第15話

 東京霞ヶ関。

 皇居の桜田門前に建つ、地上十八階、地下四階からなる鉄筋コンクリートの巨大な建造物。

 それは、約四万二千の人警察官と約三千人の事務・技術職員が所属する地方行政機関であり、この東京都を管轄する警察の本部、警視庁。通称「桜田門」である。

 その庁舎の六階フロアを、どかどかと歩く者がいた。高瀬である。

 挨拶を交わす職員や元同僚の脇をすり抜け、フロアの隅にあるスチール製のドアの前で足を止めると、乱暴にそれを開けた。

「オラ!起きろ!」

「あいたっ!」

 仮眠室の簡易ベッドで寝ていた柴田は、タオルケットを剥ぎ取られた上に、げしげしと足蹴にされて悲鳴を上げた。

 着ていた下着代わりのTシャツの背中には、くっきりと高瀬の足跡が付いている。

「いったー……。もう少し優しく……」

 のろのろと体を起こし、足跡の付いた背中に手を伸ばす柴田の頭を、高瀬はまるでバスケットボールの様に掴むと、グリッと自分の方へ向けた。

「ほう。俺に優しく起こされたいのか」

「……いえ、いいです」

 高瀬に優しく起こされる様を想像しただけで両腕が粟立った柴田は、一瞬の沈黙の後、丁重に断った。

 我儘で乱暴で、ガサツで気が利かないのが柴田の知っている高瀬である。

 だが、本当は優しい事も知っている。高瀬は照れ臭いのだ。


 ──って言うか、僕が単にマゾなんだったりして。


「とほほ」

「何がトホホだ。ほら」

 ベッドの上で正座をしてる柴田の前に高瀬が差し出したのは、携帯電話会社の紙袋だ。

 柴田は訳も分からぬままにそれを受け取った。

「えーっと? なんでしょう」

「朝飯」

「え?」

「朝飯!」

「うわ。ホントに持って来てくれたんですか?」

 背中を向けてしまった高瀬に「うれしいなあ」と言いつつ紙袋に手を突っ込んだ柴田は、中身を取り出して目をぱちくりさせた。

 袋の中から現れたのはコンビに弁当でもサンドイッチでもなく、プラスチック製のランチボックスだったのだ。

「これって手作り……? まさか……?」

 恐々顔を上げると、高瀬の冷たい視線とぶつかった。

「俺の訳ねえだろ。そいつは千里んとこの大沢君が──」

「昨夜の満漢全席バリの料理を作った人?」

「満漢全席は大げさだが、まあ、そう言うこった」

 すると柴田は大きく息をついた。安堵の息である。

「ああ良かった」

「どう言う意味だ」

「高瀬さんの料理なんか怖くっ……痛ああっ!」

 正直な感想を最後まで言う暇もなく、柴田は激痛に悲鳴を上げ、顎が外れるかと言うほどに顔をゆがめた。

 まるで楳図かずおのホラーマンガのようである。

 それもその筈。柴田の両のこめかみを高瀬の拳骨が襲ったのだ。しかも、力を込めてぐりぐりと捏ね繰り回している。

「んがががが……」

「ついでに吐け。青梅署の捜査資料は何処だ」

「うう。僕の机の上です」

 高瀬の非情なついでの尋問に目を潤ませて答えると、柴田はがっくりと項垂れた。

「食ったら直ぐに対策室に来い」

 いいな、と付け加えようとした高瀬だったが

「うわー、うわー。なんかオシャレなデリの弁当みたい。ウマそう~」

 柴田は既に高瀬が持ってきた朝食を広げ、恐るべきスピードで高瀬の存在を忘れていた。

 そんな柴田の耳を思い切り摘み上げると、高瀬は再び拷問の鬼となった。

「オマエの耳は飾りか?それともこれは『ラーメン民民』のギョーザのサンプルか?ああ?」

「いたたたた!か……感触は八ツ橋だと言われ……ぎゃーっ!」

 軽い冗談だったのだが、柴田は更に高瀬に耳を捻り上げられ、悲鳴を上げた。

「これ持って直ぐ行きますです!ごめんなさいっ!」

「さっさと着替えろ」

 耳を押さえて悶絶する柴田にそう言い捨てると、高瀬は仮眠室のドアを開けた。

「ったく」

「おはようさん、高ちゃん。外まで聞こえたで、坊の絶叫」

 廊下に出た高瀬にそう声をかけたのは、鑑識一筋35年の竹山だ。

 痩せた体に青いつなぎを身に着け、肩からは大きなジュラルミンケースを下げている。

 日に焼けた顔には年輪のように皺が刻まれているが、それが竹山の人の良さを更に際立たせていた。

 高瀬が捜査一課に席を置いていた頃は、何かと世話になったものだ。

 鑑識としてだけではなく、人生の先輩としても。

「あ。おはようッス、竹さん。これから出動ですか」

「いや、戻ってきたとこやねん」

 竹山はよっこらしょと荷物を下ろすと、背中を逸らし、彼方此方の凝り固まった関節を鳴らした。

 若いつもりでも、もう間もなく定年となる還暦を迎えようと言うのだから無理は無い。

 定年後は出身地でもある神戸へ戻るつもりでいるらしいが、警視庁のお偉方が、竹山を嘱託として引き止める方向で話を進めていると言う噂もある。

 おっとりとした風貌からは微塵も感じられないが、竹山の腕は誰もが認めるところであり、そして切れ者なのだ。

「いやー。凄惨やったわー、ホンマ」

 凄惨と言う言葉が不似合いなほどにのんびりとした調子だが、それが竹山の特徴でもある。

 それを良く知っている高瀬は眉を寄せた。

「コロシ?」

「うん。でもこれ、高ちゃんとこに行くんちゃうかなあ。お。山ちゃん、ご苦労さん」

 横を通り過ぎて行く同僚を労いつつ、竹山はジュラルミンケースを通行の邪魔にならぬよう移動させるべく、足で寄せ始めた。

 しかし、カメラや指紋採取の為のアルミ粉、刷毛、血痕検査の為の試薬、ピンセットに袋、メジャーにガムテープと言った様々な道具が入ったケースは重く、フロアのピースカーペットの上でゴトゴトと音を立てるばかりでなかなか言う事を聞かない。

 見かねた高瀬は、ケースを持ち上げると壁際に寄せた。

「おおきに、おおきに。多分な、後でボクチャンが直々に、お取り巻きと高ちゃんとこ出向くんちゃうか?」

 竹山の口から「ボクチャン」の名が出た途端、一部の取り巻きを覗く全ての職員がするように、高瀬もこれ見よがしに苦い顔をした。

 ボクチャンとは、現捜査一課の課長、因幡史朗の事だ。俗に言うキャリア組で、二十八歳にして警視。しかし、警視庁でも兵揃いと言われている捜査一課の課長でありながら現場を知らず、身長は郵便ポスト並みだと言うのに、プライドは台北国際金融センタービルより高い。

 とは言え、それだけならキャリアに幾らでもいる人種だが、因幡の一癖も二癖もある言動は、それを遥かに突出していた。その為、職員──特に叩き上げの刑事に疎まれている。

 高瀬も例に漏れず、因幡を酷く嫌っていた。だが、それと同じく、因幡の方も高瀬を嫌っている。影で文句を言いつつも従う捜査一課の刑事達とは違い、高瀬は全く因幡の思い通りにならないからだ。

「それはそれは……。因幡警視直々に、警視庁のゴミ屋敷へいらっしゃるとはねぇ」

「っはは。ゴミ屋敷はええな」

 竹山はカラカラと笑ったが、否定しなかった。いや、実際対策室に足を踏み入れたことのある者なら、誰も否定はしないだろう。暇を見つけては柴田が片づけを行っているものの、それを横目に高瀬が散らかしているのだから、いつまで経っても片付かない。イタチごっこなのだ。

「で、現場はどんなだったんですか」

 高瀬の問いに、竹山は低く唸ると口をへの字に歪めた。

「京浜島の廃ビルで仏さんが二体出たんやけどな、二体とも腹にデカイ穴が開いとったんや」

「腹に穴……?」

「うん。なんちゅうか、ちょっと人間業とは思えへん感じやったで。ワシもこの仕事長いけど、あないにヒドイんはちょっとなあ」

 竹山によると、現場は血と臓物、糞尿の臭いで充満しており、壁や天井のいたる所に血痕と組織が付着していたという事だ。遺体の損傷具合と言い、現場の状況と言い、御岳山の事案と符合する。

「それ、何処に運ばれたんですか? 監察医務院?」

「いや、月見里先生んとこや。なんや、昨日の分も残っとるから、解剖の時間はまた連絡する言うてはったけど」

 そこまで言うと、はあっと竹山は大きな溜息をついた。

 痩せた肩をがっくりと落とし、首の後ろを揉む。

「ほんでも、暫くホルモンはええって、カアちゃんに言うとかなアカンわ」

 ホンマはめっちゃ好物やねんけどな、と付け加えると、竹山は苦笑した。

 無理も無い。高瀬が見た御岳山と同じ状況だとすると、普通の人間なら卒倒する所だ。

「それは……」

 お気の毒にと苦笑すると、高瀬は敬礼した。

「いや、ご苦労さんでした」

「いやいや、ご苦労さんはお互い様や。高ちゃんも頑張りや。ほなな」

 人の良い笑みを浮かべ、高瀬の肩を軽く叩くと、竹山はジュラルミンケースを持ち上げる。

 と同時に仮眠室のドアが開き、スーツに着替え、紙袋を抱えた柴田が出て来た。

「おっ、坊。おはようさん」

「あ、おはようございます、竹山さん」

 ぺこりと頭を下げた柴田の頭を掻き回すように撫でると、竹山は得意の演歌を口ずさみながら鑑識課へと向かって行った。

「お待たせしま……どうしたんですか?面白い顔して」

 乱れた髪を直しながら高瀬の顔を覗き込んだ柴田は、そう言ってから慌てて頭を庇った。

 どうしたんですかの後には「怖い顔して」とか「難しい顔して」と言うべきだったのだ。

 よりによって「面白い顔」などと言ってしまうとは。

「ひー。ごめんなさ……」

 柴田は己の正直さを呪いながら、振り落とされる拳骨を待った。

 しかし。

「電話してくる」

「え?」

 拳骨どころか膝蹴りの1つも食らわさず、高瀬は、きょとんとしている柴田をその場に残し、廊下を走って行ってしまった。

「あ、ちょっと高瀬さん!待ってくださいよう!見捨てないでーっ!」



 対策室に入るなり、高瀬は受話器を取った。

 短縮ボタンの番号は覚えていないのに、電話番号はちゃんと指が覚えている。

「もしもし。栞ちゃん?」

コール音が途絶えて直ぐ、高瀬は名乗りもせずに月見里の秘書の名を呼んだ。

 しかし、栞にはそれが高瀬からの電話だと分ったようだ。

『高瀬さん?おはようございます』

「うん、おはよう。月見里呼んでくれる?」

 肩で受話器を押さえながら、ガサガサと机の上の書類や新聞を掻き分けスペースを作ると、そこへ腰掛ける。自分の椅子の上は、下ろすのも面倒なほどの荷物が乗せられているからである。

 受話器の向こうでもゴソゴソと雑音が響いたが、数秒の後、呼吸とも溜息ともつかぬ息遣いと共に月見里が出た。

『文孝?』

「なんだ、横にいたのかよ」

『横じゃなくて下』

「別にンなこた……」

 どうでもいい。と言おうとして、高瀬はぴたりと口を噤んだ。

 受話器から漏れる息遣い。そして、栞の下にいると言う月見里。

「おい。なんで下なんだ?オマエら真昼間から何してんだ。妙な息遣いしやがって」

 その途端、高瀬の背後で「ブーッ」と言う音が聞こえたかと思うと、ランチボックスを抱えた柴田が激しく咳き込みだした。

『気になる?』

 受話器の向こうでは、月見里が気だるげにそう言いながらくすくすと笑っている。

 その声を聞きながら高瀬は背後を振り返ると、ぎろりと柴田を睨んだ。

「俺の後ろのヤツが激しく動揺してるよ。お陰で優作がタマゴまみれだ」

『タマゴ?』

「柴田のバカが、弁当のタマゴを優作のポスターにぶちまけた」

 高瀬の背後では、既に柴田が大慌てでティッシュボックスを片手に走り回っていた。

 何しろ、この対策室に貼られている松田優作のポスターは高瀬の信仰対象なのだ。高瀬の眼前で無礼を働こうものなら、何をされるか分ったものではない。

「口の周りにべったりつけやがって。おい、優しく拭けよ!インクが落ちるだろ!」

『うーん。それは悪いことしたな』

 月見里は不幸な柴田を不憫に思った。

 だが、高瀬は「全くだ」と言ってまた悪態をついた。月見里は自分に謝罪しているのだと思ったのである。そして直ぐ、思い出したように月見里を追求した。

「で?何してんだよ」

『腰……んっ……』

 月見里は一瞬息を詰め、またふうっと漏らす。

 その声に高瀬は顔を顰めた。

「おい……」

『腰を踏んで貰ってるんだよ』

「腰?」

『だってほら、前屈みで立ちっ放しでしょ。もう、腰がだるくて重くて。限界……』

 月見里の情けない声に、高瀬の肩の力も抜けた。途端に笑いも込み上げて来る。

「オッサンかよ」

『君と同様、今年三十五だからね、僕も。オジサンですよ』

「それは、オマエもオッサンだろ。と言いたいのか?」

『当たらずも遠からずってやつかな?ところで、文孝に話しておきたいことがあるんだ。いいところに電話してくれたよ』

「仏の追加だろ」

『もう聞いたんだ』

「ああ。さっき竹さんから聞いた。どうなんだ。昨日のと──」

『酷似してるね。まあ、詳しい事は電話じゃなんだから、後で寄ってくれるかな』

「わかった。これから第一発見者の所へ聴取に行きたいから、そうだな……」

 言いながら高瀬は自分の腕時計を見た。もう既に十時を回っている。

 往復に掛かる時間に、聴取に掛かる時間。ざっと見積もっても四~五時間は必要だろう。

「それじゃあ、夕方にでも……」

 と、突然対策室のドアが開かれ、二人の男が対策室に入ってきた。いや、よくよく見てみれば、間に小さいのが挟まっている。捜査一課課長の因幡警視だ。竹山の言った通り、お気に入りの取り巻き「チョコレーツ」を引き連れやって来たのだ。

 この取り巻きの二人がチョコレーツたる所以は、彼らの名前にある。

 色白で、柴田と同じくらいの背丈。さらさらとした黒髪に中性的な面立ち、繊細なフレームの眼鏡と左目の下の黒子が特徴の森永『天使と書いて』たかし警部。

 そして、モデルのような長身に、ハニーブロンドの髪と色素の薄い瞳。母親がアメリカ人と言うハーフながら、出身は東北は秋田県で、生まれてこの方日本を出た事がなく、日本語しか話せないと言う明治カール警部。

 其々の苗字が「森永」と「明治」であるが故に、二人が揃うと「チョコレーツ」と呼ばれている。

 そのチョコレーツの間で踏ん反り返っている因幡を見た途端、高瀬の顔が苦虫を噛み潰したように歪んだ。

「あー……いや。どうやら夜になりそうだ。いいか?」

 受話器を隠すかのように背中を丸めて背を向けると、訪問時刻を変更する。

『構わないよ。それじゃあ、夕飯でも一緒にしようか』

「オッ?当然奢リだろうな、センセイ」

 高瀬がそう言うと、受話器の向こうが静かになった。月見里が躊躇ためらっているのである。

 なにしろ、高瀬は大食らいだ。大した趣味もなく、衣服にも無頓着な高瀬の懐がいつも寂しいのはこれが原因で、食べ放題と銘打つ彼方此方の店で出入り禁止になっている程なのだ。月見里が躊躇ためらうのも無理はない。

 暫く沈黙が続き、高瀬が「おい、どうなんだ」と返事を催促すると、ようやく月見里の溜息交じりの返答が返ってきた。

『……わかったよ』

「よっしゃ、決まりな。じゃ、そっちに向かう前に一度連絡入れる」

『了解』

「じゃあな」

 高瀬が受話器を置くと、待ってましたとばかりに因幡が口を開いた。

「私用電話じゃあないでしょうね」

「違いますよ」

「それならいいんです。何しろ、我々が使用する全ての物は、この……」

 言いながらポケットからメタリックブルーの携帯電話を取り出し、すたすたと優作のポスターの前まで行くと、因幡は携帯を持つ腕を伸ばして「激写ッ!」とシャッター切った。

 その脇で、チョコレーツも因幡に倣い「激写!」「激写!」と其々シャッターを切る。

 狭い対策室内で、三人のいい大人がポスターに向かって写メすると言う、異様な光景が繰り広げられた。

「この、時代遅れでむさ苦しい俳優の、小汚いポスターを貼り付けている画鋲の一つ!」

 因幡は、ポカンとしている高瀬の鼻先に、携帯電話の液晶を突きつけた。

 そこにはピンボケした金色の円形の物体が写っている。どうやら画鋲らしい。

 指で指し示せば済むものを、わざわざ携帯で撮影したのだ。

「これです! この画鋲ですら、我々の物であって我々の物ではない! いいですか? これらは全て、都民の皆様方の血税で……」

「なんか用があって来たんでしょ」

 高瀬は手の甲で携帯を押しのけると、机から立ち上がった。

 これで、頭一つ分は確実に小さい因幡を見下ろす形になる。おまけに、反らした高瀬の胸が因幡の鼻に触れそうなほど近いのだから、嫌がらせ以外の何物でもない。

「なんスか? 京浜島の廃ビルの件?」

 両のポケットに手を突っ込んで、わざとらしく腰を折り、背の低い因幡を下から覗き込む事で、プライドの高い警視殿のコンプレックスを更に煽ると、高瀬は言った。

「うぐ……」

「警視、頑張って!」

「ほら、警視の凛々しいお姿を撮りますよ! 笑って笑って」

 怯む因幡を、チョコレーツが小声で援護する。

 普通ならそんな事では立ち直れそうにない所だが、因幡はプライドが高い割りに単純だった。

 明治の携帯にニヒル……いや、両生類のような粘質な笑顔を見せると、直ぐに表情を引き締め高瀬に向き直る。

 咳払いをして態勢を整えたその顔には、いつもの「根拠のない自信」が満ち溢れていた。

「公務員としての自覚には欠けますが、相変わらず、血生臭い事件には鼻が利くようですね」

「そりゃどうも」

 因幡は携帯を折り畳んでポケットにしまうと、ジロリと高瀬を睨み、腰を落ち着けるべく柴田の席の椅子を引き出した。これは高瀬の予想通り、話が長くなりそうだ。しかし──。

「……何ですかこれは」

 因幡は腰を下ろした途端、顔を顰めた。柴田の机の周囲には、先程噴出したタマゴがまだ残っていたのだ。

と──。

「激写ッ!」

「激写!」

「激写!」

 またしても携帯での撮影会が始まった。被写体は、卓上の惨状及び、荷物や書類の散乱した室内である。

「全く。公務員が仕事をする部屋とは思えませんね。酷すぎる。これは証拠として刑事部長に提出します」

「どうぞ、ご勝手……」

「あー、あの、すみません、警視! 直ぐ拭きますので!」

 あからさまに反抗的な高瀬を押しのけると、柴田は姿勢を正し、敬礼した。

 そしてムッとする高瀬の腕を引っ張ると部屋の隅へと連れて行く。

「ここはガマンしましょ? 副総監にまで迷惑をかけるような事になったら、それこそ申し訳ないじゃないですか。ね?」

「う……」

 現副総監の安藤は高瀬が捜査一課にいた頃に課長を務めていた人物で、高瀬を高く評価してくれた上司である。

 それは現在も変らず、捜査課から外れ対策室へと移動になった現在も、何かと目を掛けてくれていた。そんな安藤の立場を、たかがタマゴ如きで危うくする事もなかろうと柴田は言うのだ。

「それに、机の上汚したの僕ですから」

 それ以外は全て高瀬なのだが、それには触れまい。

「……わーったよ」

「ありがとうございます」

 柴田はにこりと笑うと、布巾を手に取った。

「おい、柴田」

 ぺこぺこと頭を下げてから、イソイソと机を拭き始めた柴田の横に回りこむと、高瀬は柴田に耳打ちした。

「腰を踏んで貰ってたんだとよ」

「え?」

 柴田は高瀬の言葉に手を止め、顔を上げた。

「コシ?」

「腰痛なんだと。それで下だって話で、別に妙なイミじゃねえってこった」

「な……なあんだ……。ははっ」

 高瀬にぽすんと後頭部を叩かれ、柴田は心底ホッとしたように胸をなでおろし、眉で八時二十分を指し示していた顔に、へらりとした笑顔を浮かべた。

「一体何の話です」

「別に。なんでもないッスよ」

「ふん。まあいいでしょう。──あれを」

 柴田の椅子に踏ん反り返ると、因幡は後ろに控える森永に顎をしゃくり、肩の上で手の平を上にして差し出した。

「はい。どうぞ警視」

「あらっ? あららららー。もう五つもウンコしちゃったんでちゅか、とーこタン。今、しろタンがキレイキレ~イ、してあげまちゅからねー。ぴっ、ぴっ、じゃじゃーっ」

「しろタン……?」

 高瀬の冷たい視線が因幡に向けられ、柴田も驚いたように凝視する。

 すると、森永に手渡されたオレンジ色の懐かしき小さな卵型携帯ゲーム機のボタンを、背中を丸めてピコピコと押していた因幡の動きがぴたりと止まった。

「むぉりながぁぁぁ! ち、違うぞッ! これじゃないッ! そっそそそそそ捜査資料をあだっ……」

 最も見せたくない相手の前で醜態を晒した事に慌てた因幡は、取り繕おうとして舌を噛んだ。そして、一頻り声なき悲鳴を上げて悶絶した後、森永を睨む。その目は血走り、涙すら浮かんでいた。

「しょーしゃしりょーをらしぇというんら! こにょ、うしゅにょろめ!」

「あれぇ? すみません。てっきり……」

「なーんも、おめだば、まんず、どかつかでえな」

「は?」

 唾を飛ばして激昂する因幡の前で視線を明後日の方を向け、小首を傾げる森永に明治がそう言った途端、高瀬の目が点になった。

 ハーフとは言え、見るからに外国人顔の明治の口から発せられた東北弁に、耳を疑ったのだ。

 因みに、標準語に訳すと「全く、お前は本当にうっかり者だなあ」と言う意味である。

「ぷっ」

 静まり返った室内で、我慢し切れなくなった森永が吹き出した。所在なさげにしている相方の広い背中をバシバシと叩く。

「もー。イヤだなあ、明治。その顔で秋田弁は似合わないってば!」

 言って再び声を上げて笑う。

 それに救われたのか、明治も照れくさそうに頭を掻きながら口元を緩めた。

「いやあ。わも、てげどかつかでえな」

「ホントだよ。あははは」

「なんだよ、秋田弁かよ。参ったな」

 つられて高瀬も、そして柴田も笑い出す。

「ごめんしてけれ」

 明治が謝ると、四人は再びどっと笑い声を上げた。

 面白くないのは因幡である。

「にゃごむにゃ、バカどもッ!」

「はっ。失礼致しました!」

「かしぇッ!」

 敬礼する森永からフォルダをひったくると、因幡はそれを広げ、高瀬と柴田をねめつけた。

 緩みきったこの場を、警視である自身が引き締めなければならない。

 因幡は咳払いを一つしてから、ゆっくりと口を開いた。

「ええっろ、けひゃはやふひー」

 ますます緩んだ。

「自分で読みますよ」

 プライドをズタズタにされがっくりとうなだれる因幡から、小刻みに肩を震わせながらフォルダを取り上げると、高瀬は再び机に腰掛け、目を通し始めた。読み終わった分は順に、隣から覗き込んでくる柴田に手渡す。

 事件の概要は、概ね次のようなものだった。


 今朝早く、近所に住む老人がペットのビーグル犬を連れて散歩に出た際、あやまってリードを離してしまった。

 ビルは地下一階、地上三階建ての古いビルで、老朽化から立ち入り禁止となっていたが、ビーグルが地下へと下りていくのを見ていた老人は慌てて後を追い、自身もビルの地下へと下りた。

 地下には幾つかのドアがあったが、廊下の突き当たりに位置する、壊れたドアの奥から、愛犬の鳴き声と異臭がした為、恐る恐る覗き込んだところ、二体の人間らしき凄惨な死体を発見。通報した。


「で? こいつも俺にって事ですか」

 読み終わった柴田から資料を受け取ると、高瀬はパンと、手の甲で用紙を叩いた。

「まあ、簡潔に言えばそう言う事になりますね。青梅署管内の事案とも符合する点もありますし、何しろ捜査課も忙しいんですよ」

 自分は全く現場に出ないにも関わらず、因幡はそう言うと、フンと鼻を鳴らした。

「ところで、その御岳山の件はどうなっているんです? 不本意ながら、一応対策室も私の管理下にある訳ですから、きちんと報告して頂かないと困るんですがね」

 すっかり調子を取り戻した因幡は、顎を上げると繰り返した。

「どうなんです?」

 因幡の高圧的な態度に、高瀬の頬がぴくぴくと痙攣する。それに気付いた柴田が、慌てて高瀬のシャツの袖を引いた。その目が再び『ガマン、ガマン』と言っている。

「……昨日の今日なんで、なんとも」

「解剖の結果は?」

「全ての遺体から、臓器が一つ無くなっていました」

「臓器?」

「肝臓です」

「ほほう。ほう、ほう、ほう」

 因幡は小さな目を輝かせると、自身の顎を摘み、不敵な笑みを浮かべる。

 そして、ポンとスラックスの膝を叩き、立ち上がった。

「分りました! これは臓器売買です!」

「さすが警視!」

「あっという間に事件解決ですね!」

 森永と明治が口々に褒め称えると、因幡の鼻が見る見る高くなっていった。

 今や因幡の鼻で柿や大根が干せそうである。

 しかし、それを呆れたように眺めていた高瀬が口を開いた。

「T大の月見里先生によると、遺体の損壊度や状況から、それはありえないそうですけどねぇ?」

「残念ッ、警視!」

「あっという間に迷宮入りですね!」

「うるさいっ!」

 天高く聳え立った鼻は、いとも簡単にぽきりと折られた。

「とっ、兎に角! 特殊な異常犯罪です。マスコミに嗅ぎ付けられないようにして下さいッ。いいですねッ!」

 そう言って因幡がびしりと人差し指を突き出すと、高瀬がふいと目を逸らした。

 机から腰を下ろし、目を逸らしたまま片方の手で頭を掻いている。

 その様子に因幡の指先は力を失い、ぐにゃりと下を向いた。

「ま……まさか?」

「はあ。一人、やけにしつこい女がいまして」

「まままま……まさか?」

「そのまさかだったり?」

「喋ってないでしょうね」

 高瀬はフンと鼻を鳴らすと、喋りませんよと言って口をへの字にひん曲げた。

 それに構わず、因幡が詰め寄る。

「どこの記者です? 記者なんでしょう? その女と言うのは!」

「えーっと、日売……?」

 浮気を問い質される夫の気分を味わいながら、高瀬がうろ覚えの新聞社名を口にすると、因幡はがばっと身を乗り出した。

「も……もしかして、水野……」

「ああ、そういやそんな名前だったかなあ」

「なんと言うことでしょう……」

 因幡は盛大なため息をついた。

 警視庁切ってのスタンドプレーヤー、そしてトラブルの匠は、またしても迷惑なミラクルを起こしたようである。

「失礼を働いたんじゃないでしょうね」

「は?」

「いいですか。その女性は」

 言いながら高瀬をじろりと睨むと、因幡は続けた。

「警視総監の、ご令嬢です」

「はあ?」

 素っ頓狂な声を上げた後、高瀬の喉仏がゆっくりと上下した。

「マジかよ……」

「失礼を働いたんじゃないでしょうね!」

「別に。ホントの事言っただけですよ」

 そのホントの内訳の一つ一つが充分過ぎるほど失礼に値する事は棚上げすると、高瀬は腕を組み、胸を張った。

「おかわいそうに。きっとこのガサツで非礼な男に暴言を吐かれ、遠子さんは傷つき、悲しみに打ち震えていらっしゃるに違いない……」

「んなタマかよ。あの変態バカ女」

「なぬ! とーこタンは変態なんかじゃないぞッ!」

「とーこタン?」

 高瀬の口の端が意地悪く吊り上った。

 片手に捜査資料を持ったまま、ニヤニヤと薄笑いを浮かべて腕を組み、耳まで赤くなった若き警視を見下ろしている。

「ほー。そうでしたか。因幡警視殿は、あの、ウンコを五つもしたアレに、あの女の名前をつけていらっしゃると。へぇー……」

 因幡が総監の娘に執心だと言う噂は、高瀬も小耳に挟んだ事がある。

 この陰湿な、『貴公子』ならぬ『奇行子』が夢中になる女とは一体どんな女かと思ったが、なるほど、お似合い過ぎて笑いが止まらない。

 だが、ここでお似合いですねと言ってやるほど高瀬は"人が良くない"。どうせなら、もっと突っ込んでやらねば気が済まなかった。

「これは、総監にご報告しなくていいんですかね。警視がお嬢さんをゲームの中で好き放題……」

「とっ、ともかく! 総監のご令嬢とは言え、遠子さんが記者であることには間違いありません。以後、悟られないようにして下さい。いいですね!」

 高瀬の反撃を遮るように声を荒げると、因幡はチョコレーツを引きつれ、短い足を精一杯広げて出て行った。

「あーあ。いいんですか?」

 開け放たれたドアをそっと閉めると、柴田は恐る恐る、高瀬の背中に質した。

 高瀬は素知らぬ顔で、青梅署から届いた捜査資料と京浜島の資料を広げている。

「構うか。現場に出ないで踏ん反り返ってるヤツなんか、放っておけばいいさ」

 そして、ざっと読み直した資料を纏めるとフォルダに突っ込み、柴田を振り返った。

「メシはもういいのか」

「あ、はい。実はもうすっかり食べちゃいました」

 その言葉通り、柴田はランチボックスの中身をきれいに平らげていた。

 その上、律儀にも名刺の裏に礼を書いてランチボックスに添えてある。

「凄く美味しかったです」

 柴田は嬉しそうに笑った。実際まともな料理を口にしたのも久し振りなのだ。

「そりゃ良かったな」

 そう言ってすれ違いざまに柴田の頭をポンと叩くと、高瀬はジャケットを掴んだ。

「出るぞ。御岳山の第一発見者の所に話を聞きに行く」

「らじゃー!」

 背筋を伸ばして敬礼すると、柴田もジャケットを掴み、高瀬の後を追った。

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