第9話
「高瀬警……くっ、くさっ! なんらこの臭いはッ!」
「あ~、警視、これはおどの枕の臭いだべ」
「うん。加齢臭だね」
「げほほほっ! ま、窓を開けりょ!」
「んがごっ」
「まるでゴリラですね~」
「んがっ?」
昨夜赤塚公園の現場から対策室に入り、そのままソファーで横になっていた高瀬は、対策室のドアを開けるなりヒステリックにギャンギャンと吠える因幡の声と、窓から入ってきた真夏のムッとした風でようやく目を覚ました。
「んだよ、っせぇなぁ……」
のろのろと体を起こし、ボリボリとワイシャツの襟首から手を突っ込んで掻きながら大あくびをする。頭がボーっとしていた。
「んぁ~だりィ……」
「寝ている場合じゃありませんよッ! どどど、どおおおおおおゆうことですかこれはッ!」
べしっと、まだ目の開かない高瀬の顔に新聞紙が叩きつけられた。
「今日の朝刊です! 現場に記者は一歩たりとも入れていなかったんじゃなかったんですかッ!」
ポトリと自分の股間に落下した新聞紙に、徐々に焦点があって来る。途端に高瀬の目が大きく開いた。
「なっ……あンの、クソ女!」
そう言って高瀬が叩きつけた日売新聞の一面には、報道規制を布いていたにも関わらず、大きく赤塚公園での事件が載っていた。スッパ抜きである。
大トラとなっていても、あの水野遠子が何も得ずに現場から出るはずがなかったのだ。
現場から引き上げる際、所轄の警官から、遠子本人がもう大丈夫だからと、現場から自力で帰って行ったと聞いたが、気になって行方を捜させている。
しかし、いまだこれといった連絡がないという事は、行方をくらませているのだろう。
高瀬は遠子から目を離したことを、いっそ手足を縛り付けて拘束しておかなかったことを悔いた。
「幸い被害者がどの様な状態であったかなどには触れていませんでしたが、これは由々しき事態ですよッ!」
因幡はくどくどと畳みかけてくる。
「いいですね? これは上層部へ報告しま──」
言いながら部屋を出ようと因幡が踵を返した、まさにその時。因幡に向かって勢いよくドアが開いた。
「ふぎゃッ!」
「警視!」
「警視!」
「おはようございま……あれっ? い、因幡警視……?」
柴田だった。
「激写!」
「激写!」
すかさず明治と森永が、吹き飛ばされた因幡を撮る。光るフラッシュの中で、因幡は手足をばたつかせた。
「こにょ、にゃにを撮ってる馬鹿者共!」
「いやぁ~、決定的瞬間だったべな」
「ホントだよね! あらら、警視鼻血が。とりあえず戻りましょっか。ねっ。ほら明治も」
「いやぁ、どでしたな~。しったげ飛んだべしゃ……」
「うるひゃい!」
「あああ、あの、因幡警視……」
オロオロと後を追う柴田の鼻先でピシャリとドアが閉まり、騒音がひとしきり治まった。
「どどどどどうしましょう、高瀬さ……」
警視をドアで吹っ飛ばしてしまった柴田は、真っ青になって、煙草に火をつける高瀬に駆け寄った。
高瀬の眉間には深く皺が寄せられている。スパスパと短く煙草をふかす姿からも、苛々した様子が見て取れた。
「どうしたんですか?」
「見てみろ」
「新聞? あ……っちゃ~……。昨夜のあの人の仕業ですね……」
「変態クソ女。いったい何処に隠れてやがる。とっ捕まえて……」
その時高瀬の胸で刑事ドラマの主題歌が流れた。着信音である。
高瀬は何度か短く返事をすると、携帯を胸ポケットに戻した。
「柴田。車回せ。水野遠子が見つかった」
「えっ?」
「警邏中の警官が、水野がオフィスビルに入っていくのを確認した。見張らせてる」
「りょうか……あ、ちょっと待って下さい。僕のところにも電話……あっ、根牟田警部ぅ~!」
柴田は背中を丸めるようにして、ハイハイと相槌を打っている。そして、引き続きお願いしますと結び、通話を終了した。
「高瀬さん、あの赤いドレスの女性、身元が割れたそうです」
女は黒木沙紗。銀座の一等地に店を構える「クラブ沙紗」のママで、経営者だということだった。
しかし、夕べは出勤しておらず、また、自宅にも不在で行方が分からなくなっていた。
「引き続き行方を捜してくれるそうです」
「よし。じゃあ行くぞ」
「らじゃー!」
『住宅街の公園で殺人事件』
~ まるで鬼の所業 地域住民不安で眠れず ~
赤塚公園(東京都板橋区)で、港船一さん(豊島区・飲食店経営)が何者かに殺害された。
当時港さんはボクサーの知人、Aさんを自宅でもてなした後、Aさんを送るため車で外出。公園に立ち寄ったところを殺害されたとみられる。
同乗していたA氏は現在行方不明となっており、警察は行方を捜している。
また、Aさんは最近某有名製薬会社・B社とスポンサー契約を行っているが、同様にB社がスポンサーとして契約しているアスリート数名が同じく行方不明になっていることが当社記者の取材で明らかとなっており、安否が気遣われる。
現場となった公園の付近には多く住宅があり、いまだ犯人逮捕に至らぬ中、地域住民は不安で眠れぬ夜を──
柴田が運転する覆面パトカーの助手席で広げていた新聞を後部座席に放り投げると、高瀬は深くため息をついた。
におわせてはいるものの、カンのいい遠子が御岳山の鬼伝説に触れていないことが高瀬は気になった。
流石に非現実すぎるせいか……。それとも誰かへのメッセージなのか?
一体何処にいる。一体何を企んでいるのか。
* * *
「失礼ですが、アポイントメントは御座いますか?」
「ア、アッポォ……? フン。ジャイアント馬場じゃあるまいし」
にこやかに応対していた秘書は、困惑顔で長いまつげをぱちぱちさせた。
「ジャイアント……馬場、様……ですか?」
「なによ。知らないの?」
遠子は居丈高に腕を組み、鼻の穴を膨らませて眼前の若く美しい秘書を睨んだ。
「いいから。日売の水野が 『今日の朝刊はご覧頂けましたか』って言ってるって言えば分かるわよ。オタクのシャチョーさんがちゃんと新聞読んでりゃね」
秘書はいよいよ困ったように眉尻を下げたが、少々お待ちくださいと断ると、受話器を取った。ボソボソと、今日の朝刊は……と聞こえてくる。
遠子はフンと鼻息を荒くした。
それからすぐ、秘書は受話器を置くと立ち上がった。
「うっ……」
遠子が思わず声を漏らし、数歩後退るほど、秘書は顔だけではなくスタイルも良かった。
並びたくない。腹の中でそうつぶやく遠子の声が聞こえたか、秘書は遠子の斜め前に立ち、わずかに丸めた手のひらで廊下の先を指し示した。
「ご案内致します」
「う、うん」
この子のお尻の位置が高いのはヒールのせいよ。顔の艶はデパコスのせい。くびれはアフター5が暇でジムに行ってるせいに決まってるわ。
透子はごにょごにょと呪文のように繰り返し、殺意の何物でもない視線を向けつつ、先導する秘書の後ろについた。
「どうぞ」
ノックの後、室内から低い声が聞こえた。遠子はごくりと喉を鳴らすと、精一杯背筋を伸ばして開かれたドアを抜けた。
「すごい部屋ね。さすがライブ製薬だわ。秘書は大したことないけど」
目礼して退室する彼女が、元ミスユニバース日本代表であることも知らずそう言ってのけると、遠子はずかずかと部屋の中央へ進む。
ふかふかと毛足の長い絨毯。床から天井までの大きなガラス窓。その前に紫檀の立派なデスクがあり、目当ての人物は太陽の光を背に、ゆったりと皮張りの大きなチェアに身を預けていた。逆光で顔は見えないが、ウェブサイトで写真は確認している。
「今朝の新聞はご覧頂けたかしら」
そう言って遠子が更に歩を進めると、いきなり目の前の巨大なガラス窓が白濁した。
「えっ? なに?」
「液晶ガラスですよ」
強い光が液晶ガラスにより和らぎ、ウェブサイトで確認した顔が露わになった。
目の前の男の肌はこの季節にあって尚青白く、しかし彫が深く整っている。そして遠子を捉える目は鋭く、まるで狐のようだ。
「水野さん……で、宜しかったかな? ライブ製薬の松岡です」
松岡は静かに長い脚を組んだ。そこには明らかな王の風格があった。
普通の人間なら完全に圧倒される。それだけのオーラを松岡は放っていた。しかし、水野遠子は普通ではなかった。
「日売新聞社会部の華、水野遠子よ!」
「………………」
広い部屋の隅にある、巨大な振り子時計の時を刻む音が、暫し二人を包んだ。
「……ご用件は」
松岡が沈黙を破る。遠子も咳払いをする事で体勢を立て直し、口を開いた。
「豊島伸次はどこ? 彼だけじゃないわ。長谷川英明、津山、沢田……他にも挙げましょうか? みんなお宅がスポンサー契約している選手よ」
言いながら距離を縮める。
そんな遠子を、松岡は眉ひとつ動かさず、ただまっすぐに見ていたが、小さく肩をすくめると認めた。
「その通り。さすがよくご存じだ」
「えっ……。認めるの?」
「認めるも何も、実は弊社としても困っていましてね。契約した選手が欠場、しかも失踪しているとは。一体どこに行ったのか、私も知りたい」
「とぼけないで! あんたら、バケモノを隠してるんでしょ!」
「バケモノ?」
「御岳山の鬼よ!」
「……呆れた」
肩を上下させている遠子に冷めた視線を投げかけると、松岡はこめかみを揉んだ。
その様子は、屁理屈を並べる、一向に話の通じないクレーマーを相手にしているカスタマーセンターの職員のようである。
「言うに事を欠いて、鬼とはまた随分と非現実的な話ですね。天下の日売新聞は、いつから社会面でオカルトを扱うようになったんですか」
「赤塚公園で殺された港船一は、御岳山の殺人事件と同じ状態で見つかったのよ!」
「そんな報道はありませんでしたが?」
「報道規制が布かれていたからよ! 現場に臨場した警察関係者しか、遺体がどんな状態だったか知らないわ。でも──」
「あなたはご存じだと?」
「まぁまぁ、そういうことよね」
遠子は満足げに頷き、にやりといやらしい笑みを浮かべたが、相変わらず眉つばと言わんばかりの松岡の視線に気づくとまくし立てた。
「言っとくけどハッタリじゃないわよ! 御岳山のあの事件だって、仲間割れの末の殺人じゃないわ!」
「ほう。では、名探偵はどうお考えなのかな」
「決まってるでしょ! 御山の鬼が彼らを襲ったのよ!」
* * *
「クソッ!」
そこへ着くなり、千里は毒づいた。
ザザっと木々を揺らす風。生温い風。
夏の太陽を遮る木々の下、転がった石を蹴り飛ばす。
千里はひとり、御岳山にいた。
昨日、実家の目白不動で天海に見せられた巻物。あの鬼伝説の鬼たちを焼いた灰が、この鬼塚に埋められ、祭られている──筈だった。
しかし、目の前にある祠は無残に破壊され、そしてその下にあったであろう石櫃は、掘り起こされ転がっていた。
間違いなく、その中に収められていた壺──鬼の灰は、何者かが持ち去ったのだ。
千里はTシャツをまくり上げて顔を拭うと立ち上がった。
急がねば。
東京が、あっと言う間に死体で埋め尽くされてしまう──。
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