第5話

 失神した柴田を事務室の栞に預けた高瀬が戻ってくると、ようやく解剖が再開された。

 通常、法医学教室では外表検査等に長く時間を費やす為、実際に遺体へメスを入れる解剖は、1体あたりおよそ1時間である。

 まず頸部から恥骨まで、臍を避けて正中切開で皮膚を切り開くのだが、今回は腹部が大きく裂けている為、頸部から腹部、腹部から恥骨へと、腹部の穴を広げるような形で切開された。

 その一刀一刀の合間にフラッシュが焚かれ、解剖の経過が記録される。

 次に胸部の肋骨を切断し、心臓、肺などの胸腔内臓器、頸部、肝臓、腎臓、腸、胃などの腹腔内臓器を調べる……はずが、腹部を広げて直ぐに、月見里が手を止めた。

「やっぱり無い」

 開創器で広げられている、赤黒く変色した腹腔内を覗き込むと月見里は眉間に皺を寄せた。

「なんだよ。何が無いんだ?」

 顔を上げた月見里に代わり、高瀬が腹腔内を覗き込む。が、直ぐに顔を顰めて引っ込めた。

「どう?」

「おう。メタクソ気味が悪い」

 高瀬の返事にガックリと肩を落とすと、月見里はそうじゃなくて、と頭を振った。

「さっぱりわからん」

 高瀬がきっぱり言い放つと、組織サンプルを作る準備をしていた宮下が覗き込んできた。

「どうしたんです……ありゃ、本当だ」

 そう言うと、宮下は目をぱちくりさせている。

「何が無いんですか」

「肝臓ですよ、高瀬さん」

「は?」

 宮下の言葉に、次は高瀬が目をぱちくりさせた。

「現場で彼を診た時も、あれって思ったんだけど」

 解剖台に横たわる遺体をちらと見ると月見里は続けた。

「ちゃんと解剖するまでは、はっきりした事は言わない方がいいと思ってたんだ。でも、やっぱり無い」

「どっか、腹の穴ン中転がってんじゃねえの?」

 高瀬の無知さに嘆息すると、月見里は血と脂にまみれた手袋を外し、マスクも取った。

「文孝、肝臓ってどれくらいの大きさか知ってる?」

「どれくらいって……」

 そう言うと、高瀬は雑誌で見たフォアグラを想像した。あれは肥大させた鵞鳥の肝臓だ。人間は鵞鳥より身体が大きいのだから、ちょっとサービスして……と、両手を丸めるようにして楕円を作った。

「こう……コッペパンぐらい?」

「全然」

「じゃ、アンパン。クロワッサン」

 次第に小さくなっていく例えに、月見里は困ったように眉を下げた。

「そうじゃなくて。大きいんだよ。それも凄く」

 しかし、高瀬はなかなかイメージ出来ずにいるらしい。うーんと唸ると腕を組み、眉間に深い皺を寄せている。

「わかったかい?」

「わからん。教えろ」

 こう言うことは諦めが早い高瀬である。直ぐに降参し、偉そうに説明を促した。

 それに対し、月見里は機嫌を損ねるでもなく、ハイハイと笑顔で応じながら高瀬の横に立つと、両手の人差し指をそれぞれ高瀬の頭頂部と顎に当てた。

「こんな感じで、君の頭をスパッ!」

 言いながら、頭頂部に当てた指を耳の脇を通るように、一気に顎まで滑らせる。

「……と、縦に半分に切った内の後頭部側ぐらいかな」

「妙な例え方すんな!」

 月見里の手を振り払うと、高瀬は耳から顎を何度も擦った。

 高瀬の反応に、解剖室内が再び和やかになった。若い写真係とシュライバーなど、背中を逸らせて笑っている。

「ったくよー。鳥肌立ったじゃねえか」

「ごめんごめん。でも、それくらい大きいんだよ。場所的には、胃と三分の一を重ねて並ぶような感じかな。だからこんな風に、この位置に大穴が開いてたら、直ぐにわか……」

 そこで月見里はハッとしたように口を噤むと、新しい手袋を引っ掴み、遺体を保存している冷蔵庫へと走り出した。

「お……、おい!月見里」

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