第13話

「優香ぁぁぁぁぁッ!」

 高瀬は叫びながら走り出していた。あの時と同じ後悔を、もう二度としたくなかった。もう誰も目の前で失いたくはなかった。

 今の自分は死をもって赦しを請う勇気もなく、千里の保護者として彼らを庇護し、刑事として働き続ける事を、漫然とした己の生の理由としてきたに過ぎない。

 それがなんの意味も無いと知っていながら、ただ己の罪から逃れるために──。

「どりゃあぁぁぁぁぁ!」

 千里の真剣「藤安」を上段に構え、鬼の真後ろで踏み切り、そのまま鬼の首の付け根を狙って振り下ろす。

 首を落とし、焼き尽くせば──しかし、真剣藤安は鬼の身を切り裂くどころか、毛の一本をも落とす事無く、キンと言う高い音とともにあっさりと折れた。

「ッ……」

 とんでもない硬さだった。高瀬の手がびりびりと痺れる。

 そして、シューシューと言う歯の間から抜けるような音、不快な臭いに、全身から冷たい汗が吹き出した。

 いる。すぐそばに。なのに体が動かない。

「高瀬さんッ!」

 柴田の声にハッとして地面に体を倒して転がる。

 すんでのところで鬼の爪を逃れたが、顔を上げるともうそこに鬼が迫りつつあった。

「ハア……ッ、ハッ……あ……」

 地面に尻をついたまま、迫る鬼を見上げる。喉が引くついた。声が出ない。

 これまでに、これ程の恐怖を味わったことがあっただろうか。

 終わりだ。ついに、贖罪の時が来たのだ。

 こんな時、走馬灯のように過去の記憶が過ると言うが、目の前はただ真っ暗だ。

 高瀬は鬼の歓喜の雄たけびを聞きながら、項垂れ、そして目を閉じた。

「やめろ! やめろおおッ!」

 柴田の叫び声に薄く目を開ける。そこから高瀬の網膜に映ったのは地獄のスローモーションだった。

 高瀬に向かい手を伸ばしながら走って来る柴田、振り返りる鬼、振り上げられる鬼の腕、鬼に薙ぎ払われ飛んでいく柴田の身体、飛び散るのは赤い──柴田の、血だ。

「柴田……柴田ァッ!」

 声を振り絞るも、柴田は木偶人形のように地面に転がりピクリとも動かない。

 そんな柴田に標的を変えたか、鬼はズシリズシリと巨体を揺らし、柴田へと歩み寄っていく。

 そして再び野太い腕を振り上げた。

「やめろ……柴田に触るな!」

 ぴたりと鬼の動きが止まった。しかし、それは高瀬の声に反応したからではない。

 僅かに、ピィーと言う笛のような音が聞こえた。それに耳を澄ませている。

 そして、柴田に興味を失ったかのように体の向きを変えると、猛然とその場を離れた。


 *   *   *


「──ッ!」

 憂夜は地面に片膝をつくと、大沢が射た矢を腕から引き抜いた。

 ぽたぽたと滴る血が、地面を濡らす。

 そして、千里の不動智焔剣に切り裂かれ、燃える鬼を見つめていた。

「嘘つき」

 腕を押さえ、大沢を睨む。しかし大沢は平然と言った。

「手が滑りました」

「笑えないね」

 そう言うと憂夜は歯笛を吹いた。

「大沢!」

 千里が言うが早いか、大沢は文字通り矢継ぎ早に弓を引く。

 しかし庭の方から弾丸の如く猛然と走り込んで来た鬼は、次々と大沢の矢を弾き飛ばし、憂夜を肩に抱え上げた。

「いずれ、ボクを殺さなかった事を後悔するよ」

「藤田!」

 千里の呼びかけに、憂夜はちらとも視線を向けることなく、鬼とともに闇に消えた。

 遠くでサイレンの音が聞こえた。

 

 *   *   *


「柴田!」

 高瀬は折れた藤安を投げ捨てると、意識を失い、ゴム人形のようになった柴田を抱き起した。

 ワイシャツの胸は裂け、そこから出血している。最早シャツはぐっしょりと、真っ赤に染まっていた。

「しっかりしろ!」

 高瀬は自分のシャツを脱ぐと丸め、柴田の胸をぐっと押さえた。

 シャツはあっという間に柴田の血を吸い、赤くなっていく。

「柴田……。ウソだろ?」

 高瀬は震えが止まらなかった。御山の鬼は感染るのだ。しかし、柴田が鬼の精に耐えられる筈がない。となれば、柴田の運命はひとつだ。

「返事しろ! 柴田!」

「おい……」

 いつの間にか、背後に千里が立っていた。

 大沢は大樹のもとに駆け寄り、大樹は泣きながら大沢の腕の中に飛び込んでいる。

「おい、まさか……」

「千里……。救急車、呼んでくれ」

 顔色を失っている千里に言った。無駄だと分かっていた。それでも、藁をも掴む思いだった。

 これ程血が流れているのだ。鬼の精も一緒に流れ出たかもしれない。妙な期待を抱く。

「直ぐ手配する。サイレンの音が聞こえたから、警察がこっちに向かってるかもな」

「そうか」

 きっと近所の住人が通報したのだろう。しかし、そんな事どうでもよかった。こんな時、警察が役に立たないことは自分が良く知っている。

 腕の中の柴田はどんどん血の気が失せていく。手はもう冷たかった。

 何故俺なんかを助けに来たのか。ただで済むはずがないことは分かっていたはずだ。

 何故自分の命を易々と差し出せたのか。

 あの時の優香のように。

 高瀬はギリリと奥歯を嚙み締めた。何故か、柴田の顔が歪んで見えない。鼻の奥がツンと痛い。

 知らずと嗚咽が漏れた。

「頼むって……。連れて行かないでくれ。こいつを助けてくれよ。俺の命なんか、くれてやるから……」

 高瀬は柴田を強く抱きしめた。

 涙が止まらなかった。

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