第16話
高井戸の千里たちの家を訪ねると、大樹が高瀬に飛びついてきた。
大丈夫かと聞くと何度も頷き、高瀬の首にしがみつく。そんな大樹を抱き上げてリビングに入る。そこでは大沢が室内を片付けており、千里はというと──。
「……流石だな」
高瀬は大樹を下ろすと、そう言って苦笑した。
あれほどの事があったというのに、千里はリビングのソファーでぐっすりと眠っている。
「コーヒー淹れますね」
「有難う。月見里もいるから、あいつの分も頼めるかな」
大沢は勿論ですと言うと、キッチンに引っ込んだ。
カチャカチャという食器のぶつかる音、湯の湧く音。日常の生活音が、昨日の出来事は夢だったのではないかと思わせる。
「せんせ! せんせ!」
玄関の方から、「こっちこっち」とはしゃぐ大樹の声が聞こえる。どうやら月見里を案内しているようだ。
「こんにちは」
月見里が大樹に手を引かれてリビングにやって来た。久しぶりに会う月見里に大樹は興奮しているようで、月見里を高瀬の横に座らせると気に入りの玩具を取りに走り、そしてちょこんと月見里の膝の上に座る。
「すみません、先生」
大沢が申し訳なさそうに言って、コーヒーを高瀬と月見里の前に供した。
「有難う。僕も久しぶりに会えて嬉しいよ。ホントに久しぶりだものね」
「うん!」
大樹は月見里に頭を撫でられ嬉しそうだ。玩具を見せ、得意気に使い方を指南している。
「あれ……。先生も来てたのか」
大樹のはしゃぎ声で目を覚ましたのか、千里がのっそりと体を起こした。
ソファーの背にもたれて大きくあくびをすると、ガシガシと頭を掻き、大沢に自分のコーヒーを要求する。
そして、高瀬に「あの糸目は大丈夫なのか」と、柴田の容態を確認した。
「おお、ピンピンしてる」
「ふうん。なら良かった」
それだけ言うと、千里はコーヒーを啜った。
リビングの片隅には、昨日届いたばかりの日本刀が入っていた段ボールと、折れた真剣・藤安の鞘が無造作に立てかけてある。流石に折れた刀身は片づけたのか見受けられなかった。
何事もなかったかのように、千里はスマホを弄っている。部屋がまだ多少散らかっている事を除けば、いつもの光景だ。
「千里」
「ん?」
「巻き込んですまなかったな」
尋常じゃない事態にこの程度の言葉では足りないと思ったが、高瀬はそう言うと頭を下げた。
しかし、返ってきたのは舌打ちだった。
「そう言うの要らねえんだよ。面倒くせぇな」
「大神さん」
「いや、いいんだ」
止めようとする大沢を高瀬が制した。そもそも、罵倒されるぐらいじゃ足らないと思っていた。
「すまん。俺のせいだ」
「そうじゃねぇだろ」
千里がじろりと高瀬を睨む。どうすればいいのか。高瀬は戸惑った。すると──。
「んんっ? けんか?」
大樹が高瀬を見上げた。
生意気に腰に手を当て、頬を膨らませている。どうやら月見里の前でいいところを見せたいらしい。
「ああいや、そうじゃないんだ、大樹」
「けんかはダメ。だって、ぼくたち家族なんでしょ?」
「家族……」
「だって、大神さんがそう言ってたもん」
「うるせぇバカ! 余計なこと言うな!」
なんだそういうことか。
高瀬は目の前で明後日の方向を向いて耳を赤くしている千里を見て、思わず笑ってしまった。
難しく考える必要なんかなかった。 千里はちゃんと、自分と同じように思ってくれていたのだ。だったら余計なことは必要ない。柴田にしたように、これだけで良かったのだ。
「千里、サンキューな」
「ん」
自分とそっくりな、憎らしくも可愛い弟分。彼の、そして彼らの存在に、高瀬は何度も救われている。
ここにいる彼らがまごうことなき自分の家族なのだと、守るべき存在なのだと、高瀬は思いを新たにした。
* * *
「アンタ、御岳山の鬼伝説を知ってるか?」
唐突に千里が言った。
どうやら昨日話そうとしていたのはこの事らしいが、高瀬は驚いた。
「ああ、俺は御岳山にある民宿の女将から聞いて……つか、お前は何で知ってるんだ?」
「実家に、その鬼伝説を描いた絵巻きが有った」
千里は、実家の目白不動で天海に見せられた絵巻の内容を語った。
「信じられない……」
その内容に月見里はひどく驚いている様子だったが、高瀬にとっては既知であったため、自分の記憶をさらう様に、何度となく頷きながら聞き入った。
千里の話したそれは、高瀬が御山荘の女将、静江に聞いた内容と一致していた。
「伝説じゃ、御岳山の鬼塚には、鬼を焼いた灰を入れた壺があるとか」
千里は高瀬の言葉に頷いた。
そして、自ら御岳山へ向かい、鬼塚を訪れたこと、そこが何者かによって荒らされていた事を話して聞かせた。
「アンタが御山荘のばあさんに聞いた話じゃ、御岳山の鬼は感染るんだよな?」
「そうだ。だが解せん。御山の鬼は修験僧によって滅せられたはず。それがなんだって現代に蘇ったんだ?」
「滅したとはいえ、無くなった訳じゃないだろ」
「まさか、鬼塚の……遺灰?」
月見里が呟き、千里はそれに頷いた。
「多分間違いないな。鬼塚にあるはずの、鬼を焼いて収めたとかいう壺が無くなってた」
「なんてこった。そんなモンが何の管理もされずに放置されてたのかよ」
「伝承されてたって言っても、そんな脅威、現実的とは言えねぇだろ。徳川埋蔵金みたいなモンで、誰も本気にゃしねぇよ」
千里の言う通りだ。
しかし、現実に恐ろしいことが起きている。
「ねぇねぇ先生。大きいおてがみだね」
退屈したらしい大樹が、月見里の封筒に興味を示した。
「大樹。勝手に触っちゃダメだよ」
落ち着かない大樹を大沢がついに抱き上げ、ダイニングへ連れ出す。
冷凍庫を開けてゴソゴソしているところを見ると、アイスで釣って大人しくさせるつもりだ。
大樹はと言うと、あっさりとその罠にかかったらしく、目を輝かせて大沢の動向を見守っている。
「そうだった。これは──」
月見里は封筒の中からクリアファイルを取り出した。
「今日墳堂が持ってきた分析データなんだ。すっかり忘れてたよ」
墳堂と聞いて高瀬は顔を顰めた。
「あのデカイ野郎か」
「まあ、確かに大きいね」
月見里はくすくすと笑った。
なにせ、墳堂はあの図体、あの顔で、意外に可愛いもの好きなのである。
その上、彼の部下でもある美貌の准教授の女性に頭が上がらず、常に弄ばれていた。顔に似合わず、心の根の優しい男なのである。
「で、あの野郎がなんだって?」
「例のウィルス……今千里君から聞いた話からすると、恐らく人を鬼に変えてしまうウィルスという事になる訳なんだけど、その抗ウィルス薬となるものがないかと思って調べて貰っていたんだ。その結果がここに入ってる。僕もついさっき目を通したばかりなんだけど、ひょとすると大発見だよ」
「おい、マジかよ!」
高瀬は思わず立ち上がった。
そして月見里に、勿体ぶるな、早く話せとせっつく。
「あ。でも、難しいことは要らねぇからな。簡潔に話せよ? サクッと、短く、簡単に。俺が分かるようにな」
「すごく面白いのに」
「面白くない! 蕁麻疹が出る!」
月見里はしょうがないなあと肩を竦めると、ファイルを封筒にしまった。内容はもう頭に入っている。
「そうだなぁ。例えばハブに咬まれて体内に毒素が侵入した際、血清というものを打って血清の中の抗毒素で無毒化する治療法があるんだけど、結局この血清は免疫抗体が無ければ作れない。となると、今の場合、ウィルスに感染して命を落とすことなく鬼となった人から作らなければならない訳だけど、現実的ではないよね。だから、至極乱暴で単純だけど、殺菌出来ないかと考えたんだ。それで墳堂に調べて貰った」
「おう、なんか小難しい話だが理解出来たぞ」
「ホント、バカだなアンタ。俺は恥ずかしいぞ」
千里が顔を顰め、高瀬がうるせぇと千里をつつく。いつものじゃれあいに、月見里も頬を緩めた。
「さて。そこで墳堂には、所謂殺菌効果のあると言われているものをピックアップして、ご遺体から採取したサンプルに添加し、変化を見て貰ったんだけど、結果は酷いものだった。まず、ヒトに使用出来る医薬品としての殺菌剤、ヨウ素や塩素系、アルコール類はダメだった。農業用も試したがこれもダメ」
「おい、月見里。結論から言え。あったのか、なかったのか」
高瀬はじれったくなった。小難しい話などどうでもいい。結論だけ知りたいのだ。
「あった」
「えっ」
大樹を除く全員の視線が月見里へ向いた。
「あった……のか……?」
「あった」
* * *
それは墳堂が逆らう事の出来ない、美貌の准教授の一言だった。
「あら教授。何をなさっているんです?」
朝から一人研究室にこもっている墳堂を訪ねた准教授・越真樹は、長い黒髪をかき上げると細い腰に手を当て、肩をそびやかしていった。
「君には関係ないだろう」
「あら私に言えないような事をなさっている訳ですねいやらしい」
「少し区切ってしゃべったらどうだ。うん?」
墳堂は指紋だらけの汚れたサングラスを、人差し指でくいっと上げた。その顔は本当に嫌そうである。
何しろ墳堂は、このT大医科学研究所の女ヒットラーとの呼び声高い准教授がとても苦手なのだ。
確かに稀に見る才女で、早々お目に掛れないような美人だ。色白でスタイルも良く、スカートから覗く足も形よく、アーモンドのような目を縁取る睫毛は長く美しい。
しかし、墳堂の理想の女性と言えば、あの名作「フランダースの犬」のヒロイン、アロアである。目の前の、可憐さの欠片もない女に興味などない。
だが、真樹は墳堂をやけに気に入っているようで、何かとちょっかいをかけてくる。いや、ちょっかいと言うよりはイジっていると言った方が正確だろう。
この日も真樹はずかずかと墳堂のパーソナルスペースに入り込み、手元やメモをじろじろと遠慮のかけらもない視線を送り、そして言った。
「さては法医学教室の小娘ですか」
「にゃにゃにゃにゃっ……、にゃにお言うか、越君。それに小娘ではないぞ! 深田栞君だ!」
「動揺するあたり、ますます怪しいですね。で? 何を頼まれたんです?」
「フン。秘密だ」
「ほおん?」
スッと目を眇め見上げてくる女ヒットラーに、墳堂は震えあがった。一歩一歩と後退るも、部屋の隅まで追い詰められてしまう。
「ほおおおおん?」
「いや、あの……」
「ゲロっておしまい」
秘密は守られなかった。恐怖のあまり、墳堂はあっさりと真樹に依頼内容を話してしまった。
「あれもダメ、これもダメで八方塞がりでな。一体何なんだコレは」
「その辺の薬草でも揉んで貼ってときゃ治る」
真樹の、サイエンティストと思えぬ言葉に、墳堂の顎は床につきそうになった。
「ふざけてるのか、越君。うん?」
「あら、ウチの祖母が昔よく言ってましたよ。先人の知恵も馬鹿にできません」
「ふむ」
「ヒットしたら、必ず報告してくださいね。欲しい帯があるんで」
「…………」
* * *
「で、何がヒットしたんだ」
「ヨモギだよ」
「その辺に生えてるアレか?」
そうなんだよと月見里は頷き、コーヒーを一口含んだ。
「ヨモギに多く含まれるモノテルペンと言う殺菌成分があるんだけど、それで殺菌する事が出来たんだ。また、それを事前に使用する事でウィルスを予防出来た。つまりワクチンにもなる」
「大発見じゃねぇか!」
あの化物に対抗することは出来ないのではないかと思っていた高瀬は興奮しきりだ。
千里と大沢も感嘆の声を上げている。それにつられ、大樹も訳が分からないまま手を叩いて喜んだ。
「覚えてる? 柴田君にヨモギジュースを飲ませたこと」
「あ……」
あの時、高瀬はペナルティとして、柴田に大量のヨモギジュースを飲ませた。
ふざけてやったことだったが、結果的にあれが柴田の命を救ったのだ。
「恐らくこれで抗ウィルス薬が作れる。もっと言えば、このウィルスを持つ本体を倒せるかもしれない」
「よし! 一旦本庁に戻ろう。月見里は薬の作成を手配してくれるか」
「了解」
高瀬は立ち上がると、慌ただしくリビングを出ようとしたが、ふと足を止めると振り返った。
「千里」
「ん?」
千里はソファーで足を投げ出したまま、いつもと変わらない様子で高瀬を見ている。
その様子に、高瀬はかえってホッとした。
ここに自分が帰る場所がある。ここに自分の家族がいる。それは高瀬を強くするに十分な、かけがえのない宝。
何の根拠もないが、それでもこの宝物がある限り、またいつもの日常が帰って来るという妙な確信が持てた。
「後で連絡する」
「ああ。夕飯までに戻れないなら連絡しろよ。大沢が心配する」
「お願いしますね、高瀬さん。今日は高瀬さんが大樹をお風呂に入れる番ですよ」
「おお、任せとけ」
高瀬はニッと笑うと、月見里とともに大神邸を後にした。
* * *
「おい」
千里は、バタバタと高瀬達が出ていくのを見送り、リビングに戻ってきた大沢を呼んだ。
「はい」
「警察無線を傍受しておけ」
「承知しました」
嫌な予感がした。
──ボクを殺さなかった事を後悔するよ。
藤田憂夜が去り際に言い残した言葉が気になった。
何か仕掛けてくる。そんな気がしてならなかった。
「大神さん」
地下室から大沢が呼ぶ声がする。千里は急いで地下へと向かった。
この家の地下には、高瀬の知らない部屋があった。警察無線の傍受は勿論、様々なシステムへの侵入が可能なコンピューターを置いている。
大沢はここから警察無線を傍受し、警察車両の動きを監視していた。
千里が到着すると、ヘッドフォンを外し、スピーカーに切り替える。スピーカーからは、警察の緊急指令が発せられていた。
『緊急指令、緊急指令! 総監のお嬢さんが警視庁よりご自宅へ向かう際、何者かに拉致された模様。同乗の護衛警官は全員死亡が確認された。付近を警邏中の車両は──」
* * *
「ガアアアアアアアッ!」
東京の街中、大きく吠える鬼の前で、パトカーが燃え上がっていた。
多くの人が初めて目にする異形のものに悲鳴を上げ、しかし遠巻きにスマホを向けている。
「女が鬼に捕まってる!」
通行人が叫んだ。
「子供がいるぞ!」
「君! 早く逃げろ!」
しかし、その子供は逃げるどこか自ら鬼に近づき、女を抱える鬼の背に乗った。
「ふふ。ほら見て英明。人間ってバカだね。逃げればいいのに、動画なんか撮ってるよ?」
鬼の耳元でそう囁くのは、憂夜だ。
そしてぐったりとした女、水野遠子を鬼の肩越しに見下ろした。
「うーん。こんなオバサンで釣れるとは思えないけど……」
言って、ニヤリと笑う。
「でも、放っておくことは出来ないよね?」
──待ってるよ。大神千里。
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