第8話

 入学式の五日前、私は先輩の家を訪れた。居間に通され、ソファに腰掛ける。お構いなくと告げたが、奥さんは煎茶と和菓子をテーブルの私の前に置いた。

「急に押しかけてすみません」

「気にするなよ。俺の生活ぶりが気になったんだろう?」

「えぇ。娘さんとは遊んでいるんですか?」

「もちろん。公園とか買い物に連れて行ったり、家でも本を読み聞かせたりするし。家事も手伝うようにしているよ」

 先輩の言葉を聞いて、奥さんが言った。

「入院前はほとんどしなかったのに」

「いや、だからまぁ……悪いなと思って」

 先輩と奥さんの間には和やかな空気があった。これを壊さないか危惧したが、私は用件を切り出した。

「先輩、実は伝えたい話もあるんです」

 私が言うと、奥さんはテレビの前で遊んでいた夕実ちゃんに声を掛けた。

「夕実、今日はお部屋で遊ぼう」

 そう言って奥さんは子供部屋に夕実ちゃんを連れて行った。二人きりになったところで私は話し始めた。

「この間、早瀬君のお見舞いに行ったんですが、彼は今、入院生活を辛く感じているんです。一定期間だけの病気ですけど、それでも病気だけでなく、薬の副作用にも悩んでいて生きていたいと強く思っているんです。彼の手術日程によっては、先輩は入学式後も少しの間、今の健康体でいられるだろうと考えていました。ですが、彼の様子を見るに、入学式を終えたらなるべく早く戻ったほうがいいと思うんです」

「そうか……。やっぱりガンでの入院生活は厳しいよな」

「先輩には申し訳ないんですが、期日通り、入学式を終えたらということでお願いします」

 先輩は黙して私から視線をそらした。本来ならその約束であるから、二つ返事で受けるところだと思うが、先輩は迷っている。私は先輩に不安を覚えた。しばらくして、先輩が口を開いた。

「……俺さ、早瀬君が今、辛い状態で戻らなきゃいけないのはわかっているけど、夕実や弥生とこうして普通に暮らしていられる時間がすごく大切なんだ。……卑怯なのはわかっている。でも、この時間を失いたくない」

 私は何も言えなかった。先輩の気持ちがよくわかるし、彼が抱く気持ちはとても自然なものだ。だからこそ、先輩を批判することなど出来ない。

 しかし、だからといって僕をこのままにしてはおけない。元々健康体であったのは彼であり、彼は生きたいと願っている。

 この病気の交換を持ちかけたのも、装置を開発したのも私だ。もう妹の時のようにはなりたくないと思っていたけれど……。

 自分のしたことは、間違っていたんだろうか?

「……わかりました。私が何とかします」

 私は立ち上がった。

「何とかって……どうする気なんだ?」

「心配しないで下さい。先輩は今の生活を大切にして下さい。失礼します」

「おいっ! 相沢!」

 私は玄関に向かうと、奥さんがいた。

「相沢さん……」

 何か言いたげな奥さんの様子に私は訊いた。

「……聞いていましたか?」

 奥さんは目を伏せて頷いた。

「あの……どうするつもりですか?」

「大丈夫です。早瀬君は元の健康体に戻りますし、先輩も今の生活を送れます」

 そう告げて、私は奥さんに会釈して出ていった。


「まだ寝ないの?」

 弥生の声で俺は我に返った。相沢が帰った夜、テレビをつけてソファに座っていたが、テレビを見ているようで見てはいなかった。

「あ、あぁ。そうだな、そろそろ寝るか」

 そう言いながらも、俺は動く気になれない。弥生は俺の隣に座った。

「ねぇ……入学式が終わったら、どうするの?」

 俺は驚いて弥生を見た。

「聞いていたのか?」

「うん……ごめんなさい」

 俺は弥生から視線を外し、さまよった。

「秀介が私や夕実と過ごす時間を大切に想ってくれるのは嬉しい。でも……このままだと、今度は相沢さんが病気を引き受けてしまうと思う」

「えっ?」

「何とかするって言っていたでしょう……? あれは、自分が代わりに病気を背負おうとしているのよ。あなたのことも、早瀬さんのことも考えて」

 そう話す弥生は悲しい目をしていた。

「病気を背負うのってとても辛いことだよね。秀介もよくわかっているでしょう? これ以上、他の人を巻き込んではいけないわ」

 相沢がそこまでしようとしているなんて、俺は考えもつかなかった。

「また元の生活に戻ったら秀介も私も辛いし、夕実は寂しいと思う。でも、誰かに病気を任せて、私達がこのままの生活を続けていくなんて、出来る?」

 わかっていた。今の生活はとても大切だけどそれを続けていったら、ずっと罪悪感を抱えていくことになる。

「時間が掛かると思うし、辛くて大変だけど、治せないわけじゃない。私達、一人じゃないでしょう?」

 弥生は俺の手を握って言った。俺は弥生の視線を受け止めると、迷いが吹っ切れた気がした。弥生の手を握り返し、覚悟を決める。

「うん、そうだよな。このままじゃ、いけないよな。……また、迷惑を掛けるよ」

「迷惑だなんて思ってないわ。私も、夕実もね」

 弥生は優しく笑った。


 次の日、私は病院を訪れた。早瀬君の病室へ向かい、ノックして中へ入る。扉を掛けた途端、驚いた。

「先輩……!?」

 早瀬君のベッドのそばに先輩がいた。

「よぉ、相沢」

「どうして……?」

「どうしてって見舞いだよ。この間の卒園式の写真を早瀬君に見せていたところだ」

「こんにちは、相沢さん」

 早瀬君の手元には現像した写真があった。先輩家族が写っている。

「それに、この間のことを早瀬君に話した」

 私が先輩から早瀬君に視線を移すと、早瀬君は申し訳なさそうに言った。

「すみません。僕が弱音を吐いたせいで、おふたりを困らせてしまいました」

「いや、困ってなんかないよ。むしろ、ちゃんと決心がついた」

 そう言うと、先輩は私に振り向いた。

「入学式が終わったら、次の日に元に戻るよ。だから、大丈夫だ」

「……いいんですか?」

「あぁ。早瀬君の手術が入学式の三日後になったそうだ。だからそれよりもなるべく早く戻る必要がある。……夕実がもう少し大きくなったら、ジェットコースターに乗せる約束をしているからさ、ちゃんと治すよ」

 先輩の変わりようを不思議に思う私に対し、先輩は悩みが吹っ切れたように言った。


 桜が満開の入学式当日、夕実は黒の上着にチェックのスカートを穿いていた。俺と弥生が夕実を連れて地元の小学校へ向かった。

 入学式の間は保護者席から新入生の席を撮ることは叶わなかったが、式の後にクラスごとに教員や保護者らを交えた集合写真を撮った。その後も体育館から教室に移動して担任が来るまで、俺は夕実の写真や黒板に書かれた『入学おめでとう』を撮った。

 家に帰る前に、俺が言った。

「あそこで写真を撮ろう」

 学校の門の前だった。入学式の看板の横に立ち、卒園式の時のように写真を撮る。

「ちゃんと撮れてるね」

「そうだな。これで、パパも頑張れる!」

 俺達家族は手を繋いで家に帰った。



                           ー続ー

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