第8話
優香に出会ったのは、高瀬や月見里がまだ高校生の頃だった。
高瀬はその2年ほど前に両親が亡くなり、両親の友人だった大神天海に引き取られ、以来目白不動で暮らしていた。
当時の高瀬は悪事こそ働かないものの、毎日のように喧嘩を繰り替えし、その度に天海が警察に迎えに行くといった有様だった。
それでも天海は高瀬の喧嘩の理由が自身の身勝手からではなく、いつでも弱者を護る為だったことを知っていたし、決して高瀬を責めることをしなかった。高瀬も自分を信じてくれる天海に全幅の信頼を寄せていた。
そんな天海同様に高瀬が信頼していたのが月見里だった。
不愛想で口も目つきも悪く、それゆえに校内で浮いていた高瀬に対し、彼は何の屈託もなく接した。
当初は良いところのお坊ちゃんの戯れだろうと思った高瀬であったが、ひょんなことから月見里の出自を知ることとなる。
そしてそれは同時に優香との出会いでもあった。
高校2年の秋口の事だった。
放課後に担任に呼び出され、進路についてあれやこれやと小言を聞かされた後、高瀬は月見里との待ち合わせの喫茶店へと向かっていた。
月見里のことだ、あの落ち着いた店内の奥まった席で、自分なら見向きもしないであろう小難しい本を広げて時間をつぶしているに違いない。
本と言えばせいぜい漫画くらいしか読まない高瀬にとって、文字ばかりの本を読む人間の気が知れないが、月見里の父親は有名な脳だか心臓だかの医者だと聞いたことがあるから、きっと月見里は元々の頭の出来が自分とは違うのだろう。ついでに言えば容姿の出来も大いに違ったが、どちらも人には脈々と受け継がれる、遺伝という抗えないものがあるのだ。こればかりは致し方無い。
「そういえば……」
ふと、今週の週刊少年ジャンプを読んでいない事を思い出した。
すぐそこに本屋がある。
「……ドラゴンボールだけ読んで行くか」
十代の時から高瀬は自分勝手だった。友人を待たせているというのに、足は既に本屋へと向かっていた。
店に入って直ぐのレジ付近に週刊誌や漫画雑誌が積まれている。そこでひとしきりお気に入りの漫画を読み、顔を上げた時だった。
片眉をついっと上げた高瀬は、手にした漫画雑誌を静かに平台に戻して店の奥へと歩を進めた。
「い、イヤ……」
男に手首をつかまれ、ひりついた喉から声を絞り出した。
嫌だという短い言葉すら、恐怖で満足に出てこない。唇が細かく震え、頭上で換気扇がカタカタと言う音と同じタイミングで、自分の歯がカチカチと鳴った。
目の前で浅い呼吸を繰り返す男を、彼女は知っていた。とはいえ、知人という訳ではない。
ここ何か月か、気が付けば視界に入ってきた人物だった。
陰気で、しかし眼鏡の奥の眼をぎらつかせた男は、時に駅で、時にコンビニのミラーごしに、時に横断歩道の向こうから。通学時、帰宅時、最近は時間を問わなかった。
「だま、騙した……」
そういうと頭を傾げ、上唇だけを尖らせてひくつかせた。
「お、おとっ、男と、会ってたな」
「え……? なに……」
体が硬直し、スッと血の気が引いた。
視界に男の手が、包丁が目に入った。
男の血走った目が見開かれ、ゆっくりと腕が上がる。
「きみは、ずっ、ずっと、ぼくの、せっ、世界の、なか……げこっ!」
男はヒキガエルのような声を上げて吹っ飛んだ。壁面の書棚に激突し、倒れこんだかと思うと、その上に次々と本が降り注ぐ。
しかしその姿はスポーツバックを肩に引っ掛けた男の背中に遮られた。
「へぇ。本物じゃん」
男は床に落ちた包丁を出来る限り触れぬようにして摘まみ上げ、ひしゃげた眼鏡の男を睨めつけた。
――高瀬だった。
男は亀田というカメラオタクだった。駆け付けた警察に引き渡され、殺人未遂として取り調べを受けた。
亀田の自宅からは被害者の隠し撮りが山ほど出てきたと、翌日の新聞記事に小さく乗っていた。所謂ストーカーである。
この後、亀田は二度と優香の前に現れることはなかったが、警察官となった高瀬が盗撮の現行犯で幾度となく亀田を摘発し、指を折ろうとは。何より亀田が後に赤塚公園で鬼の姿を捉える事となろうとは、この時誰も知る由はなかった。
書店の事務所から出た高瀬と優香は、揃って書店の外へと出た。
ちらりと、半歩斜め後ろに立つ優香を見る。
事情聴取の際に、彼女が池田優香という名で、近くの女子校に通う高校1年生だと言うことを知った。高瀬の1学年下である。
見れば、赤くなった目を彩るまつ毛は長く、鼻筋は通り、色白で華奢。パーツはしっかりしているのに、彼女の性格のせいだろう、派手さはなく、随分と綺麗な娘だった。
優香が、すん、と鼻を啜った。
あんな目にあったのだ。家路につくにも心細いはず。こういう時、家まで送ってやるのが優しさというものだろう。きっと自分の親友なら、迷うことなく、ごく自然にこう言う筈だ。大丈夫。送っていくよ──。
「あ、あのさ──」
「文孝!」
パトカーのサイレンの音を聞きつけたのか、人垣の向こうから月見里がこちらに走ってくるのが見えた。
しまった。月見里との約束をすっかり忘れていた。
「あ、いや、あの……」
「流ちゃん!」
しどろもどろになっている高瀬の脇から、優香が飛び出した。そのまま月見里の胸へと飛び込む。
突然の出来事に、高瀬はポカンとするどころか思わず見惚れた。まるで映画のワンシーンのようだと思った。
「えっ、優香? どうしたの?」
──男と、会ってたな。
ふいに亀田が優香に言ったことを思い出した。
なんだ、そういうことか。王子さまがいたのだ。飛び切りの、しかも嫌と言うほどよく知っている。自分は単なる従者に過ぎなかった。そう思ったら笑いが込み上げた。
「ちょっ、なんだよ、そういうことかよ」
思わず漏れた高瀬の言葉に、優香が頷いた。
「そうなんです。きっと流ちゃんとのこと誤解して……」
「誤解? ああ、兎に角、二人とも怪我はないんだね?」
珍しく月見里があたふたしている。高瀬は大丈夫だと片手をあげた。
「よかった。じゃあ、一体何があったのか説明してくれるかい?」
「ああ、実はさ─」
事の顛末を話して聞かせると、月見里は少し眉根を寄せたが、兎に角無事でよかったと長い溜息をついた。
そして優香に今後おかしいと思うことがあったら必ず相談するようにと、それはもう高瀬の耳にもタコが出来そうなほど繰り返し、念のためだと、遠慮する優香に構わず月見里家の執事を呼び送らせた。
優香を見送ると、月見里は高瀬を自宅へ誘った。
月見里とは高校に入ってからの付き合いだが、自宅に来たのは初めてだった。
入り口はホテルのようで、部屋もさながらモデルルームのようである。洒落た、生活感のない3LDKのマンションに高瀬は圧倒された。
「親父さん……」
自分の声が思いのほか響いて、高瀬は咳払いをして声を落とした。
「親父さんは仕事……か。お袋さんは出掛けてんのか? 俺みたいのがこんな立派なリビングにいて大丈夫かよ」
L字型に配された帆布張りのソファーに浅くちょこんと腰掛け、高瀬は所在無げに言った。
その様子に月見里はくすくすと笑うと、大丈夫だよと言って暖かい紅茶をコーヒーテーブルに置いた。
「遠慮しないで。ここには僕しか住んでいないから」
「へ?」
一人暮らしだというのか。高瀬は改めてきょろきょろと不躾な程に部屋を見渡した。
白とブラウンを基調とし、所々に木の温かみを感じさせるインテリア。生活感は感じないが、月見里の人柄や優しさをそここに感じる。
「ひとり……。ここで……」
月見里は父親が医者で、ジイサンだったが執事もいる裕福な家柄。月見里本人も賢く、容姿端麗で且つ人間も出来ていることは知っているが、私生活に関しては何も知らないのだと今更ながら思い知らされた。
ともあれ、ここには月見里と自分の二人だけなのだと理解すると、高瀬はふうっと脱力した。
ズルズルと音を立てながら、紅茶を飲み、何でもない風を装いながら、あの子とはいつから付き合っていたのかと聞いてみる。
月見里は、それこそ鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「それって……、もしかして、優香と僕がってこと?」
高瀬の片眉がくいっと上がった。
「とぼけるなよ。他に誰がいる」
そう言うと唇をへの字に曲げた高瀬はそっぽを向き、ソファーにどさりと背中を預けて腕を組む。が、すぐにちらりと月見里の顔を見た。
「別に……、不貞腐れてるわけじゃねぇぞ……。ただ、月見里が何も言ってくんなねぇから。俺、お前のこと何にも知らねぇじゃんよ」
「文孝……」
「……何が可笑しい」
「え?」
「え? じゃねぇよ。おもックソ顔が笑ってんじゃんかよ!」
言って、横にあったクッションを投げつける。それを易々とキャッチすると、月見里はクッションの陰からひょっこりと顔を出した。
「いやぁ、文孝が可愛くて」
「気持ち悪ィ事言ってんじゃねぇよ! も、今日はとことん聞いてやるからな! 紅茶! お代わり!」
「さて、何から話そうか」
月見里は高瀬の前に二杯目の紅茶を置くと、向かいに腰を下ろし、天井を仰いだ。
「まずは池田さんだろ」
「はは~ん。よっぽど優香が気になるんだね? それとも、僕がとられちゃうって危機感かな?」
「は? 何言っ……、ちっ、違うぞ! 俺はだな!」
違うと言いながら、高瀬の耳は真っ赤だった。鼻の穴も拡大している。だが、高瀬自身もどちらなのか分からなかった。
何しろ、月見里は高瀬にとって初めての、そして唯一の友人だったからだ。
果たして自分はどちらに嫉妬しているのか。高瀬が一人頭をぐるぐるさせていると、月見里がゆっくりと口を開いた。
「僕らは──、僕と優香は、兄妹、かな」
「かな?」
「うん。僕らは、同じ施設で育ったんだよ。だから文孝が思うような関係とは違う」
「施設……?」
高瀬は目をぱちくりさせた。
突然のことに頭がついて行かなかった。ただポカンと口を開けていた。
「そう、施設。孤児院だよ。僕らがいた施設には、親がいない子供や、親に捨てられた子供が──」
そこで一旦言葉を切ると、月見里は薄く、困ったように笑って言った。
「その、僕はね、月見里の嫡出子じゃないんだ」
そこからの月見里の話は衝撃的だった。
月見里は、父親が外に作った子供だった。
母親は看護師だったが、月見里を産んで間もなく亡くなった。
父は月見里を引き取ろうとしたが、正妻の激しい抵抗により叶わなかった。正妻の父は代議士で、父の病院に多大なる影響力があった。
結局、月見里は施設へと預けられた。
そんな月見里が月見里家に引き取られることとなったのは、正妻の一人息子で、月見里の腹違いの兄が交通事故で亡くなったためだった。
兄は月見里とは一回り以上離れており、当時医大の4回生だったという。
「跡取りが必要になって、引き取りに来たんだ。僕が10歳の時だったかな。さっき優香を送って行った山田さん。彼が迎えに来た」
しかし、月見里が歓迎されることはなかった。
正妻──、義母は月見里を前にして心を病んでしまった。月見里を受け入れることが出来ないどころか、月見里を見ると狂ったように喚き、叫んだ。
お前のせいだと、息子を返せと泣き喚いたという。
それが、月見里が月見里家の息子となってなお、ひとりでいる理由だった。
「そんな……。お前のせいじゃないのに」
「いや、義母には申し訳ないと思っているよ。あと、文孝に自分のこと何ひとつ話さずに来たことも」
「そんなこと……」
月見里はどこまでも優しく、穏やかで、自分のように捻くれたところが全くない。
それは恵まれているからなんだと、幸せだからなんだと、愛され、何不自由なく生きているからなんだと思っていた。
「悪い。俺……」
高瀬は顔を上げられなかった。恥ずかしかった。自分ばかりが不幸だと、いつもどこかで思っていた。だから、斜に構えても、尊大な態度をとっても赦されると思っていた。
そんな自分を親友は受け入れ、寄り添ってくれていた。
「文孝」
そっと顔を上げる。コーヒーテーブルの向こうで、月見里が心配そうに高瀬を見ていた。
「文孝、僕は幸せだよ?」
高瀬は、親友の目の前で初めて泣いた。
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