第10話

 同じ頃、都内某所に放置されたままの廃ビルの一室で、少年はアウトドア用の電池式ランタンの灯りの下、小さなゲーム機に夢中になっていた。

「ああっ!死んじゃったよー。もう、最悪」

 ぷうっと幼さの残る頬を膨らますと、穴だらけの合成皮革を張ったソファーに、ゲーム機を掲げたまま倒れ込む。

 同じ態勢で長くいたせいで、ボロボロのソファーと同じくらい、華奢な体がキシキシ悲鳴を上げた。

 筋肉と関節が凝り固まっているのだろう。

 そう思い、一旦は足も伸ばしてみたが、迷彩柄のショートカーゴパンツからはみ出した素肌が合皮のシートの当たると、何だか汗でヌルヌルして気持ちが悪い。直ぐに膝を立てた。

「はーあ。飽きちゃった」

 もう何時間になるだろうか。

 ゲームにも、雑誌を読むことにも、贔屓のミュージシャンの音楽にすら飽きてしまった。

 元々、子守りやお留守番には向いていないのだ。

「おっそいなぁ、もう……」

溜息混じりに、何度目とも付かないぼやきを漏らした時だった。


チャリ……チャリチャリ。ジャッ……ザザッ。


 しんと静まり返った室内に反響した鎖を引きずる音に、少年は横にしたばかりの体を起こした。

 15坪ほどのがらんとした部屋の隅は、光が届かず暗い。そこから、舌が縺れたような、くもぐった声が響いた。

「うぅぅやぁぁ……」

 数回繰り返された後、それが自分の名である「憂夜」と言っているのだと言う事に気付いた少年は、ランタンを手にすると、臆する事無く部屋の隅へと歩を進めた。

 薄闇の中、獣じみたグルグルと喉を鳴らす音、荒い息遣いが聞こえる。

 そして、腐敗した生ゴミのような、鼻をつく不快な臭い。

 今までその臭いに気付かなかった訳ではなかった。

 ただ、人間の体特有の「順応」と言う能力のお陰で慣れてしまっていたのだ。

 しかし、それも部屋の対角に位置していた時の話だ。ここまで来れば効果は無い。より強い刺激に、鼻の粘膜も悲鳴を上げている。

「驚いたな」

 握った拳の背で鼻を押さえ、顔を顰めつつも、憂夜が上げたのは感嘆の声だ。

 そこにいたのは、長さ2メートルほどの鎖で両手を壁に繋がれた鬼だった。

 顔を除く全身を硬い毛で覆っているが、それでも異常なほどに発達した筋肉は隠せない。

 ランタンの、弱々しくも白い光に浮き上がった、ごつごつとした岩のような顔には、猫のような黄色く鋭い目があり、頭には十センチほどの角のようなものが左右に一本ずつ、汚れて所々束になった頭髪から突き出していた。

 憂夜は、雨上がりのアジサイの葉にカタツムリを見つけた子供のようにそこへしゃがみ込むと、じろじろと異臭を放つそれを見た。

「まだ、自我があるんだ。さすがアレに耐えただけあるな。すげえじゃん、英明」

「にぃぃぃ……えぇぇぇ……」

「うん? なに?」

 憂夜は自分の耳に手を当てると、その耳を鬼に向け、身を乗り出した。

「にぃぃ……のぉぉ……えぇぇぇ……」

 鬼の発音は不明慮だ。憂夜は暫く小首を傾げていたが、あっ! と言うと、人差し指を鬼に突きつけた。

「わかったぁ! ニノマエだ! ニノマエ! アタリだろ? おれって天才!」

 この場にそぐわぬ明るい声が、薄暗い室内に響く。

 憂夜は、楽しそうにパチパチと掌を打つと、浮かしていた尻をストンとその場にを下ろして胡坐をかいた。

「ねね、英明。もっとなんか言ってよ。おれ、もー、チョー退屈してたんだよね」

 憂夜には異形のものを眼前にしていると言う緊張感がまるで無い。口調も昨今の少年らしく、飄々としていて軽いノリだ。

「うぅぅ、やぁぁぁ」

 再び憂夜の名を呼ぶと、鬼はゆっくりと手を伸ばした。

「うぅぅ……やぁぁ」

「…………」

 この瞬間、初めて憂夜は躊躇した。

 伸ばされたのは、幼い頃、いつも自分を守ってくれた、あの優しい手ではない。

 どす黒く、尖った爪の生えた獣の──否、化け物の手だ。

 それを目にした途端、憂夜の笑顔が、夕立前の空の如く曇った。

「英明……」

 分っていたはずだ。こうなる事は。

 そして知っている。この先彼がどうなるのかを。

 それでも、憂夜は目を逸らさずにはいられなかった。


 目の前の鬼──、英明と憂夜は兄弟だった。

 少なくとも、憂夜はそう思っていた。

 勿論、遺伝子レベルでは他人だ。しかし、それは生物としての種類が違うと言う事ではない。

 英明は人間だった。

 そう――、昨日までは。


 二人は施設で育った。どちらも、目も開かない内に捨てられた孤児だった。

 それでも、親がいない事を不幸だと思ったことはなかった。

 英明には憂夜が。憂夜には英明がいた。

 二人はいつも一緒だった。

 体の小さな憂夜は、何かと施設の外の子供達にからかわれたが、そんな時はいつも、英明が盾となった。

 そんな二人に転機が訪れた。

 時折、他の子供達の前にも現れた「里親」が、二人の前にも現れたのだ。

 それは、幸せなのだと聞かされていた。

 施設の外の子供達のように、親と言う特定の存在から愛情を注がれるのだと。

 だが、それは絵空事に過ぎない事を、後に憂夜は身をもって知る事となる。

 原因は弟だ。

 子供に恵まれなかった藤田の母が、憂夜を引き取って間もなく妊娠したのである。

 それは、子供だった憂夜にとって信じられない事だった。

 望まれて養子となったのに、弟が生まれた途端、両親が手の平を返したように、憂夜を疎み出したのだ。

 家庭の中で行き場を失った憂夜は、当然の如く、再び英明を求めるようになった。

 会いたかった。帰りたかった。憂夜にとって、やはり家族は英明しかいなかったのだ。

 そんな中、偶然英明の所在を知ったのは新聞の記事だった。極小さな記事ではあったが、英明が、都内の柔道大会のジュニア戦で優勝を収めたと言う物だ。

 それはまるで、砂漠の中で一滴の水を見付けた思いだった。それで喉が潤される訳でなくとも、ささやかな希望が見えた気がした。

 以来、英明の記事が載る度に切り抜き、スクラップした。些細な記事であっても、英明の名前があれば、興味のないスポーツ雑誌を買った。

 英明が都内に住んでいることが分った以上、彼に再会するチャンスが必ず巡ってくると信じた。

 そして、そのチャンスはまた、新聞の小さな記事によってもたらされた。

 スポーツに秀でた生徒を積極的に奨学生として迎えている、議員や資産家の子息子女が通う有名な学園に、英明の入学が確実となったというニュースだ。

 会える。憂夜は確信した。

 藤田の家は極普通のサラリーマン家庭だったが、この学園は、スポーツ奨学生意外にも、毎年、特待生を数名受け入れている。

 憂夜は、自分の知能の高さを知っていた。自信があった。

 それだけではない。自我が芽生えた頃から、幾つか気が付いていたことがあった。

 英明は勿論、他の子供達とは違う、特殊な能力、自身の心の二面性。

 そして──鮮明に浮かび上がる古の記憶。己の、本来の姿。

 この事実が、憂夜の運命の歯車を大きく動かし始めていた。

 会いたい。否、会わねばならない。

 今度は自分が、英明を守らねばいけないのだ。


 新聞の記事に明るい兆しを感じて数ヶ月の後。

 施設で分かれてから十二年の時を経て、二人は満開の桜の下──再会した。


「ヴヴ……」

 呻きにも似た低い声に、憂夜はハッとして顔を上げた。

 目の前では、醜い鬼が黄色い目をくるくると動かしながら、のろのろとした動作で大きな頭を右へ左へと傾げ、憂夜の様子を窺っていた。

「ゆぅぅ……」

 鋭い牙の覗く分厚い唇が、への字に歪んでいる。どうやら心配しているようだ。

「ごめん、なんでもない」

 隠れた表情を読み取ろうとしたのだろう。前髪に掛けられていた太い指を掴むと、憂夜は自ら髪をかき上げ、鬼の──、英明の黄色い目を真っ直ぐに見た。

「なんでもないよ」

 もう、目を逸らす訳にはいかない。逃げる訳にはいかない。

 全ては始まっている。動き始めているのだ。

「それからさ」

 無意識の内に強く握っていた英明の指を解放すると、憂夜は言った。

 意味も無く、ショートカーゴから露出した膝小僧を摩る。高校三年ながら憂夜は体毛が薄く、摩る膝も、少女のようにつるつるしていた。

「気にする事、ないよ。英明が気にする事なんかない。あんなヤツ、死んで当然だ。情をかける必要だって無かった。いっそ一思いに──」

「ううう……」

「なんで?」

 大きな体を縮込ませ、鎖で繋がれた腕で抱えた頭をブルブルと振る英明の肩を鷲掴みにすると、憂夜は腕の隙間から覗く岩のような顔を覗き込んだ。

「なんでだよ! ねえ。英明、どうしてあそこへ呼び出されたのか分ってる? あいつが、英明に何をしようとしていたか気付いてた? あそこにいた奴等がどう言う奴等なのか知ってた?」

 矢継ぎ早に浴びせられる問いに、英明は困ったように顔を歪めた。

 姿は変ってしまっても、この表情は知っている。憂夜は唇を噛んだ。

「分ってて……行ったの?」

 確認する必要などない事くらい分っていた。英明はそう言う人間だ。否──人間だった。

「どうしてそう、お人好しなんだよ。話して分る相手じゃないの、知ってるだろ? あいつ、親が議員なのをいい事に好き放題やって来てたんだから。だからこそ、正論をぶつける英明が邪魔だったんだよ!」

 弱い者への、面白半分……いや、退屈凌ぎの為の虐め、思い通りにならない者への私刑。ドラッグもやっていたと聞く。

 そんなニノマエの餌食になった人や、されそうになった人を、英明は幼い頃に憂夜を守ったのと同じく、助けた。そして、ニノマエすらも救おうと、何度と無く説得したのだ。

 だが、ニノマエはそれが気に入らなかった。

「傲慢で、自分勝手で……。自分達が一番優れた生き物だと信じて疑わない。あんな薄汚れた人間なんかいらないんだ。あいつらこそ、邪魔なんだ」

 そこまで言って、憂夜は思い出したように「あっ」と英明を見た。

「英明は、別だよ?」

「うぅ。うぅぅぅぅ」

 憂夜の言葉に、鬼は彼の2倍ほどはあろうかと言う身体を震わせ、黄色い目からぼたぼたと涙をこぼして汚れた床を濡らしている。

 彼はもう、その薄汚れた人間ですらないのだ。

「あー……。ごめん。泣かないで、英明」

 鬼を覗き込むと、硬い毛に覆われた頭をくしゃりと撫でる。かき回すと、酷く生臭いような、鉄臭いような臭いがした。

「大丈夫。辛い事なんか、直ぐに全部忘れちゃうよ」

 次に来る波は、数時間前の、我を忘れるなどと言う次元ではないだろう。

 恐らく──彼の心すら変えてしまう筈だ。理性も、記憶も、温かな思い出すら残らない。

「僕の事も忘れちゃうだろうけど……。いいんだ。姿形が変わっても、僕の事を忘れても──。英明が、生きていてくれさえすれば」

 その時、腕時計からアラーム音が発せられた。20時のアラームである。

 憂夜は時計のバックライトをつけて時間を確認すると、わっ!と大きな声を上げた。

「ヤバーイ。こんな時間だ。沙紗、早く来てくんないかなあ。腹も減ったし、そろそろ帰んないと……またお母さんの機嫌が悪くなっちゃう」

 そうなったら面倒だ。

 憂夜はソワソワと部屋の中を歩き出した。彼にとって、母親は何よりの脅威だ。

 だがそれも、もう暫くの──。

「プッ」

 歩みを止めると、憂夜は突如吹き出した。

 何を恐れる事がある。

 今まさに、世界が変ろうとしていると言うのに。新しい歴史が作られようとしているのに。

「うくく……」

 間もなく訪れる未来を思い浮かべると、自然に笑みがこぼれた。笑いも止まらない。

 自分の笑い声が静か過ぎる室内に反響し、それが更に可笑しさを煽った。

「あはははは! あは、あはっ! あーもう、楽しみだなあ。ははっ。あははははっ……」

 笑い過ぎたらしい。息継ぎをした途端、憂夜は咳き込み、はあっと一息つくと呟いた。

「粛正は始まってる。悪が、この世界から消えるんだ。ううん。僕らが消すんだよ」

 ランタンの灯りにぼんやり浮かび上がる憂夜の表情は恍惚としていると言っていい。

 そして、再び英明の前にしゃがみ込むと、言った。

「僕らは正義なんだ。救世主なんだよ。──英明」

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