第6話

 二日後、弥生さんが僕の病室を訪れた。

「こんにちは、早瀬君」

「弥生さん……! 旦那さんのお見舞いですか?」

「もちろん、主人もだけど、早瀬君の具合もどうかと思って」

「でも、それだけじゃなくて、今日は担当の先生と退院日を相談しに来たんです」

「それじゃ、秀介さん、もうすぐ退院するんですね!」

 弥生さんは笑顔で頷いた。

「この間、主人が検査を受けて、異常がなかったのが確認されたんです。ガンがなくなっているのにはさすがに先生も驚いて何度も確認したみたいですけど、抗ガン剤を投与していたから、一応それのおかげだろうってことになりました。退院しても、様子を見るということでしばらく通院することにはなります」

「いつ退院する予定なんですか?」

「三日後です。もう少しかかる予定だったんですけど、主人がなるべく早く子供に会いたいって先生にお願いしまして……。承諾して下さいました」

「卒園式に間に合いますね。良かったです」

「えぇ。早瀬君のおかげです」

 そこで弥生さんは言葉を区切ると、笑顔から表情を曇らせて訊いた。

「早瀬君の治療はどうなりますか?」

「僕も抗ガン剤です。しばらく投与して、それから手術ということになりました」

「手術ですか……! それはいつ……?」

「四週間は投与される予定なので、その間に様子を見て最終的な決定を出すそうですが、今のところはその四週間後に行なうそうです」

「そうですか……。手術前には元に戻らなければいけませんね」

「その頃には入学式も終わっていますよね?」

「えぇ……。そうですね」

 弥生さんはうつむいた。彼女の様子から、僕は余計なことを訊いてしまったと感じた。やっとこれから家族で過ごせる時間が出来るのに、もう元に戻る時の話をしては、せっかくの家族との時間もそのことに気が向いてしまって、楽しく過ごせないだろう。

「……僕のことは気にしないで、家族の時間を大切にして下さい」

 弥生さんは僕をじっと見つめていたが、ふっと頬が緩み、微笑んだ。

「ありがとう」

 それからは子供の迎えのためと、弥生さんは帰っていった。

「戻りたくない、かなぁ」

 これから家族と過ごしていくうちに、その気持ちが強くなるんじゃないだろうか。もしそうなったらと考えると、家族の顔が浮かんだ。

 僕は自然とため息がこぼれた。


 三日後の昼、無事に秀介さんが退院したと看護師から聞いた。

 秀介さんは今、もうすぐ行なわれる子供の卒園式にワクワクしているのかもしれない。秀介さんは僕から見ると、子煩悩な良い父親の印象だった。

「子煩悩か……」

 僕の父さんにも昔はそういうところがあった。今は僕も成人を迎えて、そうでなくなっているのも当然だが、僕の父さんの子煩悩の熱は、僕が小学校に上がってから徐々に冷めていった気がする。

 兄貴は小学生の時から優秀で成績はもちろん、スポーツも万能で読書感想文や習字でも表彰されており、親も喜んでいた。中学と高校生の時は生徒会長を務め上げ、まさに文武両道だった。   

 唯一、悔しがっていたのは中学生の時、美術で自分の作品が優秀作品として選ばれず、別の同級生が表彰されたことだった。それでも美術の成績は良いほうで、それくらい別にいいじゃないかと当時、僕は思っていた。

 僕自身は小学生の時から兄貴のように優秀な結果を残せず、成績は平均点。スポーツの能力でも他の子と変わらない。

 中学生からは成績に波が出て、良い時と悪い時の差は大きく、しだいに苦手な教科が増え、得意と言えるものは何もなかった。表彰されることも、生徒会長になることもなかった。

 この兄弟の差は親から見るとどう映るだろうか。初めは期待していた分、落胆が大きくなり、弟にはもう失望するしかなかっただろうか。兄が良かった分、弟のダメさが際立って見えている気がしてならない。

 でも、父さんは生きろと言った。当然と言えば当然だが、これからだと言われて少し救われた気がした。

「……またごちゃごちゃ、考えてるなぁ」

 今はただ、元に戻るまでこの病気と共に生活するだけなのに。


 次の日の夕方、珍客が来た。

「先輩、お久しぶりッス!」

 岡野が僕の見舞いに来た。ノックの後にハイテンションで登場したため、僕は開いた口が塞がらなかった。

「びっくりしちゃいました?」

 僕が突然のことに呆然としたまま何も言わないからか、岡野は困ったように頭を掻いた。

「あれ……? やっぱりキャラじゃないことはするべきじゃなかったですかね」

「あっ、いや……びっくりして。来てくれるとは思わなかったし」

「まぁ、そうですよね」

「先輩が入院することになったって聞いて、みんな、びっくりでしたよ。今日はバイトがなくて、学校も昼過ぎまでだったんでここに来ようと思ったんです」

「そうか。正直、こっちも色々驚いたけど、ありがとう」

 岡野は真剣な表情で僕に尋ねてきた。

「……体調、どうなんですか? 胃ガンなんですよね?」

「今日は良いほうだよ。今までは腹痛とか不快感があったけど、抗ガン剤で軽くなっているよ」

「でも、抗ガン剤って副作用とかあるんじゃないですか?」

「うん。でも、大丈夫だよ。たいしたことない」

 僕は心配させないように言ったが、岡野は釈然としないようだった。

「じゃあ、治療は抗ガン剤を使っているんですね。それで治るんですか? 手術は……?」

「する予定だよ。しばらく抗ガン剤を使ってから」

「そうですか。……手術、怖いですか?」

 僕は窓の外を見た。今日は曇り空だ。

「……うん、まぁね。でも、治すためだし」

「そうですね」

 その時、ノックの音がした。扉が開くと、そこには相沢がいた。

「相沢さん」

「こんにちは、早瀬君。……お邪魔だったかな」

 岡野がサッと椅子から立ち上がった。

「あっ! 僕、もう帰るので大丈夫ですよ。先輩、またお見舞いに来ます。それじゃ、また」

 岡野は僕に軽く頭を下げ、帰っていった。相沢さんが僕のベッドに歩み寄り、椅子に座った。

「タイミングが悪かったかな」

「いえ、大丈夫ですよ」

「そうか。……ここへ来るのが遅くなってしまったね」

「気にしないで下さい。相沢さん、忙しいんじゃないですか?」

「うん、実はね。本当は先輩が退院する前に一度、病院に来たんだ。先輩の後に君の所へ行くつもりだったんだけど、研究所から呼び出しがかかってしまって。それから君の所へは行けずじまいだった」

「そうだったんですか。わざわざ、ありがとうございます」

「いや、いいんだ。実験後の君の容体は気になっていたから。……どうだい、具合は?」

「今、抗ガン剤を使っているんですけど、それのおかげで腹痛などは落ち着いています」

「やはり、抗ガン剤か。副作用は?」

「今のところは大丈夫です」

「そうか……。まぁ、個人差があるからね。今後、副作用が現れてくるだろう。それがどういった形で出るかはわからないが……苦しくなったらすぐに先生を呼ぶといい」

 僕は頷いた。

「それじゃ、今は抗ガン剤で様子を見ているのかい?」

「そうですね。四週間ほど投与して、それから手術になる予定です」

「手術か……。四週間なら先輩のお子さんの入学式も終わっているし、手術前に元に戻れる。お腹を切らなくて済むよ」

 一瞬、晶は弥生の顔を思い出した。愁いを帯びた、あの瞳だ。相沢に言うべきか迷ったが、特に弥生が何か言ったわけではないので、晶は言わないでおいた。

「四週間後と言っても、手術の予定はそれよりもう少し後だろうからね」

「もっとかかるってことですか?」

「恐らくはね。まぁ、担当医が最終的にどう判断するかはわからないが、四週間も抗ガン剤を投与し続けたら、体力が衰える。副作用があるからね。手術を行なうには、体力を回復させる必要があるだろうから、休薬期間を設けるはずだよ。手術はそれからだ」

「そうか。それなら良かったです。秀介さんはなるべく長く、ギリギリまでお子さんと一緒にいたいと思うでしょうし」

「そうだね」

 それから僕は気になっていたことを恐る恐る訊いた。

「あの……この間、秀介さんから聞いたんですけど」

「ん?」

 僕の視線が泳いでしまう。どう尋ねたらよいか迷っていた。

「えっと……、相沢さんに妹さんがいたって聞きました」

 相沢さんはすっと笑顔を引っ込めた。

「相沢さんは何で病気を交換する装置を開発したんだろうって秀介さんに訊いたら、妹さんを病気で亡くされたってことを聞いて……それがきっかけじゃないかと」

 相沢さんは目を伏せた。

「そうか……。先輩から聞いたんだね」

「はい」

 相沢さんは視線をガーベラの花に移した。ガーベラを見ているようで見ていない、どこか遠くを見つめる瞳だった。

「妹が亡くなってから、もう二〇年も経つ。私が学生だった頃、妹が白血病で亡くなったんだ。私は妹に何もしてあげられないのが悔しくて、弱っていく妹の姿を見るのが辛かった。生きられる時間があまりにも短く、自分が代わってあげられたらと思うことがあった。だから、妹が亡くなった後もいつかそれを実現出来たらって夢のようなことを考えたんだ」

「それで長い時間を掛けて、夢を現実にしたんですね」

 相沢さんは僕に視線を移した。弥生さんと同じ、愁いを帯びた瞳だった。

「そうだよ。あの時の私のような想いをする人をなくそうと思ったし、何より私がもうそんな想いをしたくなかった。完成するまでは簡単ではなかったけどね。開発したとしても、ちゃんと交換出来るか不安もあった。でも、こうして君が病気を引き受けてくれて、先輩は健康体になり、家族の時間を持てる。君もまた元の健康体に戻る。病気が治るわけではないが、普通に過ごせる時間を持てることは貴重だ。先輩にその機会が訪れたのは嬉しいし、君には感謝している」

 僕は相沢さんの真剣な想いに何も言えなかった。

「……少々、暗い話をしてしまったね。申し訳ない」

「いえ、そもそも僕が不躾に訊いてしまいましたから……」

「君が気にすることはないよ。確かに、病気を交換する装置なんて考えたとしても、本気で造ろうなんて普通は考えないことだから、不思議に思うのもわかる」

 そう言って、相沢は笑った。僕は、後ろめたくなった。

 死にたいと考えることは相沢さんの意に反することだった。



                           ー続ー

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