第4話
「はー。ごっそーさん」
高瀬は山と積み上げた皿を押しやると、後ろ手をつき、精一杯膨れた腹を撫でた。流石に食べ過ぎたようだ。
しかし、食える時に詰め込んでおかねばならない。
何せ刑事は貧乏だ。大した給料が出る訳でもないと言うのに、捜査費の殆どは自腹だ。情報屋を飼うのにも金が要る。
意外に思われそうだが、情報屋へ握らせる金、聞き込みの際に情報提供者に馳走するコーヒー代、移動の際の費用などは、全て刑事のポケットマネーで賄われているのだ。
タクシーを捕まえ手帳を突き出し、「前の車を追ってくれ」などと、早々都合良くは行かない。
キッチリ料金は取られるし、領収書を貰った所で、経費として認められない事も多い。手帳が通用する乗り物は、良くて、JRや地下鉄どまりだ。
それ故に、刑事──特にノンキャリ刑事は常に金がない。つまり、他人の金で腹を満たせる機会は逃せない。
と言っても、高瀬の情報屋の殆どは、金ではなく恐怖で縛られているのだから、結局は、薄給の大食らいが赤貧の原因なのだが。
「いやもう、ホントにご馳走になりました。有難う御座いますぅ」
高瀬と月見里に大分遅れを取って夕食にあり付けた柴田も、満足気な溜息をつくと、両手を合わせてスポンサーにぺこりと頭を下げた。
「いえいえ。一般的な一人分ならいつでも」
「一般的って何だよ」
「文孝の量に毎回付き合ってたら破産するよ」
──と。
月見里の携帯電話が鳴った。凝った着メロではなく、携帯にプリインストールされているような、シンプルな電子音だ。
「あっ……と、ゴメン。仕事の電話かも」
「あ。どうぞ、どうぞ」
促す柴田に笑顔で軽く頷くと、麻のパンツのポケットから、呼び出し音と同じ位にシンプルな白い携帯電話を取り出し、月見里は席を立った。
「もしもし?」
ざわざわと煩い店内から、空いた耳を片手で押さえながら外へと出て行く。
その後姿を見送りながら、柴田はまた溜息をついた。
「ハー。世の中には、電話してるだけで絵になる人もいるんですねぇ」
「っはは。心配すんな。お前の顔も充分絵になる」
「えっ? ホントですか?」
「おう」
高瀬の意外な言葉に、柴田は目を丸くした。つもりだが、やっぱり糸目だった。それでも、自然と頬は緩む。
しかし、それも長くは続かなかった。
「……つか、絵描き歌? アルファベットの『O』書いて、中に『ハハ上』って書くと、お前の顔になんじゃん」
グラスについた滴でテーブルに書いてみせると、高瀬は外国人さながらに肩を竦めた。
「オー、母上!」
「……」
「さぁて」
上唇の片側を上げ、サソリだったかムカデだったか、そんな女の、自虐的な歌を歌う歌手のような顔になってしまっている柴田に目もくれず、高瀬は衝立に掛けていた上着を引っ張った。
「腹も膨れたし、帰ろうぜ」
「……そですね。僕もミドリちゃんが待ってるしぃ」
柴田は、憮然とした面持ちで唇を突き出すと、自身も上着を取った。
驚いたのは高瀬である。浮かせた尻をピタリと止めたかと思うと、筋を違えんばかりにぐりんと驚愕に歪んだ顔を柴田に向けた。
「今、なんつった?」
「ミドリちゃん」
「ミドリ……?」
悪くない名前だ。少々古風であるが、かえって斬新な気さえ──否、今問題にすべきはそこではない。
柴田には、女の影のカの字もなかった筈である。勿論、この容貌とキャラクターで、庁内の中年女性の間ではアイドル扱いだが、若い女にはとんともてないのだ。
それが、家で「ミドリ」が待っていると言うではないか。
全くもって聞き捨てならない。それでいて月見里の秘書、深田栞に現を抜かし──。
高瀬は、柴田以上に憮然とした表情を浮かべると言った。
「……初耳だぞ」
「あっ、そうですね。良かったら今度紹介しますよ。五月と小松って言うんですけどね」
柴田は悪びれる事もなく、それどころか、元々下がっている目尻を更に下げてへらへらと言ってのけた。堂々たる二股宣言である。
「んもう、カワイイですよ~。手もかかんないし。けど、夏場はうっかり放ったらかしにすると、部屋中下水みたいな臭いに……」
「げ、下水の臭い……?」
「ま──」
唖然とする高瀬の前で、柴田は首の後ろに手を当てると、あははと笑った。
「カメですからねぇ。ミドリガメ。すーぐ、水が腐っちゃうんですよ」
「なんだよ。ビックリさせやがっ……ちょっと待て。まさかとは思うが、『ミドリ』ガメだから、五月みどりと小松みどりに掛けてんのか?」
「あったりぃ~」
「お前、一体幾つだよ……」
「二十五ですけど?」
知っている。
真面目に答える柴田に、高瀬はすっかり毒気を抜かれた。
「ところで、どうします?」
「あ?」
「総監のお嬢さんですよ」
柴田がチョンチョンと指差す先では、水野遠子が畳の上でストッキングの足を投げ出し、未だ白目を剥いておかしな寝息を立てていた。
しかし。
「んーにゃっ……んーにゃっ……」
今度は水前寺清子だった。
彼女の人生も、きっと365歩のマーチさながらなのだろう。いや、ひょっとすると、一日一歩、三日で三歩、三歩進んで、四歩下がる、マイナス人生なのかもしれない。
「つーか。コイツ、なんだってこんなベロンベロンなんだよ」
遠子の、とても女とは思えない寝姿を覗き込み、高瀬は改めて呆れた。
「失恋とか?」
柴田も恐る恐る覗き込む。
女の泥酔と言えば、それしか思いつかなかった。
「あー、この人ね」
そこへ、皿を下げに来た店員が口を挟んできた。半ば大の字になった遠子をちらと見遣ると、口をへの字にして肩を竦める。
「たまーに来るけど、いつもこんなですよ」
「ハァ? いつも?」
「大概もっと遅い時間なんですけど。でも、いつもお一人でいらっしゃるんで、こんな風に寝られちゃうとホントに困るんですよ」
「だろうな」
高瀬がため息混じりにそう言うと、店員も深い溜息をつき、そして上目で高瀬をじっと見た。
「……お願いしますよ」
「な、なんで俺が!」
「お知り合いなんでしょ?」
「別に知り合いじゃ……」
言いながら、白目の女を見遣る。
遠子は相変わらず、醜態を晒して爆睡していた。
「ったく。しょうがねぇな……」
深い溜息とともにそう言うと、店員はパッと顔を輝かせた。
「あっ、お願い出来ますか! そうですか! イヤー、なんか押し付けちゃったみたいで、恐縮だなぁ!」
最初から押し付けるつもりだったくせに。そう言いたいのをぐっとこらえ、高瀬は柴田を振り返った。
「おい。ここ、管轄は本富士だったな」
「です」
「んじゃ、お前、足持て」
「え?」
ゴム人形のような遠子の体を起こし、背中から両腋の下に腕を掛けた高瀬に顎をしゃくられ、柴田はぽかんとその場に立ち尽くした。
「手伝え。本富士のトラ箱にでも置いて来る」
トラ箱と言うのは、警察署内にある、泥酔者を一時収容する部屋だ。
幾ら警察官とは言え、寝ている顔見知りの女のバッグを漁って住所を調べる気にもならなかった。
トラ箱に一泊して頂き、後は勝手に帰ってくれればいい。そう思っての事だった。
なのに、ふと顔を上げてみれば、柴田がニヤニヤといやらしい顔をしている。
高瀬は片眉を吊り上げると、柴田を睨んだ。
「……なんだよ」
「ふふふ。優しいですねぇ、高瀬さん」
「ンなんじゃねぇよ」
「んもう、照れちゃって。僕はちゃあんと分ってますよ」
「何を分ってるっつーんだ、何を」
「まっ、殿は認めたくないようですけどね」
ぎゅっ、ぎゅっ。
「……何のマネだ」
高瀬は、しきりに右目を瞬かせている柴田に顔を歪めた。
分かりにくい。
普段から閉じているに近い糸目だけに、非常に分かりにくいが、目と同じ右側の上唇が、奇妙に上がっている事から、相当力んで片目を瞑っているのだと言う事が見て取れる。
「……何のマネだ」
「あれ? カッコよくないですか?」
繰り返す高瀬に、柴田は拍子抜けしたように言った。
「無様だな」
「……」
憶えたての技を、寸分違わず披露したつもりだったのだが、どうやら使う人間を選ぶらしい。
柴田はがっくりとうなだれた。
「お待たせ……どうしたの?」
外から戻って来た月見里は、情けなく眉を下げている柴田を不思議そうに見遣った。
「いえ。別に……とほほ」
そう言って、柴田は更に眉じりを下げる。
その様子に、月見里は軽く眉を上げると、遠子を背中から、まさに引っ掛け上げている高瀬に声を掛けた。
「彼女、どうするの?」
「本富士のトラ箱に放り込んで来る」
酔っぱらいの体は、弛緩しているせいで酷く重い。
とは言え女だ。横抱きにすれば軽々と持ち上がるだろう。だが、高瀬は遠子をお姫様抱っこしてやる気にはなれなかった。
優香に似ているとか、そう言う事ではない。
第一印象が互いに最悪だった所為で、今更紳士的な態度に出られないと言うだけに過ぎなかった。
優しくする事が恥ずかしいのである。
これが男であったなら、悪態をつきながらも親しくなれるのだろうが、女だとどうもうまく行かない。
だから素直じゃない、高飛車な女は嫌いなのだ。
「ったく。重てぇな」
高瀬は舌打ちをすると悪態をついた。
「手伝うよ」
そう月見里が申し出た時、今度は高瀬の電話が鳴った。
例の、刑事ドラマの着メロだ。
「あ……。悪ぃ」
「いいよ。僕が運ぼう」
月見里が遠子の横に屈み込み、背中と膝の下に腕を差し入れ抱き上げる。すると、抱き上げられた遠子の指先が重力に従い床を指し、揺れた。
その瞬間──。
あの時のあの場面が、高瀬の脳裏を掠めた。
響き渡る怒号。悲鳴。泣哭。
混乱を極めた現場で、血まみれの『婚約者』をかき抱き、半狂乱となった自分から、彼女を引き離して抱き上げた月見里。
仲間の刑事に押さえられて暴れる自分の眼前で、月見里の腕の中の彼女は、目の前の女と同じくだらりと腕を下げて動かなかった。
本当に逝ってしまったのだと覚った。
病院ではなく、あの暗く冷たい、死者の部屋へ連れて行かれるのだと。
──待ってくれ! 月見里!
──落ち着け! 高瀬!
──連れて行くな! 連れて行かないでくれ! 月見里ッ!
──おい! 高瀬を抑えろ!
──優香! 優香ッ!
──高瀬! しっかりしろ!
──高瀬!
──優香ッ!
──優香―ッ!!
「文孝? 早く出たら?」
「え……。あ、ああ」
月見里の声で我に返った高瀬は、片手で口元を擦りながら、携帯を手にした。
携帯のバイブと同じ様に、唇が──痙攣していた。
「もしも……」
ぎこちなく応答した高瀬の唇が止まった。
月見里と柴田が見守る中、眉間に皺を寄せ、無言で携帯を耳に押し当てている。
その苦い表情から、二人にもその電話の内容がよくない物である事が見て取れた。
「直ぐ、行きます」
大きく息をついてそう言った後、高瀬は思い出したように付け足した。
「あ――。この件に関しては無線を使わないで下さい。ホシが傍受していないとも限らない」
頼みます。そう締めくくると、高瀬はポケットに携帯を突っ込み、緊張した面持ちで見詰めていた柴田を振り返った。
「柴田。車回せ。板橋の赤塚公園に向かう」
「はい」
「月見里も一緒に来てくれ」
高瀬は、バタバタと駆け出す柴田の背中を見送りながら、遠子を抱き上げたまま立ち尽くす月見里の背に手を当て促した。
「どうしたの? 何か──」
「仏が上がった。同じヤツだ。おい、オヤジさん」
カウンターの中の店主に声をかけながら、靴を引っ掛けて歩み寄る。
片手で拝む格好をする高瀬を見た店主の顔が、途端に引き攣った。
「まさか、高瀬さん……」
「や、今日は俺じゃなくて、コイツのツケだから。明日にでも纏めて払うよ。キレイさっぱり」
それを聞いて、今度は月見里の顔が小さく引き攣った。
どうやら、今までの高瀬のツケまで払わされるらしいと悟った所為だ。
「高瀬さん」
「来たな。行こう」
入り口で暖簾を捲り上げている柴田の声に気付くと、高瀬は月見里の背中を押した。
「ちょっ、ちょっと文孝」
「なんだよ」
一刻も早く現場に向かいたい高瀬は、月見里の制止に顔を顰め、次の瞬間、その意味に気付いて頭をガリガリと掻いた。
月見里の腕の中で、白目を剥いている女である。
「チッ」
頭を掻いていた手を勢いよく振り下ろしながら舌打ちすると、高瀬は覆面パトカーの後部座席のドアを開けた。
「そいつも突っ込め。現場に着いたら、所轄の誰かに送らせる」
高瀬はそう言って前方に回り込むと運転席に滑り込み、赤色灯を乗せた。
「舌噛むなよ」
言って、サイドブレーキに手を掛けた時だった。
「文孝!」
「なんだよ!」
出鼻を挫かれた高瀬は声を荒げ、サイドブレーキを下ろす手を掴む、後部座席の月見里を振り返った。
「なんなんだよ!」
「飲酒運転」
「……かたいこと言うな」
溜め息を吐き、飲酒運転で捕まったドライバーと同じセリフを口にする高瀬に、柴田も慌てて差し出した手を上下に振りながら、言った。
「チョット、チョット。ダメですよ! 仮にも警視庁の刑事がそんな事言っちゃあ」
勢いに飲まれて、何となく助手席に座ってしまったが、飲酒運転を見過ごす訳には行かない。
柴田は、ドンと自分の胸を叩いた。
「ここは僕……」
「方向音痴のクセに、何言ってんだ、お前は」
「がふんっ」
「じゃあ、僕が運転する」
「急いでんだよ」
「だからだよ。ここで事故でも起したらどうするんだ」
月見里は、シフトノブに手を掛ける高瀬の肩を引き戻し、真っ直ぐに見詰めて来る。
「ったく」
高瀬はシートにどさりと背中を凭せ掛け、盛大な溜息を吐いた。
「わーったよ」
「はい、交代」
観念した高瀬が差し出した手の平に自分の手の平を打ち付けると、ようやく運転手の交代が行われた。
「舌、噛まないようにね」
運転席に腰を下ろした月見里は、バックミラーに映る高瀬に悪戯っぽく言って見せるとアクセルを踏み込み、徳丸の赤塚公園へと、タイヤとサイレンを鳴らしながら走り出した。
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