第18話

 パトカーを始めとする緊急車両のサイレンが鳴り響く中、鬼が憂夜を背に、そして左脇に遠子を抱え、桜田通りを品川方面へと移動し始めた。

 車道に停車していた車からは既に人は逃げ出していたが、歩道に集まっていた野次馬や、もっと近くで撮ろうと車道に出ていた一般人が悲鳴を上げ、一斉に動き出す。それは無秩序な黒い波となって荒れ狂った。

 その時、車道で足をもつれさせ転倒した男に、鬼が目を留めた。

「グルルルル……」

 猫のように喉を鳴らし、たらりと唾液が零れる。男を餌と認識した様だった。

「あ……あ……ッ」

 助けを乞いたいのに、喉が閉まったようになって声が出ない。

 唯一手にしていた生配信中のスマホを鬼に向かって投げつける。

 しかし恐怖で脱力した腕では鬼に届くはずもなく、それはカメラレンズを男に向けたまま地面に落ちた。

 警察も、直ぐそばに憂夜がいる為発砲出来ない。現時点では、現場にいる警察関係者に、憂夜がどういった存在なのか図り知ることは出来なかった。

「ふぁ……あぁぁぁぁッ……助け……」

 男は子供が嫌々するように首を振った。

 もう自分の運命を悟っていたが、まだ生にしがみ付いていた。


 ──これヤバくね?

 ──コイツ漏らしてんじゃん

 ──いや、漏らすだろ

 ──俺も漏らしそうだわw

 ──はい、終了

 

 世界中に、男が尻もちをついた状態で、顎をがくがくと震えさせながら後退る姿が配信され、その動画は猛烈な勢いで再生数を上げていった。

 鬼は憂夜と遠子を地面に下ろすと、一気に男に詰め寄った。

 腐った生ごみのような息を吐き、体中からも鼻が曲がりそうな酷い臭いがした。

「はっ……」

 彼が短く息を吸った次の瞬間、カメラの前にべしゃりと肉片が落ちた。

 その肉片越しに、びくびくと痙攣する男の腹にむしゃぶりつく卑しい化物の姿が世界中に発信された。

「う……うわああああッ!」

 渦を巻く叫び声と怒号。

 再び野次馬達が我先にと逃げ出した。

「イヤアァァァァァ!」

「逃げろ!」

「殺される!」

 大移動を始める人の波。それを鬼が追う。恐怖の鬼ごっこが、目白不動の絵巻の如き地獄絵図が、そこにあった。

 鬼に投げ飛ばされ、壊れた人形のように首が折れた者。

 体を裂かれた者、首から喰いつかれた者。

 野次馬達は、背後から迫る鬼から逃れようと必死に走った。

「クソッ! どけ! どいてくれ!」

 その人波に逆らい、かき分け、走る男がいた。

「文孝! ダメだ!」

 月見里の静止を振りほどき、人波から脱した男は息を切らし、再びあの鬼と向き合った。

「よう……。今日も安定の不細工だな、クソ野郎」

 カチリと愛用のSIG-P226のスライドを引いて構える。

 ──高瀬だった。

 

 *   *   *


 港区三田にある慶応義塾女子高校の脇から、白いウイング型の大型トラックがゆっくりと桜田通りにぶつかる国道1号線に入って来た。

 それは曲がる訳でもなく、ゆるゆるとT字路の中心で停車するとエンジンを切った。

 まるで通りを遮るかのようだ。

「ちょっとちょっと! 運転手さん!」

 通りの端に止めたパトカーから駆け寄った警官がトラックの運転席に近付き、ドアをコンコンとノックすると、スーッと半分ほどウインドウが下がった。

 運転席側の窓にはサイドカーテンに加え、仮眠用の遮光カーテンが半分ほど引かれており、また、遮光シートが貼られていた。更に警官の頭からかなり上に位置していることもあって、ドライバーの顔ははっきりと見えない。

 警官は訝しげに覗き込みながら、声を掛けた。

「ごめんなさいね! あの、ここ、危ないの! もう封鎖されるから! 出て貰えますかね!」

「ほう──」

 ドライバーはそう言うと、更にスーッとウインドウを下げた。青白い顔が露わになる。そして、口の端を上げると言った。

「ならば、あなたも早く逃げるべきだったな」

「ッ──」

 警官はそのまま棒切れかのように後ろに倒れた。後頭部から流れる赤黒い血が、まるでアメーバのようにアスファルトを這い、濡らしていく。

 運転席から硝煙を上げる拳銃を手にしていた松岡は、くつくつと喉を鳴らして笑った。

「全く愚かだな。ここを掌握するのは君たちではない。ここは、この東京は──。我々の創世の地なのだよ」

 そう言うと、松岡はトラックのインパネにあるボタンを押し、手元のリモコンを操作した。

 ウィーンと言うモーター音とともに、左ウイングが上がり始める。

「Have a good end」

 ズシリと重い音が立て続けに響いた。そして──。

「グオォォォォォォォッ!」

「ガアァァァァァァァッ!」

 東京の夕闇を割るような、幾つもの獣の叫びが響き渡った。

 

 *   *   *


 何機ものヘリコプターが飛び交う赤羽橋南交差点から目と鼻の先にある三田国際ビル前。

 薄暗くなった車道の真ん中で、東京タワーを背に銃を構える高瀬と鬼の間に、少年が立ちはだかった。

「おじさんに用はないんだけどな」

 少年は小首をかしげる。

 薄闇でも分かる。もう何度も見た顔だ。高瀬は少年の後ろにいる鬼に銃口を向けたまま言った。

「……お前、藤田憂夜だな」

「あれれぇ? おじさん、おれの名前知ってるの?」

 憂夜は目をぱちくりさせると、楽しそうにくすくすと笑った。あどけないアイドルのような可愛い顔をしているが、どこか大人を小馬鹿にした嫌な笑い方だった。

 おまけに、この状況にそぐわないその態度は高瀬のカンに触った。しかし、それを必死に押し留める。

「よ~く知ってるぞ。お前さんの学校から、お前を含めて3人も行方不明者が出たからな。ケーサツもバカじゃねぇから調べるんだよ。藤田憂夜、長谷川英明、それから──」

「ニノマエ? アイツ死んでたでしょ!」

 憂夜はそう言って高瀬を指さした。

 それはまるでクイズの答えを言うかのようなノリである。

 高瀬は至極不愉快だった。

 しかし憂夜の言う通り、代議士・ニノマエハジメの息子、ニノマエワカルは、御岳山の七代の滝で遺体で発見された。

 ショック死だと聞いているが、今なら分かる。ニノマエの遺体には爪痕があったという報告があった。つまり、鬼の精に耐えられずショック死したのだ。

 憂夜は噴出し、背中を丸め、自分の身体を抱くようにして笑っている。

 高瀬には狂っているように見えた。

「今思い出しても涙が出ちゃうよ。もうね、助けて助けてって、めっちゃ情けない顔して泣いてたの。マジおっかしくて。ね? 英明」

「──そいつが長谷川英明なんだな? いや、だったと言うべきか。今や卑しいバケモンだもんな」

 ピタリと笑い声が止まった。

 顔を上げ、冷えた視線を高瀬に向ける。それはみるみる怒りを湛えた。

 薄っぺらな肩が、細い腕が、握った拳が、ぶるぶると小刻みに震えている。

「化物じゃない……。英明は英明だ」

 おや? と、高瀬は思わず眉を動かした。

 気のせいかもしれないが、憂夜の後ろに控えている鬼が、不意に憂夜を覗き込むような仕草を見せたように思えたせいだ。

 不思議とあの醜い顔が悲しげに見えた。

 ──まさか、アレに感情があるのか?

 ──目の前の少年を気遣っている?

「……随分と、大事なお友達なんだな」

 ずっと鬼に標準を当てて銃を構え続けているせいで、次第に腕が疲れてきた。

 とはいえ、それを悟られては隙を突かれる可能性もある。

 高瀬は焦っていた。

 たとえ"上手くいった"としても、"アレ"は直ぐには布告されない。"奴ら"も直ぐには来ない。それまで持つだろうか。

 いや、そもそも思うように動かないかもしれない。

 苛立ちと緊張でこめかみから、そして脇から背中からと汗が伝った。

「そいつが……ニノマエを殺ったのか」

「アイツが悪いんだよ! チンピラを使って英明を嵌め──」

「だから返り討ちにしたのか。大事な自分の親友を使って」

「うるさい! だまれ! だまれだまれだまれ!」

 憂夜は幼い子供のようにひとしきり地団駄を踏んだのち、俯き、肩を上下させながら小さくつぶやいた。

「作るんだ……」

 その場に居る警察や野次馬は、ただ固唾を飲んで遠巻きに見ている。

 その中には顔色を失った月見里の姿もあった。その表情にはいつもの穏やかさは欠片もなく、苦い顔をして唇を噛んでいる。

「あ? なんだって?」

 ヘリの音で憂夜の声が届かず、高瀬は聞き返した。

「おれ達は、新しい世界を作るんだ!」

「新しい世界……? おいおい、お前、アタマおかし──」

「おれたちは正義なんだ」

 憂夜はそう言い切ると、決心したように顔を上げた。

「邪魔するヤツは、容赦しないッ!」

 ピーっと、憂夜は歯笛を吹いた。

 同時に鬼が雄叫びを上げる。その地獄の底から響き渡るかのような叫びに、再び野次馬が蜘蛛の子を散らしたように逃げ惑い始めた。

 しかし、憂夜はニヤリと笑うと言った。

「無駄だよ。もう逃げられない」

「文孝! 危ない!」

 幾つも重なる悲鳴と怒号の中、親友の、叫びにも似た声が耳に届き、高瀬は反射的に視線を上げた。

「──!」

 咄嗟に腰を落とし、両腕で顔を庇った直後、ガシャンと言う音と共にガラス片が飛び散り、高瀬の直ぐ後ろに潰れたセダンが落下した。

 そしてそれはガソリン臭と火花を散らして歩道へと滑っていく。

「逃げろ! 爆発する!」

 高瀬は叫びながら地面に転がり、周辺にいた何人かも慌てて走る。

 その脇をすり抜けるようにして三田国際ビルに突っ込んだ車両は、その途端に激しく爆発した。

 地響きと共に、ガラス片や粉砕されたコンクリートが爆風に乗り方々へ飛び散る。高瀬は頭を抱えるようにして身を守った。

 陽が落ち暗くなった通りに、黒煙とオレンジ色の激しい炎が上がった。しかし、爆発はそれだけでは終わらなかった。

 鬼の後ろで、次々と放置された車両が爆発し、炎と煙を上げ始める。

 キュンと言う音と共に飛んできた破片が高瀬の頬を掠り、ちりちりとした痛みが走った。耳は蓋でもされたように音がこもっている。

「クソッ! どうなってる!」

 無駄だと分かっていたが、耳を手のひらでこすり、体制を整えた高瀬は、我が目を疑った。

 鬼となった長谷川英明の背後で渦巻く黒煙の中から、複数の鬼が出て来たからだ。

 それらはみな顔や体付きは違っていたが、どれも大きく、醜く、そして恐ろしかった。

「テメー……。一体何人犠牲にしたんだ」

「犠牲じゃない。救済だよ」

「なんだと? お前、どう言うつもりだ!」

「おじさんたちみたいな、身勝手で、自分の価値観を押し付けるような大人が不幸な子供と世界を産むんだ」

 憂夜は再び長谷川英明の背に乗った。長谷川の腕には、今だぐったりとしている遠子が抱えられている。

 高瀬は奥歯を噛みしめた。

 長谷川が後退り、その両脇から何体もの鬼が前へと出て来たのだ。

 どうすればいい。もう、これ以上は無理か。

「悪い奴は──」

 憂夜の口の端が上がった。其処ここで燃え上がる炎で、憂夜の顔も赤鬼のように見えた。

「みんな滅びろ!」

「グオォォォォォォォッ!」

「ガアァァァァァァァッ!」

「いっけぇぇぇぇぇ!」

 憂夜の掛け声とともに、鬼たちが飛び出そうとした時だった。

 ヴォン!

 黒煙の中から低いエンジン音と共に2つのライトが飛び出してきた。

「あれは……」

 高瀬は目を見張った。あれは、高瀬の良く知る2台のオートバイ。

 ライダーは鬼の前に回り込むと、ヘルメットを脱いだ。

「……随分と遅かったね、大神千里。……と、副会長さんか」

「悪ぃな。チビ助をジジイに預けなきゃいけねぇわ、あちこち交通規制布かれてるわで遅れちまったわ」

 千里は悪びれる様子もなくそう言うと、じろりと憂夜を睨んだ。

「つか、藤田。お前随分やりたい放題だな。この代償はでけぇぞ」

「高瀬さん、大丈夫ですか」

 大沢が高瀬に駆け寄る。そして高瀬に大きな怪我がないことを確認すると、にこりとほほ笑んだ。

「大沢君。ここは危険だ。早く──」

「大丈夫です」

「しかし!」

「高瀬さん。……大丈夫なんです」

 大沢はふわりと笑って頷いた。

 大丈夫だと? 高瀬に大沢の言葉が信じられる筈もなく、ただ、彼の腕を掴んで、駄目だと繰り返した。

「大沢。結界を張れ」

 千里は高瀬と大沢に背中を向けたまま、短く言った。

「はい」

 大沢が立ち上がり、両足を開く。そして軽く握った左手の上に右手の平を重ねると、静かに真言を唱え始めた。

「オンアニチマリシエイソワカ、オンアニチマリシエイソワカ……」

「──!」

 白い光が、高瀬達と鬼を囲むように走る。そしてそれはそのまま高く空に伸び、まるで光の筒の中にいるようだった。

「こ、これは──。これは一体……」

「ノウマク サンマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン……」

 続いて千里も真言を唱え始める。次第に千里の身体が炎に包まれ始めた。

 ゴウと激しく渦を巻き、炎は生き物のように千里の腕の周囲を螺旋を描きながら掌へと向かう。そしてそれは大きく燃え上がると、一振りの大太刀と姿を変えた。

「な……。千里、お前──」

 高瀬は唖然と立ち尽くしていた。

 幼い頃から見て来た自分の弟分の、全く知らない姿。信じられない姿。

 これは一体何なのか。

 

 千里、お前は一体何者なんだ──。

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