第13話

 高井戸駅に着くと21時を回っていた。予想していた通り、小一時間掛かったことになる。

「ゲ。急がなきゃな」

 早足で駅を出、環八を中央自動車道に向かって歩く。

 蛍光灯の灯りに集まる蛾のように、コンビニ前に屯する少年達が投げ出した足をまたぎ、直ぐ隣の牛丼屋から漏れる匂いに鼻をひくつかせる。

「腹減ったなあ」

 牛丼屋に入りたいと訴える腹の虫を宥め賺し、高瀬はポケットに突っ込んだ手にジャケットを引っ掛け、先を急いだ。

 交番を過ぎたら左手に見える小さな公園脇の道を入り、そこから暫く行けば目的地だ。

 だが、交番で巡査に挨拶した後、公園の脇の通りに入ったところで、高瀬は住宅街の細く入り組んだ道をグルグルと回りだした。

 右に折れ、左に折れ、右、左、そしてまた右。

 そんな不可解な行動を取る高瀬の10メートル程後方の街灯の下で、息を切らせている怪しげな女がいた。水野遠子である。


──バカな女。街灯の下に潜んでどうすんだか。しかもあんな殺気立ってちゃ尾行になんねえってのに、わっかんねえんだなあ。


 曲がり角のミラーに映っている遠子を呆れたように見遣ると、高瀬は再び歩き出した。

 当の遠子は、高瀬に尾行がバレているなど露ほども知らず、夜道だというのに闇色のサングラスを掛け、深々と帽子を被り、未だぜえぜえと喘ぎながら様子を窺っている。

「あいつ……。高井戸まで来て……ハア……、何やってんのよ。ひょっとして、迷子?」

 そう言えば高瀬は交番で何やら話していたではないか。

「フフン。バカっぽいもんね、あいつ。ありえるわ。あ、動いた」

 自分のバカさ加減を棚に上げ、数回大きく深呼吸して呼吸を整えると、遠子は高瀬を追った。

 しかし。

「あっ!あれっ?」

 路地を曲がった途端、遠子は鶏のようにキョロキョロと辺りを見回し、ガックリと肩を落とした。

「み……見失った……。なんで?」

 通りにあるのは住宅ばかりで、横道はない。

 遠子はガリガリと頭を掻くと、余りの悔しさに地団太を踏んだが、ぴたりとその動きを止めると、爪を噛み、檻の中の熊のようにその場を右往左往し出した。

「ちょっと待って、遠子。この辺の家のどれかに入ったのかもしれないわ。他人の敷地にいつまでも潜んでられないもの。いくらバカでも一応刑事だし、それくらい……」

 そう言うと遠子は腹を決めた。

「張り込んでやる。忍者じゃあるまいし、消えるわけ無いんだから。絶対、どこかこの辺の家に入ったのよ。とっ捕まえて、秘密を吐かせてやる」

 ぐっと拳を握り締め、顔を上げた遠子の目に、目の前の家の門柱が目に入った。

 よくある石造りの門柱に、表札が3つ掛かっている。

 上から横書きで「大神」「大沢」。そして3つ目の表札を見た遠子の目尻が下がった。

 それは蒲鉾板にマジックで「だいき」と子供の字で書かれており、上の2つに対し、約30度斜めに傾いていた。

「カァワイイ~。だいきかあ。男の子ね」

 2世帯住宅には思えない大きさの家だが、そこに2組の夫婦と、孫が暮らしているに違いない。

 勝手な妄想を繰り広げると、遠子は蒲鉾板に手を伸ばした。

 すると──


 ポロリ。


 遠子が触れた途端、蒲鉾板はあっけなく門柱から外れた。

「げげ!」

 拾い上げ裏を見れば、円状にしたガムテープがくっついている。

 慌てて貼り直そうとしたものの、砂利が付着したガムテープは二度と元には戻らなかった。

「どどどど、どうしよう……」

 その時。

「いけーいけー。ふぅじょおーおなー、てぇきをうてぇー」

 突然背後から聞こえて来た歌声に遠子は飛び上がり、そのまま蒲鉾板を手に凍りついた。

「ぶりーぶりー、せんたいー、しゅつどおーだー」

 声と足音はどんどん近づいてくる。何も無かったように振舞えと自身に言い聞かせ、そのままやり過ごそうとした遠子だったが、小さな足音は直ぐ後ろで止まった。

「……ボクの」

 足音の主が、ぼそりと呟いた。涙声に近い。

「え?」

 錆付いたロボットのように、ぎこちない動きで背後を振り返る。

 そこには紙袋を抱えた少年が立っていた。見たところ、幼稚園から小学校の低学年だろうか。

 茶色い猫っ毛がふわふわしているが、それを差し引くと、身長160センチの遠子より40センチ以上は低い。

 御岳山で出会った少年もかなりの愛らしさだったが、この少年とは比べ物にならない。

 大きな目に浮かんだ涙も遠子の心を躍らせた。

「それ、ボクの」

 少年は遠子が握っている蒲鉾板を指差している。どうやら遠子が壊したのだと感付いた様子である。

「あっ、これね。落ちてたから届けようと思って。あはははは」

 乾いた笑い声を上げると、遠子は慌てて握り締めていた蒲鉾板を少年に手渡した。

 それを受け取ると、少年は愛らしい顔いっぱいに照れくさそうな笑顔を浮かべ、そうなんだと小さな頭を掻く。そしてぺこりと遠子に頭を下げた。

「お姉さん、どうもありがとう」

「いえいえ、どう致しまして」

 壊しておいてどう致しましても無いのだが、遠子は少年の調子に合わせ同じように頭を下げると、先程より近くなった少年の顔をしげしげと見た。


──やだ、ちょっと。やっぱメチャメチャ可愛いじゃないの。


 その上、御岳山の少年と違って全く擦れていない。

「あのー。ちょっと、ボク?」

「なあに?」

 遠子は少年の前にしゃがみ込むと、にっこりと笑い掛けた。

「ここんちの子よね」

「うん。お姉さん、だあれ?」

 少年はようやく、遠子が知らないお姉さんである事に気が付いたようだ。人差し指の先をぱくんと咥えると、上目で遠子をじっと見た。


──くっ、その仕草……。お姉さんのツボを刺激するわ。


 がばっと抱きしめたくなる衝動を、遠子は悶絶しながらも雀の涙ほどの理性で押さえ付ける。少年は益々不思議そうに遠子を見た。


──いけない、いけない。怖がらせちゃうわ。


 遠子はサングラスと帽子を外すと立ち上がり、片手を腰に当て、セミロングの髪をかき上げた。

 初対面の男なら確実にノックダウンさせる自身のあるポーズだ。

 初対面に限るのが悲しい所であるが。

「お姉さんは通りすがりの美人よ」

「ふうん」

 子供にも通用しないらしい。

 少年は時事ニュースでも見せられた小猿のように小首を傾げ、それっきり黙ってしまった。

「と……ところで、こんな時間に独りでどうしたの?アブナイわよ?」

 少年のリアクションに慌てた遠子は、再び少年の前にしゃがみ込むと聞いた。

「えっとねえ、おとなりにねえ、回覧板とどけに行ってたの。そしたらおばさんが、大ちゃんお菓子もって行きなさいって」

 少年は得意気に紙袋を遠子に見せる。

「イヤーン。エライのねー」

 少年の頭を何度も撫でると、遠子は両手の拳を自分の頬に当てた。所謂ぶりっ子ポーズだ。

「で、ちなみにいくつ?」

「りんごを1つとね、バナナとね、クッキーはたくさん!」

「うふ。お姉さんはお菓子の数を聞いたんじゃなくてぇ、ボクが何歳なのか聞いたの」

 袋を覗き込み中身を確かめていた少年だったが、自分の間違いを指摘されるとポッと柔らかな頬を染めた。

「なあんだ。えへ」

「うふふ。幾つ?」

「ボク、じゅうななさーい!」

「は?」

 少年の答えに遠子の目が点になった。パチパチと目を瞬かせる。

 そんな遠子に構わず、少年は繰り返した。

「17さい。3月に18さいになるの」

「まあ。オトナになりたい年頃なのね。おませさん。で、ホントは何歳なのかなー?」

 遠子が信じないのが気に入らないのだろう。少年は「ホントだよう」と唇を尖らせた。

「ボク、XX学園の3年生なんだよ?」

 XX学園と言えば、都内でも有名な良家の子息、子女が通う高校だ。

「マ……マジで?」

「うん」

「じゅ……じゅうなな……」

「うん」

 同じ返事を繰り返す少年の顔を穴が開くほどに見詰めていた遠子だったが、ゆっくりと拳を上げると、勢い良く親指を突き出した。

「グッジョブ!成長不良バンザイ!」

「ばんざーい」

 意味が分かっているのかいないのか、少年──実際は青年らしいが──も、一緒になって万歳をした。

「ねえねえ。でもなんで小さいの?」

 普通なら面と向かって聞きづらい質問にも拘らず、遠子は遠慮なく少年に質した。

 当然だが、記者としてではなく、遠子の個人的な趣味から来る興味だ。

 うーんと困ったように首を傾げる少年に構わず、遠子は憶測をベラベラと捲くし立てた。

「ひょっとして、竜神の玉を集めたら子供に戻ったとか、黒尽くめの男に薬を飲まされて、気付いたら子供になってたとか?」

「お姉さん、おたく?」

「あのね……」

「おい、大樹。何してんだ、オマエは」

 ガックリと肩を落とした遠子の頭上に、少し掠れた男の声が降ってきた。

「あ、大神さーん」

 少年に大神と呼ばれたのは、それこそ少年の言う17~8歳位の青年だった。

 痩せ型で長身、細身のブラックジーンズにTシャツ姿で雪駄を突っかけており、下半分だけにフレームのあるメガネをかけているものの、夜目にも分かるほど整った顔立ちをしている。

「……誰だアンタ」

 青年は駆け寄る少年を自分の後ろに庇うと、奥二重の鋭い目でじろりと遠子を睨み、仁王立ちになった。

「イヤ、アタシは怪しい者ではありません。単なる通りすがりの……」

「オタクか?」

 美人と続ける前に遮られた上にオタクと決め付けられ、遠子は綺麗に整えた眉尻をキリキリと上げた。

「失礼な!アタシはただ、蒲鉾板が落ちてて、それを拾ったらこの可愛らしい子が……」

「ああ、ショタコンか」

 青年は馬鹿にしたように遠子を見ると、フフンと鼻でせせら笑った。

 高瀬も失礼な男だったが、この青年も同じくらい失礼だ。と言うか、似ている。顔はさておき、だが。

 青年に高瀬の姿が重なった遠子は、次第にムカムカと腹が立ってきた。

「アタシは人を追ってるの!高瀬って男よ」

「なんだ、ストーカーかよ」

「ストーカあぁぁ?」

 語尾に必要以上に力を入れ、拳を握り締めた時だった。

「おい、千里。メシが冷めるぞ!」

 そう言ってもう1人男が現れた。聞き覚えのある声だ。

「あああっ!!」

 街灯に照らされた男の顔を指差すと、遠子は大声を上げた。

 そこにいたのが自分が追っていた刑事、高瀬文孝だったからだ。

 先程と同じスラックスにワイシャツ姿だが、ネクタイを外してシャツの裾を出し、ボタンも胸の中ほどまで開けてすっかりリラックスしている。

 高瀬は数秒ほどの間、自分を指差し唇を戦慄かせている遠子を黙って見ていたが、無精髭の伸び始めた顎に手を当てると、信じられない言葉を発した。

「誰だアンタ」

「T大前で会ったでしょうがッ!」

 高瀬の一言で遠子の僅かな理性が音を立てて崩れた。手にしていた帽子を道路に叩きつけると、高瀬のシャツの胸を掴む。

「しかも1時間前じゃないのよ!なんなのアンタ!頭悪い?!ちゃんと中身詰まってんの?!」

 言いながら、ぐいぐいとシャツを引っ張りつけると、1つ、また1つとボタンが飛び、高瀬の裸の胸が露になった。

 高瀬は女の前で胸がはだけた事に関して何の羞恥も感じないらしい。

 しかし、遠子にシャツを掴まれたまま面倒臭そうにボリボリ頭を掻くと舌打ちし、悪態を吐きだした。

「冗談に決まってんだろ。何興奮してんだ、この変態女は。バッカじゃねえの?」

「変態でバカなんだろ。なんせアンタなんかを追っかけてる位だ」

 そう口を挟んできたのは、メガネの青年、千里だった。相変わらず小馬鹿にしたような笑みを貼り付けている。

「なんかとは何だ。どうやら、まだ口の利き方を知らんようだな、千里」

 同じ様な種類の笑みを浮かべると、高瀬の手が千里のTシャツの胸倉を掴んだ。だが、千里は一向に臆する事無く、高瀬のシャツを掴み返す。

「そりゃアンタに仕込まれた程度じゃ、相当オソマツなんだろうな」

 互いの腕を交差させ、シャツを引き合って額をつき合わせている2人の間には、一触即発の気が渦巻いている。

 その凶悪極まりない気に最も反応したのが大樹少年だった。

 ふるふると肩を震わせ、大きな目に涙を浮かべると、わんわんと泣き出したのである。

「ケンカしちゃダメだよう!うわあーん」

「あーあ。泣かすなよ、オメーはよー」

 シャツを掴んでいた手を離すと、千里は白い目で高瀬を見た。完全な責任転嫁である。

「俺のせいだけじゃねえだろ」

「オレのせいだってのか」

 そう言って高瀬の言い分にケチをつけると、千里は高瀬の肩をドンと押した。

「俺は『だけじゃねえ』って言ったろーが!」

 高瀬も千里の肩を押し返す。

「ンだと、コラ!」

 再び千里が高瀬の肩を。

「やろうってのか、ああ?」

 高瀬も千里の肩を。

 終には、どすどすと無言で肩の押し合いが始まった。殆どチンピラの喧嘩である。

 そんな2人を見て、大樹の泣き声がより大きくなった。

「ふぎゃあああああっ」

「うるせえぞ、大樹!」

「大樹に当たるな、千里!」


──なに、こいつら。カンペキにアタシを無視してる。って言うか、一体どうなってんの?


 すっかり蚊帳の外となった遠子は、口をあんぐりと開けたまま、低レベルな男の押し相撲を見るより無かった。

「みんな何してるんですか?ご近所迷惑ですよ」

 母親のような台詞を吐きながら、また1人、新たな男が玄関先に現れた。

 千里と同じ位の年頃だが、千里よりも、そして高瀬よりも背が高く、優しげで落ち着いた雰囲気の青年だ。

「いや。なんでもないんだ、大沢君。な、千里」

 高瀬はそう言って青年を振り返ると、千里の伸び切ったTシャツの肩をパタパタと掃っている。

 それはまるで母親に悪戯を見つけられ、慌ててその場を取り繕っている子供のようだ。

「そうなんですか?」

 胸元を開けた白いカッターシャツに千里と同様のブラックジーンズ。その上に黒いギャルソンエプロンを身に付けた青年の姿は清潔感溢れ、流行のカフェのギャルソンよりも余程スマートで様になっている。

 高瀬はそれなりに、そして千里は遠子も認めるざるを得ないかなりの男前だが、この大沢と言う青年もそれに劣らぬ美青年だ。

 高瀬と千里が「動」なら、この青年は「静」と言ったところか。それほど対照的だった。

「あ。お客様でしたか」

 大沢青年は遠子に気付くと、爽やかな笑顔を浮かべ、軽く会釈をした。やはり高瀬や千里とは人種が違うらしい。

 つられて遠子も会釈をしようとしたが

「ちげーよ」

「客じゃない」

 と声を揃える千里と高瀬にムッとしてしまい、その機会を逃してしまった。

 だが、それが『関係ない人』であると決定付けさせてしまったようだ。

 大沢は、そうですかと言うと遠子から目を逸らし、高瀬、千里、大樹に視線を移した。

「じゃあ早く入って下さい。夕飯冷めますよ?お風呂もつかえちゃいますし」

 大沢が促すと、先程の険悪な雰囲気が一気に消え去った。

 高瀬も、うっかりしてたと言わんばかりに掌をぽんと叩く。

「おお、そうだった」

「アンタを待ってたからこんな時間になっちまったんだ。本来ウチの夜メシは6時と決まってんだからな」

「そりゃ悪かったな」

「行こうぜ。こないだ実家からいい酒が届いたんだ。アンタ飲むだろ」

「ほう、親父さんからか。そいつは楽しみだな」

 ついさっきまで掴みあっていた筈の2人が、肩を並べて玄関へと歩き出すと、大沢も大樹の背に手を当て促した。

「大樹、おいで」

「はーい。ボク、すごーくお腹空いたー」

「うんうん。直ぐに食べようね」

 大沢がにこにこと大樹に応えると、大樹は「それからね」と、大沢のギャルソンエプロンを引いた。

「ご飯食べたら花火もしたいな」

 小首を傾げ、上目で大沢を見ている。おねだりポーズだ。

「ちゃんと残さず食ったらな。なあ、大沢君」

「そうですね」

「コイツが残すわけねえじゃん」

「そういやそうだ」

「あれ。大樹、その紙袋どうしたの?」

「あのねえ、おばさんがねえ」

「ちょっ……ちょっと待っ……」

 追いかけようとする遠子の鼻先で、パタンと軽い音を立て、ドアが閉まった。

 無情にも、直ぐに施錠する音までする。

 遠子はギリギリと奥歯を噛締めると、手の中のサングラスを握りつぶした。


──高瀬文孝……。絶対許さないわよ。

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