第9話
かつて、江戸時代に毛利家上屋敷だった場所に位置する六本木ヒルズ。
その中心とも言えるMタワー内に拠点を置くライブ製薬の、人気のない会長専用フロアを、女は流れるように歩いていた。
完璧すぎるほどの肢体を、シルクの赤いスリップドレスに包む女の容姿は、妖艶なまでに美しい。
「羅刹?」
フロアの一角に位置する会長室のドアをノックもせずに開けると、女は灯りも点いていない薄暗い部屋にその身体を滑り込ませた。
「……沙紗か」
紫檀の豪奢なデスクの向こうに、男が1人座っていた。
年のころは30代後半。一代にして巨万の富と名声を得た実業家である。
特殊な強化ガラスを、床から天井まで嵌め込んだ巨大な窓。そこから僅かに差し込む地上の街の灯りに浮き上がる顔は、青白くも彫が深く端正で、ギラギラと光を放つ目は、獲物を狙い、暗闇に身を潜める狐のそれのように鋭い。
沙紗は、上質なスーツの肩に掛けた指先を、ゆっくりと滑らせながら回りこみ、男の組んだ足に腰を下ろすと、白い腕を回した。
「同伴出勤のお誘いかね?」
今夜、彼女はオフだ。
それを知りながら、男は言った。
「全く。仕事熱心なのは結構だが、そんな事せずとも、君は充分稼いでいるだろう」
「女はお金が掛かるのよ」
銀座の一当地にクラブを構える沙紗の答えに、男は薄い唇の端を吊り上げた。
「それは生きる為か? それとも」
そう言うと、男は沙紗の深く切れ込んだスリットから露出した白い太腿に手を伸ばした。
「この美貌の為かね?」
「後者かしら」
艶笑する沙紗の唇は血のように赤く艶かしい。
「いいだろう。来週にでも、秘書にスケジュールを空けさせる。ところで──」
男は引き出しを開けると葉巻を取り出した。
「あれはどうしてる」
金のシガーカッターで吸い口を切り落とすと、45度に傾け火をつける。ジジッと小さく音を立てて、薄闇にオレンジ色の点が浮かび上がった。
「いい子にしてるわ。今は夜叉が子守をしてる」
「そうか。まだ赤子同然だ。目を離すな」
「ええ。でも……」
沙紗は男の膝の上でクスクスと笑い出した。
「滑稽ね」
「何がだ」
「あなたの会社の名前よ。live製薬。ひっくり返したらevil製薬でしょう? 破滅の神、羅刹にぴったりね」
沙紗は男の目を探るように覗き込むと、ふいとデスクの上の名刺入れに手を伸ばし、一枚のカードを摘み上げた。
「ほら、あなたの名刺。ご覧になって」
『live製薬株式会社
会長 松岡智之』
松岡は、自分の名刺をまじまじと眺めた後、沙紗を膝に乗せたまま、くつくつと喉を鳴らして笑い出した。
「邪悪な製薬会社の会長か。これは傑作だ」
「あら、失言だったかしら?」
そう言いながらも、沙紗には全く悪びれた様子は無い。
松岡は天然石で作らせた灰皿に葉巻をねじつけると、本皮の大きな椅子にその背を預け、都会の灯りを受けて紫色になった空を見上げた。
「構わんさ。だが、"我々"は悪ではない。正義だよ、沙紗。この世界の、救世主だ」
東京の空には星が無い。
そう、我々が生まれ出でた、あの世界のように。
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