第5話

 車は飯田橋から池袋線に乗り、中台ランプで降りた後、高架下を高速道とほぼ同じスピードで突っ切り、赤塚公園交差点を左折して現場に入った。

 制服警官によって整理されているとは言え、ライトで真昼の如く照らされた公園の周りは、何事かとごった返す野次馬で埋め尽くされている。

 口々に同情や不安を零しながらも、その表情は皆何処か嬉々としており、祭りの中へ迷い込んだ錯覚さえ起させた。

 が、得てして現場に集まる野次馬はこう言うものだ。皆、何処かで他人の不幸を喰い、生きている。その不幸の最たるものを目の前にすれば、自然と血沸き肉踊るのだろう。

 そしてそれを肴に、酒場やネットで盛り上がるのだ。

 言葉が、打ち出す文字が、思う以上に、己の心の闇を吐き出している事に気付きもせずに。

 高瀬は一つ大きく息をつくと、生温い風に乗って漂ってくる異臭に顔を顰める柴田に数秒遅れて現場の地を踏んだ。

 と、その時。不意に表現し難い違和感に襲われた。

 合うべき筈の鍵が合わないような、否、合わない筈の鍵で扉が開いてしまったようなと言った方が正しいかもしれない。

 どうしてなのか、それが何なのか、さっぱり分らない。だが、周囲の野次馬と同じ位に、ざわざわと何かが高瀬の中で煩く騒いだ。

「あっ、あっ、ご苦労様です」

 突然掛けられた声に、高瀬は顔を上げた。

 ふと見れば、さえない風貌の男が小走りで駆け寄ってくる。年の頃は柴田と同じ二十代半ばと言った所か。ヒョロヒョロと貧弱な体つきに、腫れぼったい、酷く眠そうな目の男だ。

「ええっと、対策室の?」

「あ……ええ」

 男に所属を確認されると、高瀬は顎を上げ、もやもやとした思考を断ち切った。

 今は余計な事を考えるべきではない。仕事に、事件に集中しなければならないのだ。

「本庁の特殊事件対策室の高瀬です。こっちは柴田。で、こっちはT大法医学教室の──」

「月見里です」

「お世話になります。僕は、高島平警察署のネムタです」

「ネム……」

 名は体を現すと言うが、こうもしっくり来る者も少ないだろう。

 そんな事を思いながら、高瀬が「どうも」と軽く頭を下げると、ネムタはいそいそと内ポケットから名刺を取り出した。

「これも何かのご縁と言う事で。今後とも、どうぞヒトツ」

 検証中の現場で、いきなりサラリーマンのような名刺交換など初めての事だ。

 高瀬は呆気に取られたが、差し出された以上、自分も出さねば格好がつかない。その様子に、後の二人も其々財布やカードケースから名刺を取り出し、「どうもどうも」「これはこれは」と、場違いな名刺交換会が始まった。

「根牟田……春生……警部?」

 受け取った名刺に目を落とした高瀬は、根牟田の肩書きに目を丸くした。

「はあ。運良くⅠ類に受かっちゃったものですから。今はこちらで研修中と言う事で」

 つまり、柴田と同じ、キャリアと言う事である。

 根牟田の、罪のないへらへらとした顔を眺め、ノンキャリ叩き上げの高瀬は、がくりと肩を落とした。

 柴田がキャリアである事も驚きだが、この如何にも頼り無げな男も、この先の日本警察を背負って立つ立場なのかと思うと、出世に限界のある身としては、先行きが不安にもなろうと言うものだ。

「それでですね」

 根牟田は、高瀬の心の内など全く気付く事もなく続けた。

「実は、本庁からこういったケースの事案が発生した場合、速やかに連絡を入れるよう通達が来ておりまして。で、ご報告しましたら、捜査一課のイナバウアーとか仰る方が」

「あー……イナバね」

「はい。そのイナバウアーさんが、高瀬刑事を投げろと」

「……イナバが俺にヤマを投げろと言った訳ね」

「あ、はい。そうです、そうです」

「あー……。で? どうなってます?」

 根牟田に益々不安を覚えた高瀬は軽く溜息をつき、伸び始めた髭でざらついた顎を撫でながら状況を聞くと、根牟田は「ええっと」と、名刺と高瀬、そして、漂う死臭にすっかり顔色を失った柴田の顔を見比べた。

 どうやら、警部補でありながら、見るからに態度の大きな年長者の高瀬と、肩身が狭そうながら、警部の肩書きを持つ柴田のどちらに話すべきか迷っているらしい。

 その様子に、高瀬の口がへの字に歪んだ。

「あのぅ」

「は。なんでしょう、柴田警部」

 警部と呼ばれ、柴田は居心地悪そうに頭を掻いた。

「いや、その。僕の肩書きはお飾りですから。お話は高瀬警部補に」

「そうなんですか?」

「はい。僕も運良く……と言うか、うっかり受かったクチです」

 そう言うと、柴田は力無くえへへと笑った。



「んがゴッ! ンン……?」

 自分の盛大な鼻の音で目を覚ました遠子は、むっくりと上体を上げると、ガリガリと頭を掻きながら、キョロキョロと辺りを見回した。

「あ~……? どこよ、ここ? 車ぁ?」

 居酒屋でしこたま飲み、高瀬を見つけた所までは覚えている。だが、それ以降の記憶が全く無かった。

「──どうなってます?」

 遠子は反射的にシートに突っ伏した。

 聞き覚えのある声。警視庁の刑事、高瀬の声だ。その後もボソボソと何やら聞こえてくる。周囲も何だか騒々しい。

 遠子はそろそろと体を起こし、ウィンドウからこっそり外を覗いた。

「あ」

 車から然程離れていない所に、高瀬と三人の男の姿があった。眠そうな顔の男に見覚えは無いが、後の二人には覚えがある。

 御岳山の現場で見た顔だ。綺麗な顔の長身の男は、直接面識は無いものの、T大の監察医だと言う事も知っている。

「何かあったんだわ」

 アルコールでぼんやりしていた頭が、一気に冴え渡る。

 遠子は姿勢を低く保ったまま息を殺し、ウィンドウ越しに四人の男達の会話に耳を澄ませた。



「車と、えー、あと免許証を携帯していましたので、そちらから被害者の身元は割れてます」

 根牟田はポケットからメモ帳を取り出すとパラパラと捲った。

「ええっと、ガイ者は港船一。目白で──」

「入船の店主?」

「え? ああ、そうです。鮨屋の。ご存知なんですか?」

「まぁ……、ちょっとした顔見知りで」

「それは……お気の毒様です」

「いや」

 何でもない風を装ったものの、本当は、ちょっとどころではなかった。

 高瀬が学生時代──大神天海の下で暮らしていた頃、港には何度と無く世話になった。

 寺では口に出来ない物を食わせて貰ったし、悪さをすれば、到底食えないような重い拳骨も貰った。

 父親の愛情をろくに受けずに育った高瀬にとって、大神天海こそが父であり、港は言うなれば第二の父でもあった。

 刑事となってからは忙しさにかまけて顔を出す機会も少なかったが、まさかこのような形で再会することになろうとは。

「続けて下さい」

 高瀬は小さく頭を振ると先を促した。今は感傷に浸っている場合ではない。

「後ほどご覧になって頂きますが、ガイ者は腹部を大きく負傷……いえ、そのぅ、なんと言っていいのか……」

「分りますよ。下世話な言い方をすれば『破られてる』んでしょ」

 表現に詰まる根牟田に代わって高瀬がそう言うと、根牟田はガクガクと頷きながら「そうですそうです」と繰り返した。

「全く仰る通り。その通りなんです。更に、体中、顔に至るまで、激しい損傷を受けています。殴られたと言うよりも、潰されたに近いものがありまして。ちょっと、普通の人間の仕業とは……」

 言いながら遺体の惨状が脳裏に浮かんだのか、根牟田はぶるっと身震いをした。

「御岳山の事案と同じですね、高瀬さん」

 そう言う柴田も、根牟田同様、ぶるっと身を震わせる。

 高瀬は軽く頷くと、根牟田に向き直った。

「それから?」

「あ、はい。先ほどガイ者の妻に確認した所、ガイ者は豊島なる知り合いのボクサーを、自宅でもある目白の店から、豊島のマンションに送りに出たのだと言う事です」

「で、そのボクサーは?」

「すぐそこの──」

 根牟田は体を捻ると、先程高瀬達が利用した高速池袋線の方を向き、公園の道を挟んで直ぐ向かいに建つマンションを指差した。

「あれです。あのマンションが自宅なのですが、帰宅していません。足取りも不明です」

「ガイ者と、その豊島って男の間にトラブルとかは」

「いえ。今のところ、全く耳に入ってきておりません」

「だろうな」

 港が誰かに恨まれるなど有り得ない。高瀬もそれは良く知っていた。

 となると、先程高瀬が居酒屋で思い至った件もある。あの思い付きが正しければ、狙われたのは屈強な体を持つボクサーの豊島の方であった可能性が高い。

 しかし、一体何のために──。

「文孝」

「ん?」

 黙って話を聞いていた月見里が、ちらと周囲の建物に目を遣ると言った。

「目撃者とかいなかったのかな。そもそも、誰が通報したんだろう?」

「あ。そうですよね」

 月見里の言葉を聞き、柴田もハンカチで口元を押さえながら周囲を見渡した。

「この辺、結構住宅も多いし。声を聞いたとかそう言う……おぇっぷ」

「います」

「えっ」

 三人は声を揃えると、一様に根牟田を見た。柴田に至っては、出掛かっていた物すら、余りの驚きに引っ込んでしまったようである。

「いる? 目撃者が?」

 高瀬が念を押すと、根牟田はこくりと頷いた。

「はい。たまたまこの公園でカモを探していた、盗撮マニアです。と言っても、通報したのは近所の住人で、カメラを持って喚き散らす男がいると連絡して来ました」

「ちょっと待った。目撃者が盗撮マニアって事は、ひょっとして撮影……」

「いえ、そこはまだ確認が取れておりません。なにせ、その目撃者が酷く動揺……と言うかパニック状態で、とても話を聞ける状態じゃなかったんです」

「まだここに?」

「はい。ご案内します」

 そう言うと根牟田はメモ帳を懐にしまい、先頭に立って歩き出そうとして、高瀬に引き止められた。

「あ、ちょっと。申し訳ないんですがね」

「はい」

「一人、制服を寄越してもらえませんか。そこの車に女が乗ってるんですが──」

 言いながら、背後を振り返り、自分達が乗って来たシルバーの覆面パトカー、スカイラインGT-R・R34を親指で指す。根牟田も体を傾けてその車に眠そうな視線を向けた。が、誰も見えない。

「えっと、女……ですか?」

「どうっしようもない大トラ女が、白目剥いてトグロを巻いてるんですよ」

 鼻に皺を寄せると、高瀬は両のポケットに手を突っ込み言った。警部を前にして、実にふてぶてしい警部補である。

「トグロを巻く大トラ……」

 根牟田は暫し考えたが、直ぐに合点が行ったらしい。手を打つと、「酔っ払いですか」と苦笑した。

「ええ。ソイツを、良ければお宅のトラ箱にでも放り込んで欲しいんですけど」

「全然大丈夫ですよ。誰か寄越しますね」

 全然の使い方が違うんじゃないか? と思ったが、それに触れるのはやめた。面倒を引き受けてくれるのだ。つまらないことは言うまい。高瀬は短く礼を言うに止めた。

「それじゃ、僕は先にご遺体を診て来るよ」

 月見里はそう言うと、前方でブルーシートを手に取り囲んでいる捜査員達を指差した。

 案内されるまでもない。あの中に、港がいるのだろう。

「ああ、頼む」

「それじゃあ、取り敢えずこちらへ」

 背を向けたまま、軽く手を挙げる事で無言の了解を示し歩いていく月見里の背を見送った高瀬は、改めて促す根牟田の後に従った。



「やったわ……」

 後部座席のシートの下で、遠子はひっくり返っていた。話が自分に及んだばかりか、いきなり高瀬が振り返った事で動揺し、落っこちてしまったのだ。

「やっぱり、御岳山の事件はタダの内輪揉めじゃなかった」

 遠子は柴田の「御岳山の事案と同じですね」と言う言葉に注目していた。

 これによって、あの事件が自分が睨んだ通り、報道とは全く違っている事、そして、目の前の事件が同じ犯人による可能性があると言う事がハッキリしたのである。

「なんてラッキーなの」

 そう呟く遠子の顔は、アルコールの所為ではなく、興奮で高潮していた。

 あれほど泥酔しておきながら、ひとたび「ネタ」となると正気に戻る。これがこの女の恐ろしい所でもあった。

 警視総監を父に持ちながら、根っからのブンヤなのである。

「こうしちゃいられないわ」

 遠子はシートの上に転がっていたハンドバッグを探りながら頭を巡らせた。

 御岳山の件については報道規制が敷かれていた。となれば、恐らくこの件に関しても報道陣はシャットアウトされているに違いない。

 つまり、独占──。

 モノにすれば大きい。

 更に、車は上手い具合に、見張りの警官が作る輪の中にまで入り込んでいる。

 これなら関係者を装う事も難しくはないかもしれない。

 他社を出し抜き、上司を見返す絶好のチャンスだ。

 ペン、メモ帳、デジカメ。この三つは常にバックに携帯している。それらをポケットに突っ込むと、遠子は道路側に面したドアを開け、ゲリラ兵士の如く、そっと外へと出た。



 根牟田について公園の中ほどにあるベンチへと向かうと、制服警官に挟まれた、黒いジャージのトレーニングズボン、襟首の伸びたキャラクター物のTシャツに、不精して伸ばしたような髪を後ろで括った、見るからにオタク然とした小柄な男が、高瀬を見た途端にヒッと悲鳴を上げた。

 隣にいた警官の二の腕を引っ掴み、その背に隠れようとすらしている。

「なんだ……」

 男を見止めるなり、高瀬は顎を上げ、にやりと口の端も上げた。柴田が見ても、刑事と言うより何処かの幹部組員のような、冷徹で凶悪な笑みだ。

 その表情に、男は虚勢手術に連れて来られた小型犬のように震え始めた。

「たたたたた……たか……」

「っはは。誰かと思ったら、亀田じゃないか。久し振りだな。元気か?」

「や……やめろ! そのデカを近づけるな!」

 まるで旧友にでも会ったように、わざとらしい仕草で片手を挙げて前に進み出る高瀬を指差し、男──亀田はヒステリックな声を上げ、もう一方の手で警官の制服を掴み揺さぶった。

「なんだよ。随分だな」

「お知り合いなんですか? 高瀬警部補?」

「知り合いも何も。迷惑防止条例違反で何度か注意をね。な?」

「ああああ、あれのどこが注意だ!」

「何やったんですか、高瀬さん」

「別に。ただ、あんまり頻繁だから骨が折れたな」

「ふざけるな! 折れたのはこっちだぞ!」

「……折ったんですか?」

「シャッターやRECボタンを押す指が悪い。大岡越前も言ってるだろ。指を憎んで人を憎まず」

 高瀬は、柴田が「言ってませんよ」と呟いたのに気付かなかったらしい。

「俺も大概人間が出来てるよな」

 と得意気に鼻を鳴らし、震える亀田の胸倉を引っ掴んで引き寄せた。

「なあ? 亀……」

 言いかけて高瀬は鼻をつく刺激臭に顔を顰め、引き寄せたばかりの亀田を力いっぱい押し戻した。

「なんだおまっ……クッサイな!」

「あんもにあひゅうれすよ。ひっきんひたんれひょ」

「……何言ってんだ、お前」

「ほりゃ、ありぇ」

 犬並に利く鼻を摘みながら指し示す柴田の言う通り、地面に尻餅をついた亀田のズボンの股間は、そこだけ色が違っていた。全体に黒い所為で分り難いが、よくよく見てみれば他よりも色が濃い。

「ゲッ。触っちまったぜ。エンガチョ!」

「ギャッ! にゃにしゅんでしゅか! ちたなっ!」

 触ったのはTシャツに過ぎないのだが、高瀬は大げさに手を振ると、鼻を摘んだまま抵抗する柴田のワイシャツの胸に、背中にと手を擦りつけつつ、さも嫌そうな顔で亀田を見下ろした。

「オッマエ、いいトシしてサイアクだなあ」

「う……うるさい! うるさい! あんなもの見てマトモなヤツなんか……」

「あんなもの?」

 亀田の言葉に、高瀬は突如真顔になった。そして、再び座りこんだ亀田の胸倉を掴むと、力ずくで引き上げる。その乱暴な扱いに、亀田は勿論、Tシャツも悲鳴を上げた。負荷の掛かった腋の下から、大きく裂けてしまったのである。

 だが、高瀬はそれに構わず、更に亀田を引き摺り上げた。

「おい、何を見た」

「ヒッ!」

「言え!」

「うわああああっ!」

「高瀬警部補」

 亀田が高瀬の剣幕にまたしても悲鳴を上げたのと同時に、根牟田が声を掛けた。

「モニターの用意が出来たそうですので、あちらへ」

 神妙な面持ちでひとつ頷いた根牟田が指し示した先には、高島平警察と書かれたバンが停まっていた。鑑識の車だ。

 小さなモニターには、亀田のものらしいデジタルビデオカメラが接続されており、根牟田が「お願いします」と言ったのを合図に、鑑識員によって再生ボタンが押された。

 赤外線カメラらしく、なかなかに鮮明に映っている。

 高瀬はモニターに映し出されたアングルから、亀田が高い位置にいることに気が付いた。

「木にでも登ってたのか」

「ええ。目撃者は木に登って隠れ……あ……なにか映りま……」

「ヒィーッ!!」

「これは……!」




 遺体は、ひしゃげた車の脇に転がっていた。

 夢の島に転がる壊れた人形のように、関節は有り得ない方向へ曲がり、泥と血で汚れ、そして何より、御岳山やで発見された遺体、京浜島で発見された遺体と同様、乱暴に、大きく腹を裂かれていた。

 ライトを浴び、ぬらぬらと光る、生々しく紅いクレパス。

 学生時代から高瀬と付き合いのあった月見里も、そこに転がる男を知っていた。高瀬と一緒に自慢のプリンを馳走になった事も一度や二度ではない。

 明るく、人のいい男だった。

 良い人間だったのだ。

「先生、これを」

 月見里は鑑識からラテックスの手袋を受け取ると、最早癖とも言える愛想笑いを浮かべ、ゴム臭いそれを嵌めながら、潰れた車体を見た。

 フロントガラスが、ボディが、外から内へと凹んでおり、ボンネットには大量の血痕。ガラスの割れ目には幾つも、血痕と共に、被害者の物と思われる毛髪が付いているのが見える。

 何度も執拗に体を打ち付けられた事が、潰れた車体からも充分過ぎるほどに伺えた。

「まさか──こんな形でお会いするとは」

 月見里は傍らにそっとしゃがみ込むと両手を合わせた。

 潰れてはいるが、港の顔には恐怖が張り付いている。そしてボンネットから滴り、地面を濡らす血液の量から見ても、生きたまま、この車の上で腹を裂かれたのは一目瞭然だ。

 地獄の苦しみと恐怖を味わいながら、最期を迎えたに違いない。

「想定外、でした」

 月見里は深い溜息を吐き、見開かれたままの港の目から視線を逸らすと、自分の足元を見詰め小さく言った。

「先生? どうしました?」

「いえ……」

 側に控えていた鑑識員に覗き込まれた月見里は、頭を振ると、麻のパンツの膝に手を付き腰を上げた。

 今日も暑い。流石に角膜の混濁は全く見られないものの、通常、死後二時間程度経過してから徐々に顎や首から始まり、半日程で全身に及ぶ筈の死後硬直が、気温の影響で既に始まっていた。

 上肢──つまり腕の筋肉に硬直が見受けられたのである。

 遺体の状況がこれ以上変わる前に、一刻も早く搬送した方がいい。

「ここで出来る事はありませんので、体温を測ったら、法医学教室に搬送しましょう。あと、散乱している組織も出来るだけ集めて貰えますか?」

「はい。それはもう」

「宜しくお願いします」

 再び慌しく鑑識が動き出す中、直腸温を図る為に再びしゃがみ込んだ月見里は、車の下、丁度後輪の内側に隠れている、潰れた包みに気が付いた。

 遺体に気をとられ、この包みにはまだ誰も気がついていないらしい。

「なんだろ……」

 一旦出した体温計を戻すと、車体の下に手を差し入れ取り出す。

 使い回しらしい包装紙に包まれたそれは甘い匂いがした。

「ああ……」

 包みを開き、その中の物を見た瞬間、月見里は嘆息した。

「好きだったよ。これ……」

 学生時代、高瀬と一緒に食べた、港自慢のプリン。

 あの時と同じ優しく甘い香りに、月見里は戦慄く唇を噛み締めた。


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