第4話

「おかえりなさい」

 無機質なリノリウムの廊下を通り事務室へ入ると、コーヒーの香りとともに、月見里の秘書、深田栞が出迎えた。

 華奢で小柄な体にシンプルなシャツとタイトスカートを身に着け、長い髪をバレッタですっきりと纏めているが、いまだにルーズソックスすら似合いそうな幼さである。

「ただいま」

「お疲れになったでしょ?コーヒー入ってますよ、先生。高瀬さんも」

 にこにこと嬉しそうに月見里を見上げアタッシュケースを受け取る姿は、秘書と言うより幼な妻のようだ。

 その脇から、勝手知ったるという風にずかずかと事務室内に入ると、高瀬は部屋の隅に置かれた応接セットに着ていたジャケットを放り投げ、どっかりと腰を下ろした。

「あー、つっかれた」

 両腕を上へと伸ばすと、そのままバタンとソファに横になる。目を閉じれば眠ってしまいそうだ。

「高瀬さぁん、上着はちゃんと掛けておかないと、シワになっちゃいますよう」

「俺もうダメ。栞ちゃんして」

「文孝、栞に甘えるなよ」

「あのう……」

 細くドアが開いたかと思うと、そこからひょっこりと柴田が顔を出した。

 山を降りた時に吐き気は治まっていたが、未だ顔色は優れない。初めて足を踏み入れた法医学教室そのものに緊張しているようでもある。

 しかし、応対に出た栞を見た途端、今度は全身が真っ赤に染まった。

「あっ、あのっ。自分は、警視庁特殊事件対策室の柴田であらせられます!たっ、高瀬さんはおいでませませ……」

「ここだ、ここ」

 相変わらず高瀬はソファに横になったまま、指先で耳を掘っている。

「あっ、あの、ご遺体を解剖室にお運びなさいました」

「……何言ってんだ、お前」

 初めて会った栞の愛らしさにすっかり舞い上がった柴田は、高瀬の呆れ切った視線に、なぜか敬礼していた。


*   *   *


「柴田、こっち」

 栞と、術衣に着替える月見里を残し、高瀬と柴田は事務室を出た。

 ガラス張りの検査室に挟まれた廊下を通り抜け、地下の解剖室へと向かう薄暗い階段を下りる。

 それはまるで死者の国へと続く階段のようだった。

「あの、高瀬さん」

 さして大きな声を出した訳でもないのに、自分の声がやけに響いて、柴田は思わず口を覆った。

「なんだ」

 先に歩いていた高瀬が踊り場で立ち止まり、数段上にいる柴田を振り返る。

 年長者を見下ろす位置にいる事がなんだか悪い事のように思えて、柴田は慌てて駆け下り、高瀬と並んだ。

 そうする事で、拳一つ分程度だが、高瀬を見上げる格好になる。

「あの、さっきの女の子ですけど……」

 柴田はもじもじしながら、元々細い垂れた目を更に細めた。こうなると、もはや皺と区別がつかない。

「ああ、栞ちゃんか。月見里んとこの秘書だよ」

「栞さん……ですか。名前も可愛いんだなあー」

「なんだ、お前。ひょっとして」

 高瀬がにやりと口の端を上げると、柴田の顔が真っ赤に染まった。両手と頭を左右にバタバタと振る。

「いやっ、自分はそんなっ!違いますよう」

「ほ~。ま、やめとけ」

 イヌを払うかのように掌をパタパタさせると、高瀬は階段を下り始める。ゆっくりとした靴音が再び階段室に木霊した。

「なんでですか~」

 違うと言っておきながら、高瀬に諦めるよう言われた途端、柴田は口を尖らせた。

「そりゃオマエ、月見里には勝てんさ」

 言われて、柴田は美形の監察医の姿を思い浮かべる。

 自分より確実に頭1つ分は高い身長。温和で知的な笑顔。ガサツで乱暴な高瀬と本当に友人なのかと疑いたくなる程の、落ち着いた大人の雰囲気。そして、何よりカッコイイ。

 おまけに、あの監察医は全身から品の良い甘さを漂わせていた。

 スタイル良く、優しげでハンサム。そして品が良くて甘い。

 柴田は、ピカピカに磨かれた階段室の白い壁に映った自分をちらりと見た。

 ブサイクではない。ブサイクではないのだ。

 確かに目は細いし垂れている。だが、それはチャームポイントだと自負しているし、体型も極一般的と言える。IQも一般的。髪型も、服装だって、見苦しくない様に常に一般的に……。

 そこで柴田は長い溜息をついた。自分は余りに一般的過ぎるのだ。つまり地味。オーラがない。 特筆すべき特徴が、細い垂れ目だけとは何と言うことか。

「月見里先生って、やっぱ凄い人なんですかね」

 改めて思い知った事実に肩を落とすと、柴田は高瀬の背中に質した。言ってから愚問だという気もしたが、高瀬は気にしていないようだ。

「うーん……、そうだな。俺なんかとは昔っから頭の出来が違ってたし。同じ34で、あいつは法医学史上最年少の教授サマだ」

「そ……そうなんですか?」

「おう。俺が言うのもなんだけど、アレで人間も出来てっからな、あいつ」

「そう……なんですか。はは……」

 同じ返事をすると、柴田は力なく笑った。余りに自分と差がありすぎる。

「神様って不公平だなあ」

「んなこたねぇよ」

「ありますよ。だって、天は二物を与えずって言うじゃないですか。けど、月見里先生は……」

 言いかけて、柴田は高瀬の背中に思い切り鼻をぶつけた。先を歩いていた高瀬が、再び踊り場で歩みを止めたからだ。

「月見里は、お前が思ってる以上に苦労してるよ」

「え?」

「ま、栞ちゃんは止めとけって。それに、ちょっかいなんか出してみろ、法医学教室の連中に剥製にされちまうぞ」

「ヒッ」

「冗談だって。……バーカ」

 ピンと柴田の額を指で弾くと、高瀬は再度階段を下り始めた。



*   *   *


 解剖室に入ると、既に検査技師、写真係、シュライバー、鑑識が揃っていた。

 通常この法医学教室では、解剖の際に現在揃っている人間の他に、補佐の監察医が付く。だが、今日は東京監察医務院へ出向している為、外表検査及び執刀は月見里一人で行うことになる。

 その為、今日の解剖は1体に止めることとなった。

 約三十坪程の解剖室の、三台あるステンレスの台の内、一番奥の解剖台の脇に寄せたストレッチャーに、袋に入ったままの遺体が乗っている。

 高瀬、柴田が解剖室に入ると、検査技師の宮下がビニール製のエプロンとラテックスの手袋を持ってきた。

「お二人とも、これを使って下さい」

 宮下は五十絡みのベテラン検査技師だ。若い監察医より余程知識も技術もあると聞く。それ故皆から一目置かれていたが、本人はそれに驕る事無く、至って自然体で人が良い。

「宮下さん、コイツ、今日が初めてで」

 手袋を嵌めながら、高瀬は横で必死に手袋と格闘している柴田を顎でしゃくった。

「あっ、柴田です。宜しくお願いします」

 急に自分に振られ慌てた柴田は、指先にもう1つ萎びた手が生えている状態のまま気をつけをした。緊張の余り、ぴっちりしたラテックスの手袋を上手く嵌められないらしい。

「コイツが何かとご迷惑お掛けするかもしれませんが」

「なんのなんの。初めはみんなおっかなびっくりですよ。昔ここで卒倒した刑事さんだって、今じゃ立派なもんですし。ねえ、高瀬さん?」

「ちぇっ。イジメないで下さいよ」

 宮下の前では、高瀬も子供のようだ。そんな高瀬に、とんでもないと言うと、宮下はニッと笑った。

「高瀬さんを虐めてたら、命が幾つあっても足りぁしませんよ。……っと、先生がいらっしゃいましたよ」

 高瀬が振り返ると、解剖室のドアが開き、グリーンの術衣を身に着けた月見里が入ってきた。

「すみません、お待たせして」

 マスクを掛けながら、皆に頭を下げる。先生と呼ばれる立場にあっても、常に周囲に対する気配りを忘れないのが、この男の数ある秀でた才の一つだった。自分勝手に生きている高瀬には、とても真似が出来ない心掛けだ。

 その様子を眺めながら、自分の上司に、この人の百分の一でも気配りの心があればと、高瀬の自分勝手の一番の被害者である柴田は思った。

「取り合えず、検死結果と状況は現場で伺っているので、写真撮影しながら外表検査。その後、遺体に付着した遺留品と微物の採取をしましょうか」

「そうですね。品川君、カメラいいかい?」

 宮下の問いに、カメラを抱えた短髪の青年が頷いた。

「いいですよ」

「こっちもオッケーです」

 品川に続き、青いつなぎを着た鑑識員もカメラを構える。

「よし。じゃあ、庄司君。高瀬さんと柴田さんも手伝って貰えますか。仏さんを出しますんで」

 シュライバーの庄司が遺体袋の足元、高瀬が頭の方へ回ったのを見て、柴田も慌てて高瀬の隣に立った。

「さあて。狭いとこから出してやろうな」

 遺体の脇に立った宮下は優しくそう語り掛けると、遺体袋のジッパーを下ろす。全員の視線が宮下の手元に集中した。

「ヒャッ」

 途端に広がる異臭に柴田は悲鳴を上げた。その柴田の尻に、高瀬がすかさず膝蹴りを入れる。

「情けない声出すな。お前はそっちのシートの端持て。1、2、3でシートごとこっちに移すぞ」

「ううっ。はい……」

「1、2、3、よっ」

 宮下の掛け声で、腹に大きな穴を開け、両手に紙袋を被せた人間・土田正夫の身体がゴトリと解剖台へ乗せられると、相次いでフラッシュが焚かれた。

「うわー……。話には聞いてましたけど、確かに凄いですね。直ぐ空調入れます」

 そう言うと、庄司は空調のスイッチを入れた。

 この解剖室には独自の空調設備が備わっている。これは、骨を切断する際に出る鋸くずなどの舞い上がりによる感染防止対策でもあり、更に、解剖中に毒性ガスが発生した場合に備え、瞬間的に排気する事も可能な物だ。この空調のお陰で、遺体から発せられる異臭が一気に排出される。しかし、その一方でエアコンが全く効かなくなると言う弊害があった。

「では、始めます」

 月見里の静かな声が、次第に蒸し暑さを増す解剖室に響くと、それを合図に全員が遺体に一礼した。


*   *   *


「それ、毛だよな」

 二時間に亘る外表検査を終え、強烈なライトと二台の記録用カメラのフラッシュの下、裸にされた遺体から遺留品と微物の採取をしている時だった。

 泥や枯葉、虫、木片などを次々と摘み上げていた月見里のピンセットが、一本の黒く硬い毛を採取した。

「毛だね。でも、人間の毛髪でも、体毛でもなさそうだ。獣……かも」

 滴る汗をワイシャツの肩で拭うと、高瀬は月見里を見た。月見里はこのサウナのような解剖室において、一滴の汗も掻いていない。

 お前、本当に人間か?と言いたくなるのをぐっと堪え、高瀬は別の質問を投げかけた。

「やっぱ食害か?」

「いや、それはないよ。動物に襲われたって線も、状況から言うと……ちょっとね」

「先生、それも病理に回しますか」

 採取した微物を入れた試験管にラベルを貼っていた宮下が、新しい試験管を差し出しながら聞くと、月見里はその試験管に採取した毛を入れ頷いた。

「そうですね、お願いします。あと、傷の周囲を綿棒で拭って、それも回して下さい」

「了解です」

 宮下は直ぐに綿棒を数本用意すると、遺体の傷の周囲を撫でるように拭ってから、それぞれ別の試験管に収め、ラベルを貼った。

「それじゃ、解剖に入ります」

 そう言うと、月見里は改めて遺体に向かい一礼した。それに倣い、全員が一礼する。

 その後、宮下が新しい器具を揃えたワゴンを月見里の右手に備えると、柴田の喉がごくりとなった。二時間に亘った外表検査のお陰で多少の我慢が利くようになって来たとは言え、やはり切るところを見るのは怖い。

「い……いよいよですね」

「おう。でも、腹はもうパックリ開いてるからな」

「あ。そうか……」

 高瀬の言葉になんとなくホッとした柴田だったが、それが何の意味も成さないと気付くのに時間は掛からなかった。

「切開します」

 そう言った月見里の手に握られたメスが遺体の喉に当てられ、それがスッと動いた瞬間、柴田の意識も、ふぎっ!と言う情けない悲鳴と共にスッと抜けた。

「あ」

 その場にいた全員がそう言って、倒れていく柴田を見ていた。

 二秒も経たない内に、ガシャンとワゴンが倒れ、ゴンと言う派手な音の後、ステンレスの皿が床を転がり、カラカラと音を立てた。勿論、ゴンと言うのは、柴田が床に頭を打ち付けた音である。

 そんな一連の騒音が収まると、解剖室が水を打ったようにしんとなった。

「いやあ……」

 最初に静寂を破ったのは宮下だった。

「パーフェクトな卒倒でしたなあ」

 その一言で、重い空気の立ち込めていた解剖室が、一気に和やかになった。

「凄かったな。スローモーションみたいだったぜ」

 高瀬が言うと、シュライバーの庄司も興奮したようにクリップボードを振る。

「マネキンが倒れるみたいでしたね!」

「直立不動で真後ろに倒れたもんね!記念に一枚撮っておきますか!」

 そう言うと、品川は倒れている柴田をパシャパシャと撮影した。悪乗りした鑑識員も、自分の携帯電話で撮影している。

「怪我は無いの?凄い音したけど」

 唯一露出している目に苦笑いを浮かべ、皆の様子を見ていた月見里だったが、手にしていたメスをトレーに戻すと、カメラを抱えた品川に声を掛けた。

「見たところ外傷はないですよ。後でスゴイ瘤になると思いますけど」

 完全に意識を失っている柴田の髪に指を突っ込み、わしわしとその頭を探ると、品川は月見里を見上げて言った。

「そっか。文孝、事務室に運んでやりなよ。栞が見てくれる。宮下さん」

 月見里が呼ぶと、宮下はガラガラとストレッチャーを運んできた。

「取り合えず、こいつに乗せますか。手伝いますよ」

「お願いします」

 ゴム人形のような柴田を高瀬と二人でストレッチャーに乗せると、宮下は柴田の顔を眺め、楽しそうにクスクスと笑った。

「懐かしいですなあ。高瀬さんもこいつで退場したんですよ?柴田さんより、もう少しもちましたけどね」

「そう……ですか。ははは」

 柴田のバカ面に己の過去の醜態を重ねられ、高瀬は力無く笑うより無かった。

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