第12話

 信じられない光景だった。

 目の前には、赤塚公園でモニター越しに見た鬼がいた。

 3メートル近くはあろうかという巨大な体。全身は汚れた毛に覆われているも鋼のような筋肉が見て取れる。頭の上には2本の角があり、陽が落ちた薄闇の中で猫のような黄色い目が光って見えた。大きく裂けた口から吐かれる荒い息。そこからは生ゴミが腐ったような酷い臭いがした。

「ひえ……。あわっ、あわわ……」

「シッ。水野……。動くな」

 鬼を興奮させないよう、静かな声で遠子に指示を出す。ここで騒いで付近の住民が集まって来たら、それこそ地獄絵図だ。

 鬼と遠子の間隔は3、4メートルか。しかしその程度の距離、あの鬼ならひとっ飛びだろう。

 どうする──。

 一か八か。高瀬は汗ばむ手をスラックスにゆっくり擦り付けると、静かに腰の警棒に手を伸ばした。


 *   *   *


「チッ……。なんで鬼がここに──」

 インターフォンで外の様子を確認した千里は舌打ちをするとつぶやいた。

 この家のインターフォンには高性能暗視カメラを搭載している。モニターには巨大な鬼の姿がしっかりと映っていた。

「おっ、鬼ィ? まままま、まさかあの……、いいいいい、一体どうしたら……」

「アンタ警察官だろ。機動隊でもSITでも呼べよ」

 震え、顔を引きつらせる柴田を呆れたようにひと睨みすると、千里は大沢と視線を交わした。

 大沢は何も答えず、しかし承知したと云う風に小さく顎を引いた。

「大樹、いい子にしていて」

 大沢はそっと微笑み、大丈夫だよと大樹の柔らかな髪を漉くように撫でる。そして大樹がこくりと頷くのを確認すると、柴田に向き直った。

「柴田さん。申し訳ありませんが、大樹をお願いします」

 言いながら、大樹を柴田の胸に預ける。柴田はガクガクと何度も頷くと、大樹をぎゅっと抱きしめた。

 完全に顔色を失い、歯の根が合っていない柴田に一抹の不安を感じつつも、千里は大沢に行くぞと声をかけ、二人はリビングを出た。

「えっ、ちょっ、どうしよう。えっと、でっ、電話……。あれ? 携帯どこ行ったっけ? てか警察何番?」

 柴田の頭は既にパニックで正常に稼働していなかった。

「おにいさん……」

 ハッとして自分の腕の中を見る。大樹が大きな目で真っすぐに自分を見ていた。

「大樹くん……」

「大丈夫だよ? 怖くないよ?」

 大樹はもぞもぞと柴田の胸で身じろぎすると、小さな手を伸ばし、柴田の頭を繰り返し撫でた。

「いいこ、いいこ。大丈夫だよ。ぼくがいるからね?」

「うん……」

 柴田は大樹を抱き締めると、滲んだ涙を拭った。

 しっかりしろ。護るのだ。護らなければならない。

 この、小さな命を。自分の力で。


 *   *   *

 

 千里と、次いで大沢が玄関を飛び出す。

 生温い風が吹く中、鬼と対峙する高瀬の背中が見えた。

 高瀬は腰の警棒に手を伸ばしている。バカが。あんな物で戦えるとでも思っているのか。

「下がれ。アンタじゃ無理だ」

 そう言って高瀬に向かい歩を進めようとした千里の行く手を遮るかのように、突如として影が飛び込んできた。

 そして臭う、生ごみが腐ったような……。これは死臭だ。

 反射的に飛びずさり、その影に目を凝らす。そこには鬼に抱きかかえられた少年がいた。

「鬼が……、2体……」

「やあ、こんばんは。生徒会長さん……と? ああ、副生徒会長も一緒なんだ? 相変わらず仲良いね~」

 この場にそぐわぬ明るい声が千里の神経を逆撫でする。

「誰だテメェ」

 千里の声に応えるかのように、風に流された雲の合間から月が顔を出し、少年の顔があらわになった。

「大神さん。藤田憂夜です」

「こいつか」

「ええ~。ひどいな。生徒会長が同級の生徒の顔も分からないなんて。これはお仕置きしなくちゃね! いっくよー!」

「──!」

 ドゴンと言う重い音がして、千里の足元で土埃と小石が舞い上がった。

「避けないでよ~。次はちゃんと受けてよ? 鬼の、爪!」

「ざけんな!」

「ヴォォォォォ!」

 憂夜を抱えた鬼に共鳴するように、高瀬の前の鬼が雄叫びを上げた。

「クソッ!」

 腰から特殊警棒を抜き、地面を蹴る。

 特殊警棒は横からの衝撃に弱い。立ち向かうならこれしか──。

「喰らえぇぇぇぇぇ!」

「高瀬ぇぇぇぇッ!」

「ガアァァァァッ!」

 絶叫する遠子の横を駆け抜け、吠える鬼に向かい思い切り足を踏み切る。そのまま警棒を突き刺すように、鬼の眉間を突いた。

「グオォォォッ!」

 鬼が怯んだ。今だ。

「水野、来い!」

 遠子の襟首を乱暴に引き上げ、肩に担ぐ。

 グエッと、蛙が潰れるかのような声を漏らしたが、構わず庭の方へ走った。

 背後ではもう一体の鬼と、千里、大沢が対峙している。

 早く。コイツを柴田に預け、千里たちの元に戻らねば。

 待ってろ!


 *   *   *


「いつも寝てばっかりの生徒会長だって聞いてたから虚弱体質なのかと思ったけど、意外とすばしっこいんだネ」

 憂夜は楽しそうにくすくすと笑っている。そして鬼からするりと飛び降りると言った。

「さ、ボクシングのお兄さん? ご飯だよ。あんまり脂は乗ってなさそうだけどネ」

「まさか……」

 大沢の眉がぴくりと動いた。

「大神さん、この鬼……」

 大沢は、目の前の鬼が、今朝の新聞で報道されていた不明のボクサーであると直感した。

 今の姿は鬼であるが、元々は一般人なのだ。今、自分達が本来の力をもって彼と戦えば、自分たちは勿論、彼も無事では済まない可能性がある。

 大沢には迷いがあった。しかし。

「知ったことか。殺らなきゃ、こっちが殺られちまうだろ」

 千里には迷いはないようである。

 あなたらしい。大沢はくすりと笑みを浮かべた。

「確かに。では、遠慮なくどうぞ」

「オレかよ」

 千里は唇を曲げ、ジロリと大沢を見た。

「何を仰います。言い出しっぺじゃありませんか」

 千里に睨まれて、ここまで平然とできるのは高瀬と大沢ぐらいだろう。

 千里は長い溜息をつくと、地面を踏みにじり、体制を整えた。

「ったく。しゃあねぇな。援護しろよ」

「心得ております」

 大沢の返事を待たず、千里は右掌を突き出し、もう一方の手をそれに沿えた。そして深く息を吸い、全ての意識を己の右手に集中させる。

「ノウマク サンマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン……」

「──!」

 眼を見開き、唖然とする憂夜の前で、小さく、しかし繰り返される真言。

 次第に千里の身体が炎に包まれ始めた。

 ゴウと激しく渦を巻き、炎は生き物のように千里の腕の周囲を螺旋を描きながら掌へと向かう。そしてそれは大きく燃え上がると、一振りの大太刀と姿を変えた。

「不動……智焔剣……。驚いたな、鬼龍院の末裔……と」

 憂夜は大沢に視線を移し、にやりと笑った。

「摩利支天……」

「動かないでください」

 大沢は千里と同じく具象化させた金の弓矢を握り、憂夜を狙っていた。

「友人を傷つけたくありません」

 大沢の言葉に憂夜は噴出した。なにしろ、言葉とは裏腹に、大沢は既に限界まで弓を引き絞っているのだ。

「本気ですよ? この方を傷つけなければの話ですが」

「つまり、君は分かってるんだ? 僕も、本気だって事をね!」

 次の瞬間、魚雷の如き勢いで鬼は千里にとびかかっていた。

「大神さんッ!」

「──ッ!」

 

 *   *   *


「柴田! こいつを!」

 庭からリビングに回り込んだ高瀬は、室内に遠子を乱暴に放り込むと、高瀬は千里の真剣、藤安を掴んだ。

「高瀬さん! 後ろ!」

 大樹を抱いたまま立ち上がった柴田が叫ぶ。

 高瀬の直ぐ後ろには、先ほどの鬼が迫っていた。

「クソッ!」

「高瀬危ない!」

 遠子の甲高い絶叫の中、振り返り、そのまま体を反転させ、地面を転がる。先ほど高瀬が立っていた所に、鬼の腕が突き刺さっていた。

 鬼はゆっくりと腕を引き着ぬくと、のろのろとした動きで高瀬を見る。その口からはぼたぼたと涎を垂らし、グルグルと喉を鳴らしていた。

「こっち来いよ……」

 立ち上がり、鬼を誘う。

 鬼は一歩、また一歩と高瀬の方へ歩を進める。

「そうだ。こっちへ来い。こいつでブッた切ってやる」

 真っすぐに鬼を睨み、鞘からするりと真剣を抜き構えた。

 緊張と興奮で、最早心臓は爆発寸前だ。早く来い。一発で決めてやる。

「遠子さん、こっちへ……」

 柴田が遠子を引き入れようと手を伸ばし、そっと声をかける。しかし未だ遠子は腰が立たない状態だった。

「立てないんだってばあ!」

 遠子が思わず泣きながら声を上げた。

「あのバカッ!」

「ヒィッ!」

 鬼が、遠子の方へと向き直った。

「やめろ……」

「ガアァァァァァッ!」

「イヤアァァァァッ!」

「優香ぁぁぁぁぁッ!」

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