第3話

 車を降りると、蝉の声が耳をついた。

 と同時に、エアコンに慣れ切っていた毛穴が一斉に開き、汗が噴き出す。

 下界には風も無く、皮膚に貼り付くような湿気が充満していた。

 本郷の旧加賀藩上屋敷跡に建つT大。その赤門から二百メートル程先にあるのが、法医学教室のある医学部である。

 ここでは東京二十三区で発見された変死体の内、およそ半分の検死解剖を担っている。

 本来なら青梅所管内の変死体解剖はJ大で行うのだが、どうやら事案を対策室へ移行するに当たり、谷口が気を回してT大の月見里に連絡したらしい。

 流石、ベテランならではの配慮である。

 御岳山から搬出された遺体は、それぞれが黒い遺体袋に収められ、ワゴン車の中のストレッチャーに乗せられていた。

 引き出すと折り畳まれた足が伸び、大きな衝撃も無く車から移動させることが可能だ。

「遺体は、一体を解剖室に、残りの二体を、解剖室の冷蔵庫に納めて下さい」

 月見里が指示すると、搬入口で待機していた技師の案内の下、遺体が運ばれて行く。

 それをぼんやり眺めながら、高瀬はポケットからくしゃくしゃになったタバコのパッケージを出し、一本咥えると火を点けた。

 それは、数年前から、ここへ来る度に行うようになった彼の儀式のようなものだ。

高瀬はここが嫌いだった。

 消毒と消臭剤を幾ら撒いた所で隠しきれない死臭。時折遺族控え室から漏れてくる悲痛な絶叫。

 それに重なる、あの日の自分の叫び声。

 高瀬がここで最も煩わしいと感じるのは、激し過ぎる自身の感情だった。

 音楽がその頃の思い出を呼び覚ますように、消毒の臭いや、器具のぶつかり合う音、蝋人形のように並ぶ遺体が思い出させる、悲しみ、怒り、恐れ。

 そして、己の罪。

 だからこそ、高瀬には煙と一緒に全ての感情を吐き出していく必要があった。

 冷静に。被害者ではなく、証拠品と向き合う為に。

「文孝。そろそろいいか」

 火がフィルターに近づいた頃、それまで黙って見ていた月見里が声を掛けた。

「ああ。悪いな、いつも」

 空笑いをしながらフィルターを携帯灰皿に突っ込み、区切りをつけるべく、ふっと短い肩息を吐く。

 その頭をくしゃくしゃとかき回すと

「いいさ」

そう言って、月見里は搬入口へと向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る