弐「その名はフレドリク(肆)」

「い、や、だ……」


 狼が突進してくる。


「厭だ、厭ぁ! 死にたくないッ!!」






「オーーーー~~ッ!!」

「ダーーーー~~ッ!!」






 雄々しいバスと、それを支えるバリトン。

 大きな盾型の拡声器スピヰカーを持った警邏けいら服の男が歌子と狼の間に滑り込み、狼の巨体を跳ね返す。

 体勢を崩した狼へ、剣型の拡声器スピヰカーを持った警邏が斬り掛かる。

 狼は首を斬り飛ばされ、蒼い霧となって消えた。


(た、助かった……)


 二人の男性は、警邏――警察官である。

 対音子障害ノヰズのスペシャリスト。男性版の歌姫Divaとも云える、『消音師サヰレンサ』だ。


 女性の声――高音の歌唱は、音子を活性化させる。

 逆に、男性の声――低音の歌唱は、音子を鎮静化させる。


 産業で活躍し、戦場で戦うのが女性の役目なら、歌姫Divaの歌による副作用たる音子障害ノヰズを鎮めるのが、男性の役目なのだ。


「乙種音子障害ノヰズ、制圧完了。どうぞ」


 警邏の一人が何処かと通信し、


「君、大丈夫かい?」


 もう一人の警邏が、歌子に駆け寄って来る。

 ――先ほど歌子を助けて呉れたローブ姿の男は、いつの間にかいなくなっている。


「歌唱反応を検知したんだが……君、歌姫Diva候補生かな? 氏名と住所を云いなさい。正直に話せば、減刑措置もあるから」


「――――ッ!!」


 歌子は咄嗟とっさうつむく。


不味まずい不味い不味い不味いッ! 千歳に迷惑を掛けるわけにはいかないッ!!)


 鼻歌だけとは云え、中之島外での無免許歌唱は重罪。

 自分が捕まってしまえば、自分の身元を引き受けて呉れている千歳に、多大な迷惑が掛かる。

 社長を目指す彼女の、致命的な汚点になり得る。


「すみませんッ! ウチ、急いでてッ!!」


「コラッ、待ちなさいッ!!」


 慌てて立ち去ろうとするも、警邏に腕を掴まれた。


「ちゃんと顔を見せなさい」


「厭ァ!!」


 その時、


『お困りかな?』


 ふと、声が聞こえた。

 見れば、路地の暗がりに、先ほどのローブの男が立っていた。

 歌子はわらにもすがる思いで頷く。


『目を閉じろ』


 閉じた。

 次の瞬間、まぶたの向こうで猛烈な光が発せられ、警邏たちの混乱する声が聞こえ、そして気がつけば、歌子は再び、ローブの男に手を引かれて走っていた。



   ♪   ♪   ♪



 気がつけば、繁華街を歩いていた。


流石さすがに巻いただろう』


 男が云って、手を離した。


「あっ、あの! ありがとうございました! 二度も助けて頂いて――」


『まだ喉が興奮しているな。コレを舐めておけ』


 男性がローブの中から飴玉を取り出す。


「あ、ありがとうございます……」


 素直にもらって口に放り込む。甘いかと想像したが、味はしなかった。


「これ、何ですか?」


『喉の音子を鎮静化させる薬』


「へぇ、そんなものが……」


羅馬ローマじゃ屋台でも売っている』


羅馬ローマ……」


 改めて、男の姿を見た。

 身長は一八〇サンチほど。

 全身をすっぽり覆う黒いローブを着ていて、口元も隠れている。

 同色のフードを目深に被っていて、髪の色は分からない。

 サングラスをしているから、瞳の色も。

 だが、顔立ちは西洋風だと分かった。羅馬ローマ人なのかも知れない。

 年も若そうに見える。

 ……だが、全体的には如何にも不審者風の男だった。


「あの、お名前は……」


『フリヰドリッヒ。フレドリク、の方が云いやすいかも』


「フレデリカ?」


『俺が女に見えるか?』


 見えない。

 高身長に、細いながらも鍛えていそうな体つき。

 当然ながらバストはない。が、ローブの上からでも胸筋があるのが伺える。

 そして、今になってようやく気づいた。


「……喋っているのは、肩のお人形?」


『そうだ。俺は声が出せない』


 男がローブの下から鍵盤キヰボードを出して見せる。

 片手用の鍵盤キヰボードを物凄い速度で以てブラヰンドタッチし、


『だからコイツに喋らせる』


 犬なのか猫なのか、はたまた兎なのかも善く分からない謎のお人形が、男性のボヰスを発する。


「お、自動人形オートマタ!? なんて滑らかな動き……それに、さっき歌唱してましたよね、この子!?」


羅馬ローマでも最新のモデルだ』


「ほ、欲しい……分解したい!!」


『やらん。俺が喋れなくなる』


「でも、どうして声が……? あっ、御免なさい、立ち入ったことを……」


『小天使病だ。向こうじゃ珍しくもない』


 フレデリカの話と云い、このフレドリクの話と云い、羅馬ローマというのは修羅の国か何からしい。


「それであのっ、何かお礼をさせて下さい!」


『なら、飯を奢って呉れ。流浪の旅の途中で、金欠なんだ』

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