第21話
燃え盛る炎の中から歩現れた高瀬は、
「あれは……毘沙門天……」
大沢が呟く。千里はただ黙って見つめていた。
高瀬の見開かれた眼は赤く、顔には憤怒の表情が張り付いている。
「た……高、瀬……?」
遠子は高瀬を見上げた。
高瀬は真正面を見詰めたままだったが、手を伸ばすと、遠子の頭に触れた。
指先に、ほんの少し力が加わる。たったそれだけの事なのに、何故か遠子は安心出来た。
「大丈夫か」
初めて聞く、自分を気遣う言葉。透子の目から涙が溢れて来た。
「高瀬……。たかせぇ!」
遠子は高瀬の胸へと飛び込んだ。
──が、空振りした。
すいと身を躱した高瀬の脇をすり抜け、無様にも地面に転がる。
「いった~い……」
「下がってろ」
高瀬は正面の憂夜を見据えたまま、冷たく言い放った。
「ちょ、もう少し優し……」
「水野さん、こちらへ」
抗議しようと立ち上がった遠子だったが、易々と大沢に担ぎ上げられ、亀のように手足をバタつかせた。
「おろせー!」
叫んだ途端、道路脇に乱暴に下ろされた。尻が酷く痛い。
遠子はじろりと大沢を睨んだ。
「痛いでしょ!」
「いいですか?」
突如、遠子は後頭部に手を回され、ぐいっと大沢の綺麗な顔が眼前に迫った。
こんな時なのに、どきりと心臓が跳ね上がる。
「少しは大人しくして下さい。あなたも、もうちょっと生きていたいでしょう?」
大沢はそれだけ言うと離れて行った。
何も言えなかった。それほどに、大沢の目は冷たかった。
「どうした。俺を忘れたか。夜叉」
高瀬に見据えられた憂夜は動揺していた。
頬をピクつかせ、明らかに震えている。
その顔には、最早先程までの人をなめてかかっているような表情は一片もない。
そこにあるのはただの『畏れ』だ。
夜叉と呼ばれていたころ、憂夜は毘沙門天に従属していた。
それが今、彼を裏切っている。
「違うんだ。お、おれ……羅刹に……」
そう言うと、憂夜は肩を震わせ俯いた。
「命令でもされたか」
憂夜はこくりと頷く。
「言う事聞かないと、おれ、殺されちゃうんだ。だから──」
突如、俯いた憂夜の口元が吊り上がった。
「ピィィィィッ!」
「──!」
それが歯笛だと高瀬が気付いた時には、数体の鬼が一斉に高瀬に飛び掛かって来ていた。
一瞬で高瀬の姿が見えなくなる。その様子は放り込まれた肉片に集る野犬の群れのようだ。
それを見て、憂夜は腹を抱えて笑い出した。
「あははははは!」
「あの野郎!」
「駄目です! 大神さん!」
飛び出そうとする千里を大沢が制した時、再び大きな爆発が起こった。鬼の群れの中だ。
激しい爆風で、鬼が放射状に飛んでいく。
憂夜はパラパラと音を立て、雨のように降り注ぐ小石と砂利を、腕を翳して避けた。
「テメェ……。随分と可愛らしい事をするようになったな」
黒煙と砂利の雨の中、現れたのは高瀬だった。足元に転がる鬼を蹴り飛ばし、憂夜へと近づいていく。
「まっ……」
「黙れ! 夜──」
その時、黒い影が飛んだ。
憂夜に掴みかかろうとする高瀬に、長谷川が飛び掛かる。しかし──。
ダダダダダダダダ!
連続する発砲音。地面から幾つもの石片が跳ねる。
「英明ーッ!」
憂夜が甲高い声を上げ、鬼の──長谷川の巨体が宙を舞った。
上空のヘリが、装備している重機関銃で攻撃。被弾したのだ。
ドン、と言う音と共に、長谷川の身体が地面に打ち付けられた。
「英明! ああ、どうしよう。血が……血が……」
憂夜は長谷川の傍らに跪くと、流れ出る血をかき集め始めた。まるで、その血を体に戻せば助かるかのように。
そしてぼろぼろと涙を零し、長谷川の顔を覗き込む。その涙は長谷川の顔にぽたぽたと落ちた。
「おい、見ろ……」
そう言って、千里が大沢の腕を引く。
2人は高瀬に並んで足元の長谷川を見下ろし、目を剥いた。
憂夜の涙が零れ落ちたところから、次第に人間、長谷川が現れ始める。
露出したのは顔の右半分程度だが、その目がゆっくり瞬きをし、憂夜を見つめた。
「ゆう……や……」
「英明! ああ、英明。ねぇ、どうしたらいい? ああそうだ、もう一度アレで完全な鬼になれば……。そうすれば大丈夫かも! 羅刹が持ってるんだ! 取って来なきゃ!」
憂夜は矢継ぎ早に言った。必死だった。長谷川を失う不安と恐怖で狂いそうだった。
薄笑いを張り付けて、今まさ消えかかっている幼馴染の魂を引き留めようとした。
「憂夜」
長谷川は憂夜の手を取ると、静かに頭を振った。
「いいんだ。これで……」
「でも!」
「いいんだ。俺……なんかよく分からないけど──」
長谷川はゴホッと咳き込み、激しく喀血した。
「英明ッ!」
叫び、硬い毛に覆われた太い腕を掴む。
長谷川は、ゆっくりと手を伸ばすと、憂夜の頬に触れた。
「よく分かんないけど、憂夜が……、新しい世界でも俺を生かすためにしたってのは分かってる。でも俺は、人として最期を迎えたいよ……」
憂夜はヒィと、喉を鳴らした。
声にならなかった。
ただ、子供がするように、嫌々と頭を振った。
「憂夜の幼馴染の、英明として──」
「いやだよ英明! ダメだ!」
しかし、二度と返事が返ってくることはなかった。
長谷川英明の、人の目から、鬼の目から、スッ──と生気が消えた。
「嘘だ……。嘘だああああああ!」
憂夜の、狂ったような絶叫が響き渡った。
嫌だと叫び、長谷川の身体に縋り、かき抱き、喉が破れるほどに泣き叫ぶ。
「哀れだな……」
千里が呟く。
「大神さん」
大沢の顔が強張った。
「結界に綻びが。……何者かに破られました」
千里は、ゆっくりと智焔剣を握り直すと警戒した。
「そいつが入ったら、結界を張り直せ」
大沢は頷くと構えた。
「来ます──」
直後、重い爆発音と閃光がその場を包み、光の中に人影が浮かんだ。
その人影は、静かにこちらへと歩み寄り、倒れている長谷川の亡骸を見下ろすと、冷たく言い放った。
「ふん。使えんな。所詮は人間。不浄の者だ」
聞き覚えのある声。炎に照らされる、血色の悪い肌。
「貴様……」
高瀬がその目に怒りを湛える。
そこにいたのは、高瀬が六本木ヒルズで言葉を交わした松岡、その人だった。
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