハイカーが戻ってきた。夏の終わりを惜しむかのように、次々と客がやって来る。

『弥勒がこの世を救えるのは、釈迦没後56億7000万年後。まだまだ先さ。それまではあたしがここ人間界を監視してやらないといけないだろう。また、羅刹のような者が現れる』

「仰る通りです」

『その時は沙紗。また潜入してもらうよ。──沙紗?』

 沙紗は腕時計を確認する。刻々と搭乗の時間が近づいて来た。

「失礼致しました。心得ております」

『すまないね。巻き込んじまって』

 静江はさも申し訳なさそうだ。沙紗はくすりと笑った。

 矍鑠かくしゃくとしており、時に口喧しく、そして優しいこの老女の正体は阿弥陀如来だ。

 今、この現世でそれを知り得るのは沙紗だけだった。

「良いのです。私は羅刹女。卑しい鬼女であった私を諭して下さった、世にも尊きお方に帰依する者。如来様のお心積もりとあらば、なんなりと」

 ラウンジに人が集まり始めた。

 沙紗は帽子を深くかぶると、少しうつむいた。

『あたしはこの世に阿弥陀如来としての記憶を持ったまま転生し続けているが、あんたも知っている通り、大日如来に力を封印されている。無力な今のあたしが出来るのは、きたる日までただ見守ること。僅かなヒントを与えるぐらいさ』

「そのお陰で、毘沙門天は良い働きをなさいました」

『そうだね。それに、あの極限状態だったからこそ、毘沙門天も覚醒したのだろう。そのためには荒療治も必要だった』

「はい──」

 スイス行のフライトの搭乗アナウンスが流れている。

 沙紗は立ち上がった。荷物はもう預けてある。あとは小さなハンドバッグと、憂夜だけだ。

 沙紗は憂夜を抱きしめた。

 護るべきものが分かった時に、全てを捨てるべきだったのだ。

 自分の迷いが、忠誠心が、この子を──。

「如来様」

『ああ。時間だね? 気をつけて行っておいで』

「はい」

 沙紗は通話を切ると、バッグからあらかじめダウンロードしておいたチケットを取り出し、スマホをゴミ箱に捨てた。

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