第14話

「はー。旨かった。大沢君の作る飯は天下一品だな」

 ダイニングの隣に位置するリビングに、向かい合わせに配置されたコンランショップの大きな2人掛けソファー。その1つにどっかりと腰を下ろすと、高瀬は腹を摩りながら満足そうに息をついた。

 実際、この家の台所を預かる大沢の料理の腕は抜群で、和洋中からエスニックに至るまで、その完成度は高く、特にトマト、ドミグラス、ホワイトと言ったソース系の料理や小麦粉などの粉を用いた料理やパン、菓子は絶品だ。

 その上、残った料理は形を変えて登場させると言う、主婦顔負けのやりくり上手で、掃除洗濯と言った家事もパーフェクトにこなしている。

 大樹の世話を育児と称する事が許されるのであれば、これ程までに完璧な主夫はざらに居ないだろう。

 女に変えられる魔法でもあれば、「是非嫁に」の呼び声高く、引く手も数多だろうと思うところだが、これだけの美貌の青年を女に変えてしまっては、世の女達に恨まれることこの上ない。

 高瀬はくだらない考えを追い払うと、テーブルの上の冷酒を手に取った。

 千里の養父、天海住職の差し入れだと言う、北陸の冷酒「常きげん・山廃仕込純米酒」だ。

 固い栓を抜くと、プシュッと音がした。

「うお!なんだ?シャンパンみてえだな」

 キンと冷やされたグリーンの瓶は曇り、びっしりと付いた水滴が見るからに涼しげだ。

 高瀬は瓶を掴むと、ぽってりとしたガラス製のぐい飲みに注ぎ、一口飲んで驚いたようにぐい飲みの中を覗き込んだ。

「おいおい。なんかワインみてえだな。スッキリしてるし」

 言いながら、高瀬は手にした瓶のラベルを眺めた。

「山廃仕込……。なんだそりゃ」

 酒は好きでも知識の無い高瀬は、瓶を掲げたまま頭を傾げた。

 そもそも山廃仕込とは、酒蔵に住んでいる自然の酵母を温度操作で呼び込んでつくる伝統的な手法で、時間と手間がかかる上に、熟練した杜氏の技術を必要とする酒である。

 そして今、高瀬が口にしているのは、その熟練した杜氏の中でも「全国清酒新酒鑑評会」で連続十二回、通算二十四回の金賞受賞している酒造りの名人が作ったものだった。

「なんか良く判らんが、とにかくこいつは旨い!」

 口にしているのがそんな一級品とも知らず、高瀬はぐい飲みに残った貴重な酒を一気に飲み干し、再びそれを満たした。

「……なんだよ」

 向かいのソファーで寝そべるように寄り掛かっていた千里が、ぐい飲みに口をつける自分を横目で見ているのに気付くと、高瀬はそう言って手を止めた。

「さっきの女」

「……ああ」

 千里の言う「さっきの女」が水野遠子の話だとわかると、高瀬は手にしていたぐい飲みをコーヒーテーブルに戻した。

 辛口で芳醇な酒が、ぐい飲みの中でゆらゆらと揺れる。

 それを暫く眺めていた高瀬だったが、顔を上げるとニッと歯を見せ千里を見た。わざとらしい位の作り笑いだ。

「オマエもビックリしたろ」

「まあな」

 千里は高瀬が酒を眺めている間に身体を起こしたらしい。目の前でジーンズの足を組み、ソファーに背中を預けていた。

 しかし、ふいに身体を前のめりにすると、高瀬が置いたぐい飲みに手を伸ばし、一気に煽った。

「おい、何飲んでんだ、未成年!」

「固い事言うな。あ、マジ旨え」

「返せ!」

 高瀬は千里がしげしげと眺めている空のぐい飲みをひったくると、改めて酒を満たし、ぐいっと煽った。

「ケチくさ。大沢、グラス!」

「大沢君は大樹と庭で花火だ。テメーで取って来い」

「チッ」

「チッ。じゃねえだろ。少しは自分で動けよ、テメーはよ」

「いい。このまま飲む」

「ざけんな。取って来い」

「わーったよ」

 酒瓶を取り上げられた千里が重い腰を上げてキッチンへ向かうと、高瀬はリビングに面した庭へと視線を移した。

 そこでは大樹が大沢の監視の下、花火に夢中になっている。

 エアコンの冷気を逃がさないよう窓を締め切っている所為で音は聞こえないが、吹き上げ式の花火に歓声を上げ、小さな手をパチパチ叩きながら飛び跳ねているのが見えた。


──ここは平和だな。


 千里達が大沢の別宅であるこの家で共同生活をするようになって、2年と少し経つ。

 その間、高瀬は何度もここへと足を運んできた。

 それは彼らの生活の様子を確かめる為でもあったが、何より、ここへ来る事で高瀬は生きる意味を見出せた。

 保護者面して、彼らを守ってやっている気になっているだけかもしれない。

 だが、大樹の無垢さに癒され、大沢の寛大さに甘え、そして千里との罵り合いで鋭気を養う。

 特殊な仕事に追われる中、ここには日常があった。自然体でいられる自分がいた。

 あるがままの自分を受け入れてくれる彼らを守る事、それが今の高瀬を「生」に繋ぎ止めていると言っても過言ではない。

 高瀬はソファーの上で胡坐をかくと、庭からキッチンへと目を向けた。

 そこでは勝手がわからず、闇雲に食器棚を引っ掻き回している千里の姿がある。

 いつの間にか自分と変わらぬ背丈となり、高瀬が引いた小さな手は、酒に伸ばす程になった。


──ったく。生意気なんだよ。


 心の中で悪態を吐きながらも、その目はまんざらでもなさげだ。

 父親とはいかなくとも、弟の成長を喜ぶ兄のようでもある。

 高瀬は、ぶつぶつと文句を言いながらグラスを探している千里の背中をぼんやりと眺めながら、幼かった頃の千里の姿を思い返していた。

 焼けた肌に闇色の瞳と髪。整った顔はいつも不機嫌そうで愛想が無く、痩せた小さな身体に半ズボン、白いサファリシャツが定番で、当時はビーチサンダルを年中履いていた。


──あれ?なんだ、あんま変わんねえじゃん。


 高瀬は独り苦笑した。

 確かに、今とそう変わっていないのかもしれない。

 変わったのは身長と、がっくりと落ちた視力。そして、高瀬に勝るとも劣らぬ程に磨きが掛かった口の悪さだろうか。

 高瀬自身、これ程までに千里の口から悪口雑言が吐かれるなど、当時は予想だにしなかった。

 何しろ、出会った頃の千里は、人形のように全く口を利かなかったのだから。


 千里は孤児だった。

 いや、孤児となったと言った方が正しいだろう。

 今から12年前、まだ高瀬が派出所の巡査だった頃。

 燃え盛る炎の中で、高瀬は千里と出会った。

 それは異様な光景だった。

 地獄の業火の如く、熱く、そして激しく荒れ狂う炎に焼かれる家の中、既に息絶えた両親の傍で、当時6歳だった千里は座っていた。

 泣き叫ぶ事もなく、消防車の到着を待ちきれずに飛び込んで来た高瀬に気付いても、助けを求める事すらせず、渦巻く炎の中、ただ黙って両親の骸を眺めていたのだ。

 そんな千里に自分の制服の上着を被せると、高瀬は、ぼんやりと座り込む千里の眼前に手を差し出し、言った。

「俺と来い!」

 掴んだ千里の手は、周りを取り囲む炎よりも熱く感じた。

 そして、その手を引き寄せ、小さな身体を抱え上げると、高瀬は窓を破り外へと出た。

 家は一晩燃え続け、残ったのは、牛何十頭をも炭火焼に出来るほどの炭化した瓦礫の山と、判別すらつかなくなった人間の燃えかすだけだった。

 病院へ運ばれた千里の首には、くっきりと鬱血の痕がついていた。絞められた痕だ。

 ベッドの上の千里は相変わらず何も語らなかったが、その痕から無理心中と推測され、事件は片付けられた。

 だが、真実はどうだったのだろう。

 千里の首を絞めたのは両親に違いない。心中を図ったと言うのも、間違いではなかっただろう。

 しかし。

 高瀬の脳裏に、あの時目にしたものがフラッシュバックとなって現れた。

 炎の中、仰向けに倒れていた千里の両親。

 見開かれた目。

 熱で縮れた髪。

 焼け爛れた皮膚。

 着衣に乱れは無く、出血も無ければ、凶器も転がってはいなかった。

 千里の両親は何故死んだのか──。

 火の気の無かったあの部屋に火を放ったのは──。

 炭化した遺体は多くを語らない。真相は闇の、いや炎の中だ。

 その後退院した千里は、「お巡りさん」だった高瀬に手を引かれて、高瀬自身も学生の頃に世話になった大神天海住職に引き取られ、中学を卒業するまでの約10年間、目黒にある不動寺で、高瀬の影響を色濃く受けながら育った。

 高瀬は常々思っている事がある。

 ひょっとして、千里の両親は恐れたのではないか。

 幼さゆえに隠す事を知らなかった千里の、あの能力を。

 異端だと、不吉なものだと、恐れたのではなかっただろうか。

 だから千里を──。

 そしてあの炎は──。


「──だったな」

 キッチンから、ようやく探し当てたらしいグラスとナッツを持って千里が戻ってきた。

 ソファーに浅く腰掛けると酒瓶を取り、自分のグラスと高瀬のぐい飲みに酒を注ぐ。

「悪い、聞いてなかった。何だって?」

 我に返った高瀬は決まり悪そうに頭を掻くと、ぐい飲みに手を伸ばした。

「あの女、マジでそっくりだったって言ったんだ。顔は、だけどな」

「ああ……」

 また一口酒を飲むと、高瀬は続けた。

「俺も、T大で見た時は正直ビビったな」

「でも、『彼女』はあんなじゃなかったろ」

「そうだな。『優香』はあんなじゃなかった」

 高瀬がそう同意すると、千里がクスリと笑った。

 その途端、高瀬の片眉がピクリと上がる。何しろ、千里が笑う事は珍しく、たまに笑ったところで、何かを企んでいるようにしか見えないからだ。

「なんだよ」

「いや。『なかった』って、過去形で言うから」

 千里は、ギロリと自分を睨んでいる高瀬に「悪い悪い」とでも言うように片手を上げると、眼鏡の上からちらりと高瀬を見た。

 しかし、本当に悪いなどと思っている筈が無い。その証拠に、まだ千里の口の端は意地悪く上がっていた。

「まあ……」

 言いながら高瀬は掌で額を覆うと、こめかみを揉んだ。自然と溜息が漏れる。

「8年……経ったからな。でも……」

 こめかみを揉んだ指先が、皮脂で光っていた。それをスラックスに擦り付けると、膝の上で握り締めた。

「まだ整理がつかん。いや……、つける訳にいかねぇんだ。これは俺が」

「俺が背負い続ける十字架だ。とか言うんじゃねぇだろうな」

 高瀬の言葉を遮った千里は、ソファーの背に腕を掛け、ふんぞり返って高瀬を睨んでいた。

「ほう。良く分かったな」

「ふざけんなよ。なんでもかんでも自分の所為にすんの、アンタの悪い癖だぜ」

「千里」

「なんでそうなんだ」

「なあ、千里」

「あれはアンタの所為じゃ──」

 千里は高瀬を無視して話し続けている。聞け、という事なのだろう。

 高瀬は黙って目を閉じ、大きく息を吐いた。自分自身に「落ち着け」と言い聞かせるように。

「この話はやめよう、千里」

 千里が何を言いたいのか、高瀬には良く分かっていた。

 もう忘れろ、アンタは悪くない。そう言いたいのだろう。

 だが、自分がやったのは人殺しに変わりないのだ。

 罪無き人──愛する女の命をその手で奪い、あれは事故だったと自分を赦す事など、高瀬には出来なかった。

「あのなあ」

 自分と対照的に声を荒げる千里を「それより」と制すると、高瀬は続けた。

「ちょっと、オマエに聞きたい事があるんだ」

 千里はコーヒーテーブルに足を投げ出すとそっぽを向いた。グラスとぐい飲みがガチャリと音を立て、酒が揺れる。

 不貞腐れているのだ。

 高瀬も人の事は言えないが、千里は気が短い。

 その上、気に入らなければそれをストレートに態度に表し、聞く耳すら持たない。自分勝手で我儘なのである。

 しかし、その辺は高瀬も同類である。そ知らぬ顔で切り出した。

「長谷川英明って知ってるか」

「知らねえな」

「ちょっとは考えろよ」

「知らねえって」

 まるで取調べ中の刑事とチンピラである。目の前にカツ丼でもあれば、まさに刑事ドラマに出てくる取調室。と言った様相だ。

「あのな……。そいつ、オマエの学校の生徒なんだぜ?」

「知るかよ」

「千里……オマエ、生徒会長じゃなかったか?」

 知らぬ存ぜぬの非協力的な参考人に、高瀬は頭を抱えた。

「柔道部の部長ですよ」

「え?」

 突然降って湧いた声に高瀬は驚いて頭を上げた。

「3年の長谷川英明でしょう?」

「そう……だけど……。あれ?花火は?」

 ソファーの直ぐ脇に立っていたのは大沢だった。

 使用済みの花火を突っ込んだ小さなバケツを軽く掲げて見せ、「終わりました」とにっこり微笑む。

「新聞屋さんに頂いた花火だったんで、ほんの少しだったんですよ。大樹はまだ落下傘で遊んでますけど」

 言われて庭を見れば、大樹が赤い傘をつけた落下傘を投げては拾い、また投げては拾って遊んでいた。

「バカだな、あいつは。蚊に食われるぞ」

「あ。そうですね。かゆみ止めを用意しておかないと」

 千里に言われて、大沢は戸棚から救急箱を取り出した。

「えーっと、これは沁みないんだったかな?」

 几帳面な彼は、数種のかゆみ止めを並べてパッケージを確認している。

 それを見た高瀬は、ふと思った事を口にした。

「貼っちまうヤツの方がいいんじゃないか?」

「パッチタイプですか」

「塗り薬じゃまた上から掻いちまうだろ。その手で目でも擦ったら、またひと騒動だぜ。なあ、千里」

「言えてるな」

 かゆみ止めを塗ったところで、直ぐにかゆみが引くわけではない。百発百中の確率で、大樹は患部を掻き毟るだろう。

 それに、かゆみ止めにはメントールが配合されている。それが目に入ればどうなるか、想像に難くない。

「そうですね。確かまだ2,3枚残ってたはず……」

 傍から見ると、年季の入った夫婦と小舅のような会話である。

 大沢は素直に薬箱を検め始めたが、「ちょっと待てよ」と言う高瀬の声に手を止めた。

「剥がす時痛えかな」

「剥がす時……ですか」

 振り返る大沢に神妙な顔を向けると、高瀬は「おう」と眉を顰めた。

「こう、ビリッ!とさ、毟れるだろ?」

「アンタみてえにごうごう毛が生えてねえから心配ねえよ」

「誰がごうごう生えてんだよ!」

 千里が間髪いれずに突っ込めば、高瀬も間を置かずに突っかかる。

「アンタだよ。クソゴリラ」

「なんだとう!オマエだってゴッソリ生えてんだろうが!」

「ハハ……ねえよ!」

 千里と高瀬の会話の殆どは「キャッチボール」等と言ったレベルではなく、「剛速球のぶつけ合い」だ。

 とは言え、お互いそれを楽しんでもいるのだが。

 高瀬はフフンと鼻でせせら笑うと両手を構え、コーヒーテーブルを飛び越え千里に躍り掛かった。

「確かめてやる!」

「やめろバカッ!どこ確かめんだ!ジッパー壊れるだろうが!」

「やかましい!神妙にお縄を頂戴しろい!」

 ぎゃあぎゃあと騒ぎながらソファーの上で揉み合う2人を無視して、大沢は薬箱を検めていたが、ようやく目当てのかゆみ止めを見つけたらしい。

「あ、あった。これだ」

 そう言うと、薬箱の底から皺のよったシートを引っ張り出し、ひらひらさせた。

「どうやらこの間実家から持ってきた薬を補充する時に、箱を捨てたみたいですね」

 大沢の実家は、都内でも支店を多く持つ有名ドラックストアである。

 月に1,2度里帰りする際に、父親と薬剤師でもある兄が手土産代わりに持たせるのが、商品でもある薬であった。

 普通であれば、食品などを持たせるものなのであろうが、大沢家にはその様な気を回す母親がいない。

 その為、家を出るまでは大沢が一家の主夫であったのだ。彼の料理を始めとする家事の腕は、その際に磨かれたらしい。

「お2人とも、埃が立ちますよ」

 未だソファーの上でバタバタやっている2人に大沢がそう言った時、床に転げ落ちていた高瀬の携帯が、点滅しながら刑事ドラマのテーマを奏でた。

「電話だ電話!早く出ろ、バカヤロー!」

「んがっ!」

 千里にソファーから蹴り落とされると、高瀬は腰を摩りながら携帯を拾い上げた。

「てててて……。あー、高瀬」

『柴田です』

「柴田?知らんな」

 高瀬は完全にはだけたシャツを直しもせずにソファーへ腰を下ろすと、乱れた髪をかき上げた。

『……そーいう事言うと、壁に貼ってある松田優作のポスターに、油性マジックで鼻毛書いちゃいますよ』

 対策室の壁には、今は亡き名優、松田優作の大きなポスターが貼ってある。高瀬が男の中の男、己の目標、神と崇めている男のポスター。高瀬にとっての御神体だ。

 柴田はその神の鼻にアホ毛を描こうと言うのである。

 高瀬のこめかみに青々とした血管が浮き上がった。

「ほほう。随分と強気だな」

『ふっふっふ。電話ですからね。拳骨も膝蹴りも、鼻フックも出来ないでしょう』

 鼻フックとは、ピースサインの指を逆手にして相手の鼻に突っ込み、思いきり上へと引き上げて痛みとともに強烈なまでの羞恥心を与えると言う、卑劣極まりない技である。

「フーン。ま、来週の庁内報を楽しみにしてるんだな。解剖室で白目剥いたバカの写真が一面を飾るだろうよ」

 高瀬がそう言ってフフンと鼻で笑うと、一瞬の沈黙の後、柴田が情けない声を上げた。

一気に形勢逆転である。

『ゴメンなさい……。すみませんでした。お許し下さい、王様。下僕の分際で生意気でした。それから、ジーパン刑事バンザイ』

「フン」

 柴田の王様、独裁者高瀬が偉そうに脚を組んでソファーにもたれかかると、電話口でズルズルと何かを啜る、耳障りな音が聞こえた。

「食事中か」

 租借する音に顔を顰めつつ聞く高瀬に、柴田は「はい」と答える。

『高瀬さんは、お食事済まされたんですか』

「おう」

『ち……因みに何を?』

「えーっとな。麻婆茄子だろ、中華スープだろ、それから干し鮑と青梗菜のオイスターソース煮……だっけ?それと、おぼろ豆腐のサラダ。デザートにスイカ食って、今ナッツ摘みながら冷酒飲んでるとこだ」

 ごくり。と喉を鳴らす柴田に、高瀬は勝ち誇ったように本日の献立を羅列した。

『……いいですね』

「だろ」

『僕なんかカップ麺ですよ、カップ麺』

「あっそ」

『少しは同情して下さいよう』

「どうせ真っ直ぐ帰ったってカップ麺だろ」

『う』

 柴田に対する高瀬は、これでもかと言うほどに遠慮が無い。独身で彼女もいない柴田の寂しい食生活を、ズバッと切って捨てた。

「当たりかよ」

『いいんだ、いいんだ。どうせ僕なんか、カップ麺やコンビニのから揚げがお似合いなんだ。たまの外食って言ったって牛丼かファーストフードで──』

 いじけるだけならまだしも、年寄りのようにグチグチと愚痴を零し出す柴田に、高瀬は携帯を耳から離した。そのまま暫く放っておくと「もしもーし」と高瀬を呼ぶ声が聞こえた。

『高瀬さーん?聞いてますう?』

「聞いてねえよ。大体何の用だ。鬱陶しい」

『酷いなあ。青梅署の山根さんから初動捜査の資料が届いたから連絡したんですよ』

「ふーん。じゃ帰れ」

『……いいですよもう』

 柴田は溜息混じりにそう言うと、上司の冷たい態度に、再びグチグチと零し始めた。

『どうせ帰ったところで1人だし?寝るだけだし?明日も早いのに起こしてくれる人もいないし?はーあ。虚しいなあ』

「ウザ……」

『そんな訳で今日は仮眠室に泊まります』

「寝小便すんなよ」

『しませんって!』

「ま。さっさと寝るんだな。明日、なんか朝飯持ってってやるよ」

『え?』

「朝飯。なんでもいいだろ」

『はい!うわー、なんだか今夜の高瀬さん、やっさしいぃー。義彦感激』

「気色の悪い言い方すんな!俺はいつだって優しいわ!さっさとクソして寝ろ!」

『ハイハイ。それじゃ、お疲れ様でした!おやすみなさい』

 クスクスと楽しげな笑い声を残して切れた携帯を乱暴に折り畳むと、高瀬は「おおそうだ!」と薬箱をしまっている大沢を振り返った。

「大沢君。さっきの話だが」

「はい」

「長谷川を知ってるのか」

「ええ。生徒会が主催する部会に必ず出て来ましたし」

「だとよ、千里」

 高瀬が呆れたように振り返ると、千里は腕を組み、「知るか」と言わんばかりにぷいっと明後日の方向を向いた。

「ンなの、イチイチ覚えてねえよ」

「でしょうね。大神さん、いつも寝てますから」

「何やってんだ、オマエ」

 人を注意出来るような学生時代を送っている訳でもないと言うのに、それをすっかり棚上げすると、高瀬は白い目で千里を見た。

「うっせぇな。退屈なんだよ」

 このやる気の欠片も無いのが生徒会長をしているのだから、XX学園の質も疑わしい。

 もっとも、そのフォローは全て有能な女房役である大沢がやっているのであろう。何しろ千里は面倒臭い事は一切やらないのだ。痩せた体に似合わぬほど重い腰を上げるとすれば、それだけのメリットが自分にあると確信した時ぐらいだ。

「オマエってヤツは……」

「それで、その長谷川がどうかしたんですか?」

 再び脱線しかかる話を大沢が戻すと、高瀬は頷いた。

「いや、何やら行方不明らしくてな。それに、ひょっとしたら俺の事案にも関係あるかもしれない」

「アンタの事案って、御岳山?」

「よく知ってるな、千里」

「ニュースでやってたからな。でも、指名手配中の男とその仲間2人が遺体で発見されたってぐらいだ。後はコメンテーターがまたテキトーな事言ってやがったっけな」

「ほう。そりゃまたなんて?」

「金銭上のトラブル。何かっていやコレだからな、あのオッサン。そうじゃなきゃ痴情の縺れとか言いやがんだ」

 千里がそう言うのも無理は無い。そのコメンテーターは、必要以上に感情的なコメントをする事で視聴者の人気を得ているに過ぎず、理論的な推理やコメントを披露したためしが無いのだ。

 しかし、高瀬はそんないい加減なマスコミの報道を気に入ったらしい。

「まあ、好都合だな」

 そう言ってニヤリと口の端を上げた。

「実際どうなんだ」

「お?興味あるのかね、千里君」

「何が『あるのかね』だ」

「オマエもいい加減将来設計を立てる時期だろう。どうだ、刑事もいいぞ?」

「やだね」

 肩を叩く高瀬の手を払うと、千里はあっさりと言ってのけた。

「命(タマ)はって安月給じゃ洒落にならん」

「悪かったな、安月給で」

「それに、無駄に長生きしても食って行ける位の貯えもあるし?」

「まったく。ガキの分際で株なんか」

 高瀬が一番気に入らないのがこれである。

 千里たち3人は独立して生活しているが、単に彼らだけで生活していると言う意味の独立ではなく、経済的にも既に独立しているのだ。

 その収入源の最たるものが株であり、本人達は詳しく語らないが、その資産は最早億の単位となっているらしい。

 高瀬があくせく働いて薄給を得ていると言うのに、高校生の千里たちが、高瀬が一生かかっても手に出来ない金を手にし、更に数百、数千の単位でその金を動かしているのだから、世の中不公平だ。

「あんなもん、バクチと同じじゃないか」

「バクチじゃねえよ。それに、今は小学生だってやってるぜ?ま、アンタみたいな経済音痴にゃムリだろうけど、少しはテレビ欄以外も読むんだな」

「読んでるよ」

「どうせ芸能欄だろ」

「いやいや」

 頭を振り、それだけじゃないぞ!と高瀬は胸を張ったが、実際は芸能欄より低俗だった。

「週刊誌の広告だ。見出しが微妙にエロっぽくていいんだよな」

「バカじゃねえのか」

「そう言えば大神さん、あれは買ったんですか」

「ライブ製薬か」

「ええ」

「いや……。どうすっかな」

 千里は本気で迷っているようだ。拳で顎を摩りながら考え込んでいる。

「ライブ製薬?」

 きょとんとしてそう聞いたのは、言うまでも無く高瀬である。

 無駄に健康で、風邪の1つもひかない高瀬の耳には、とんと縁の無い社名であった。

「ここ数年で急成長を遂げた製薬会社です。サプリメントなんかでも有名ですね」

「へー」

「スポーツ選手の育成にも積極的ですし、最近では新薬の開発に着手したと言う事で、投資家の間で話題になってます」

「フーン」

「そう言えば、長谷川英明のスポンサーとして、ライブ製薬が名乗りを上げたって言う噂も……」

「ホントかよ」

 興味無さ気に相槌を打っていた高瀬だったが、長谷川の名が出た途端に食いついて来た。

 結局は経済音痴の刑事バカなのだ。

「まあ、噂ですけど……あ、大樹」

 ごとり。と言う音に、高瀬へ向けていた体をキッチンへと向けた大沢は、大きなダイニングチェアによじ登っている大樹の姿を見つけた。

「どうしたの」

「アイスー」

 この家の冷蔵庫は古いタイプの3ドアで、冷凍庫が一番上に配置されている。

 そのままでは到底手の届かない大樹は、アイス欲しさにあの大きな椅子を引き摺るように抱え、冷蔵庫前まで持って行ったようだ。

「さっきスイカ食べたばっかりなのに」

「食べたいんだもん」

 ダイニングチェアの上に立ったまま、ぽそりとそう言うと、大樹は駄目押しとばかりに上目で大沢を見た。

「……ダメ?」

 大樹のこれに敵う者はいない。いや、敵うとすれば千里ぐらいか。

 高瀬など、ひょっとしたら計算なのではないか?と、ドキリとする事すらありながらも敵わずにいる。それ程に、大樹の上目おねだり攻撃は効果抜群だ。

 そしてそれは大沢も例外ではない。いや。怖くて高瀬など口には出せないが、この大沢にこそ猛烈な効果と実績を上げているのは事実なのである。今回も作戦は見事功を奏した。

「しょうがないなあ。少しだけだよ?」

「うん!」

 大沢に鼻先をちょんと摘まれたまま、大樹は嬉しそうに約束をする。

 そんな大樹の頭をくしゃりと撫でると、大沢はダイニングチェアから大樹を下ろした。

「じゃあ、手を洗っておいで」

「はーい」

 素直に返事をすると、大樹はパタパタと洗面所へ走っていった。

「甘い」

「甘いな」

 そう声を揃えたのは、言うまでも無く、ソファーに並んで座っていた千里と高瀬だった。

 同じ様に腕を組み、脚を組み、ソファーの背に踏ん反り返っている。

 しかしその声は、この世の王様的態度とは裏腹なヒソヒソ声だ。

「要求したのが俺だったら、蓋の裏についたヤツだって舐めさせねえぜ、アイツ」

「うむ。だろうな」

「気に食わん」

「千里……。そんなにアイスが食いたかったのか」

 真顔で言う高瀬のシャツを静かに掴むと、千里はもう一方の手を握り振り上げた。

「冗談だ」

「真顔で言うな」

「洗ってきたよーう。あれ……。またケンカ……」

 リビングに戻ってきた大樹は、ソファーの2人を見るなり眉を下げた。

 千里の、高瀬のシャツを掴んでいる手と振り上げられた拳を交互に見ている。

「してねえよ」

 そう言って高瀬のシャツから手を離す千里の前で、大樹は人差し指をビシリ!と差し出した。

「ダメなんだよう。仲良くしなくちゃ」

「してねえっつってんだろ!」

「きゃんっ!」

 千里に怒鳴られると、大樹は頭を抱え、素早く大沢の背後に隠れた。ウッドチップの中に頭を突っ込んで震えているハムスターのようである。

 そんな大樹の脇下に手を差し入れダイニングチェアに座らせると、大沢はポンポンと大樹の小さな頭を優しく叩いた。

 テーブルの上には、童話に出てくるような銀の脚付きの器にバニラ味のアイスクリームとウエハースが盛り付けられており、上からはチョコソースがトロリとかけられている。

 それを見た途端、大樹の顔に笑顔が戻った。

 これが漫画ならば、背後に小花が散り、効果音に「ぱああっ」などと、ハートマークを添えて書かれるほどである。

「この器に入ってる分だけだからね」

「うん」

「寝る前にちゃんと歯磨きするんだよ」

「うんうん」

 大樹の目は既にアイスに釘付けだ。スプーンを上向きに持ったまま、カクカクと薬屋の前のカエル人形のように頭を振っている。

「た……食べていい?」

 どうやら「よし」の一声を待っていたようだ。

「うん──あ、ちょっと待って」

 大沢のフェイントに、大樹の体は前のめりのまま固まり、大沢はそんな大樹の首にタオルをかけ始めた。

 ぼたぼたと零すであろう事を予想しての措置である。

「これでよし。さあ、どうぞ」

「いただきまーす」

「……何か?」

「いや」

「別に……」

 大樹からソファーへと移った大沢の視線にぶつかると、2人はごにょごにょと口ごもり、そそくさと目を逸らした。

「で?」

「は?」

 何の前振りも無く聞かれ、高瀬は面食らった。

「長谷川ってのが行方不明って話だよ」

「ああ。ついつい脱線しちまうな」

 ここに来ると、良くも悪くもどっぷりと家庭と言うものに浸かってしまう。

 高瀬はポリポリと頬を掻くと、本題に戻った。

「ええっと、ニノマエワカル。数字のイチとニで、ニノマエワカルってんだが、こっちは知ってるか? こいつもオマエんトコの生徒だが」

「知らん」

「……オマエ、よくリコールされねえな」

「代議士の一氏の子息でしょう? クラスは違いますが、いろんな意味で有名ですよ。まあ、その殆どが悪評ですが。その彼が何か」

 千里に代わって答える大沢に、高瀬は「うむ」と頷いた。

「その一二が今日、遺体で発見された」

「ふ──ん」

 緊張感漂うはずのリビングに千里の間延びした声が響き、気まずい沈黙がその場を覆った。

「あの。すみません、高瀬さん」

 そう言うと大沢は羞恥に顔を背け、高瀬は額を摩り、こめかみを揉んだ。ふっふと無理矢理笑ってみせる口元が痙攣している。

「いや、いいんだ大沢君。コイツがバカなのは良く判ってる」

「誰がバカだ、誰が」

「オメーだよ」

 言って野良犬を払うような仕草をすると、高瀬は続けた。

「まあ、ひょっとすると、こいつも俺のヤマにも関係あるかもしれないんだ。悪いが長谷川英明が立ち寄りそうな所とか、親しい友人とか、何でもいいんだが、何かあったら……」

「はいはい!ボク知ってるぅー」

 高瀬の言葉を遮り、ぴかぴかの1年生よろしく手を挙げたのは、他でもない大樹である。

 その場にいた全員が「鳩に豆鉄砲」な表情で、口の周りにアイスクリームで白髭を作っている大樹を見た。高瀬は勿論、他の2人も、まさか大樹が情報を持っているとは思いもよらなかったからだ。

「大樹、知ってるの?」

「うん」

 大樹は頷くと、再び目の前のアイスクリームへと向き直った。

 ウエハースをざくりと齧ると、しょりしょりと音を立てて租借している。

「えーっと、何を知ってるんだ?大樹?」

 あれこれ追求したいところだが、一度に聞けば、大樹は必ずパニックになる。

 高瀬は幼児にするように、少しずつ大樹に質問する事にした。

「うーんとねえ、長谷川君のお友達」

「ほう。友達か。で? なんてヤツだ?」

「名前?」

「そうだ。名前」

 まるでポップキャンディーのようにしゃぶっていたスプーンを、ちゅぽん! と口から出す大樹に、皆の目が集中した。

「ええっとねぇ、ゆーや君」

「ユーヤ?」

「うん。ふじたゆーや君」

 大樹の口から出た名前に、大沢と千里は顔を見合わせ、そしてまた大樹を見た。

「藤田憂夜って、あの?」

「藤田?」

「うん」

「知り合いか?」

 目をぱちくりさせている2人の様子に、高瀬はたまらず大沢に質した。

「ええ。同じクラスの生徒です。ご存知の通り、ウチの学園の生徒は有名企業や政治家、文化人等の子息や子女が多く、極普通のサラリーマン家庭の生徒と言うのは一握りです」

 頷く高瀬に、「その代わり優秀ですが」と付け加えてから、大沢は続けた。

「で、藤田憂夜と言うのも、その一握りの内の1人なんです」

「特徴は?」

「そうですね……、割と小柄で童顔。屈託が無く、明るくて人好きのするタイプでしょうか。でも、どちらかと言うと『広く浅く』と言ったタイプで、そんな親しい風には……」

「なかよしだよーう」

「そうなの?」

 大樹は「うん」と言いながら、名残惜しそうに空になった器を眺めている。まだ食べ足りないようだ。

 しかし、大沢に仲良しだと思う理由について聞かれると、ようやくその顔を上げた。

「だってねえ。おんなじ歌、歌うんだもん」

「それくらい、同年代なら当然じゃねぇかよ」

 それでお友達なら、人付き合いをしない千里にも数万人のお友達である。と言っても、千里が人前で歌を歌うなど、そうそう有り得ない。

 何しろ、のび太の心の友、剛田武も真っ青の殺人的音痴だ。

 それでも褒められるのは、本人がそれを理解していて、リサイタルを開こうなどと思わない点だった。

「違うの。だぁれも知らない歌だよ。だからね、ぼくがね、ゆーや君と長谷川君、おんなじ歌、歌ってるねーって言ったらね、ゆーや君がね、『俺たち同じ恐竜だから』って」

「恐竜……? んだよ、それ」

「あ……」

「どうした、大沢君」

 何か思い当たる事があったらしい。大沢は、高瀬に向き直ると言った。

「恐竜じゃなくて、境遇ですよ。長谷川も、一握りの生徒の1人なんです」

「さっき言ってたサラリーマン家庭のか?」

「ええ。でも、彼の場合はただの特別枠入学ではなく、スポーツ特待生で……」

「特別枠と言うと?」

「成績やスポーツ等で特に優秀な生徒の、学費を免除するシステムがあるんです。つまり……」

「千里と同じ、奨学生ってやつか」

「はい。長谷川は、オリンピック出場も期待されている選手ですから」

「だからライブ製薬も目をつけたんだろ。未来のオリンピック選手のスポンサーならメリットもデカイからな」

 千里の説明によると、スポーツ選手のスポンサーになると言う事は、株と同じく「投資」であると言う事らしい。つまり、リスクも大きい。

 しかし、若く将来有望な選手となれば話は違い、投資した選手が大会やオリンピックに出場した場合の経済効果は計り知れず、その上、株主や消費者に対して「見える成果」を提供する事も可能になり、企業自体のイメージアップにも繋がると言うのだ。

「ううむ」

 高瀬は唸った。

 スポンサーメリットについては理解したものの、それ以外何1つ分らない。

 新しく知り得たのは、長谷川が柔道部の主将で、スポンサーが付くほどの実力があり、同じサラリーマンの父を持つユーヤなる生徒と親しくしていたらしいと言う事ぐらいだ。

 そして──、歌。

「で、同じ歌知ってるっての、なんか関係あんのか」

「大樹、どんな歌だったか、覚えてる?」

「うーん……」

 千里と大沢の質問に、大樹は暫し考え込むと、亀のように首を竦め、ぽそぽそと自信なさ気な声で歌い始めた。

「いけぇいけぇ……。ふぅじょぉ……なぁ……、てぇきをうてぇぇ……」

 途端に、身を乗り出していた三人の肩ががっくりと落ちる。

 千里に至っては、不快感をあからさまに顔に出し、ハッと短くも盛大な溜息をついて、どさりとソファーの背にもたれた。

「そりゃ『ぶり戦』の歌だろうがよ」

 『ぶり戦』とは、日曜の朝に放送されている、大樹が好きな戦隊シリーズ、『ぶりぶり戦隊・トイレンジャー』の事である。

 大樹は肩を竦めると、ぺろりと小さな舌を出した。

「えへ。ゴメンナサイ。忘れちゃった……」

「使えねぇな」

「大神さん。一度や二度聞いたくらいじゃ、詩までは憶えられませんよ」

 大沢に窘められ、機嫌を損ねたらしい。千里は「ケッ」と言い捨てるとそっぽを向いてしまった。

「とりあえず、そのユーヤとか言うヤツに任意で聴取してみるように、明日にでも青梅署の刑事にも連絡しとくかな」

 言いながらすっかり疲労した首をゴリゴリ回していると、大樹が高瀬のはだけたシャツの裾を引いた。大きな目で高瀬を見上げている。

「ん?なんだ、大樹」

「ゲーム。ゲームしようよう」

「ああ、ゲームか」

「うん」

 そもそも今日千里の家へ来たのは、大樹からのメールがあったからだ。

 それに、夏休み前にここへ来た際に、次こそは一緒にゲームをしようと約束もしていた。

「そうだなあ……」

 高瀬はちらりと腕時計を見た。

「げ。もう12時じゃないか」

「そうですよ。大樹、早くお風呂に入らなきゃ。眠いでしょ?」

「おお、そうだな。花火の臭いもするし、入って来いよ」

 事実、大樹の口の周りからは甘い匂いがするものの、柔らかな髪からは花火の火薬の匂いがしている。

 大樹はその頭をブルブルと振った。

「や。ボク、高瀬さんとゲームするもん」

「大樹、高瀬さんは疲れてるんだから」

「やだやだ!遊びたい!遊ぶんだもん!前に約束してるもん!」

「参ったな」

 自分に懐いている大樹である。高瀬も遊んでやりたいのはヤマヤマであったが、いかんせん自分の匂いも流石に気になっている上、疲労はピークに達していた。

「本当はもう眠いんですよ。それでぐずってるんです」

「ねむくないも……」

 そう更に抵抗しようとした時、大樹の頭上に「コラ」と言う声とともに、拳骨が落ちてきた。

「ぎゃんっ!」

「つべこべ言ってねえで、入って来いつってんだろ!テメーの無駄にデカイ目もショボついてんじゃねえかよ!いつまでもウダウダ言ってやがると……」

「大神さん」

 尚も続けようとする千里の小言は大沢の一言で止められたものの、大樹の目には既に大粒の涙が浮かんでいた。

「ふえ……」

 超音波のような泣き声が響き渡る……その一歩手前。高瀬がそれを止めた。

「よし、大樹。久し振りに俺と入るか」

 ゲームに付き合う気力は無いが、風呂に入りながら遊んでやろうと言うのだ。これなら一石二鳥である。

「高瀬さんと?」

「おう」

 じゅるじゅるっと音を立てて鼻をすすると、大樹は大きく頷いた。

「入るっ!」

「すみません、高瀬さん。お疲れなのに」

「構わんさ。おい、大樹。何かおもちゃ持って来い」

「らじゃー!」

 大樹がバタバタリビングから出て行くと、舌打ちをした千里がドサリとソファーに腰を下ろした。

「ったく。大概、アンタも甘ぇんだよ」

「そうか?」

「甘い!この際ハッキリ言っとくが、お前ら2人が甘やかすから大樹が……」

「高瀬さーん」

「うん?どうした?」

「これっ、これっ!見てっ」

 嬉しそうに大樹が持ってきたのは、自分の体の半分ほどもある大きなウォーターガン。有体に言えば水鉄砲である。

 ブルーの半透明のボディーの彼方此方に黄色のパーツが取り付けられており、ビジュアル的には水鉄砲と言うよりレーザーガンのようだ。サイドには「BURIBURI WASH GUN」と書かれている。

 どうやら件の戦隊物のキャラクターグッズらしい。

「おおっ。カッコイイな。新しい武器か?」

「うん!あのねっ、昨日ねっ、お祭りで大神さんが買ってくれたの」

「ほー……う。千里がねえ」

「な……なんだよ」

 高瀬に横目で見られた千里は、ソファーの上にだらしなく伸ばしていた体を起こし、身構えた。うろたえている。

「オマエも相当甘いんじゃねえのか?」

「っせえな!さっさと入れ!バカども!」

 眉尻を上げ、怒鳴り散らしながら、千里はソファーのクッションを次々と投げてくる。

 高瀬はそんな千里に「へいへい」と軽く応じながらそれらを受け止めると大沢に渡し、すでにパンツ姿になっている大樹に向き直った。

「よし!行くぞ、大樹!不浄の敵をやっつけろー!」

「おー!」

「あ、高瀬さん。ワイシャツ出しておいて下さいね。ボタンつけちゃいますから」

「おうっ」

 ぺたぺた、そしてどすどすと言う足音が廊下を移動していく。

 それが途絶えると、クッションを整えていた大沢が大きな溜息に振り返った。

「……大神さん?」

 そこには何か思い詰めたかのような表情の千里がいた。握り締めた拳の親指で下唇をなぞり宙を見詰めている。

「どうしたんです?」

「悪い予感がする」

 そう言うと、千里はぬるくなった酒を瓶のまま口にした。ゴポゴポと音を立て、酒瓶の酒はどんどん千里の中へと流れていく。

 そして空になった瓶を大沢に放り投げると、そのままソファーに横になってしまった。

「全くもう。そこで寝ないで下さいよ」

 そう言いつつも、大沢は千里にブランケットをかけてやる。

 そのブランケットを鼻先まで引き上げると、千里は溜息混じりに呟いた。

「関わるなってのは、アイツにはムリだよな。何せ──バカだ」

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