弐「その名はフレドリク(参)」
》同日 二十一時十二分 夜の大阪 ――
飛び出してきた。が、行く当てなど在りはしない。
無我夢中で走って、走りつかれて歩き出し、歩き疲れて立ち止まって見れば、懐かしの工房に来ていた。
土地のことは、千歳が
入り口のドアに触れ、鍵を持っていないことに気づいた。
「…………はぁ」
ため息を吐くと、口から蒼い光が漏れ出た。
「えっ」
ただの吐息が、図らずも歌唱になっている。
歌唱にはコツがいる。喉仏――甲状腺軟骨を引き絞るように力を込め、甲状腺に沈殿した
歌唱と云うのは、個人の歌唱に対する適正――甲状腺内の
だから恒常的に高密度
だが、誰もが
フレデリカのように、髪が蒼くなるまで音子を浴び続け、障害も抱えずにあれほどの歌唱力を得る人材は、万に一人もいないだろう。
(フレデリカ……)
また、フレデリカのことを考えている。
彼女に口付けされた手の甲が熱い。
「~~~~♪」
無意識に鼻歌を歌っていた。周囲で蒼い音子がパチパチと踊り出す。
「あ、ヤバ」
その時、視界の端に違和感を感じた。
宵闇の中、薄暗い道路の先で、蜃気楼のように空間が歪んで見える。
その歪みは徐々に質量を帯びていき、やがて子犬の姿に変わる。
「あっ、可愛い!」
『
濃密度な音子が人間の制御を離れて顕現する事象である。
歌子は警戒するでもなく子犬型
昔から、歌子の周りには
だから、本来は災害に分類される事象に対して、歌子が恐怖を感じることはなかった。
子犬に向かって手を差し出す。
撫ぜようと思ったのだ。すると子犬が、
「キィィィイイイィィィイィィイィイイシャァアアァァァァアアアァアアアァアッ!!」
金切り声を上げた。
途端、可視化された音子が蒼い突風となって吹き荒れ、歌子は吹っ飛ばされる!
「えっ!?」
数メヱトルほども飛ばされ、尻餅をついた歌子は、腰の痛みに悶絶しながらも、状況が理解出来ない。
見れば、子犬が全長二メヱトルはあるであろう巨大な狼へと姿を変えている。
「ひっ――」
歌子は明確に恐怖する。
狼が一歩、また一歩と近づいてくるが、体が動かない。
狼が、歌子の頭に被りつこうと大きな口を開いた時、狼の腹の下に、手のひらサヰズの何かが投げ込まれた。
――ィィィィィィィィィィィィィイイイイイイイイイイインッ!!
その何かが爆発し、狼が弾け飛ぶ!
『立てッ! 走れッ!!』
耳元で声がして、気がつけば歌子は、何者かに手を引かれて夜の大阪を走っていた。
何者かは全身をすっぽりと覆うローブを羽織っている。何者かの背は高い。引っ張る力は強く、声は男性のものだった。
「ガァァァァアアァァァアアゴォォォオォオオォオォオオッ!!」
背後から狼の咆哮。
『地縛型ではないとは、厄介だ』
男が立ち止まる。
ローブの中から取り出したのは、
「す、
『下がっていろ』
ローブの下から犬か猫か善く分からない人形がもぞもぞ這い出てきて、男の肩にしがみつく。
男が人形の口元にヰンカム
『オーーーー~~』
可愛らしい見た目に反して、人形から野太い声が発せられる。
男が狼に向かって駆け出し、
「ギャァアァアァアアアッ!?」
右の前足を斬り飛ばされ、絶叫する狼。
「嗚呼……」
歌子は尻餅をついてしまって動けない。目の前で繰り広げられる突然の死闘に、理解が追いつかないでいる。
「嗚呼ぁ……」
歌子の声が音子を活性化させ、周囲の空気が蒼く輝く。
狼がその蒼を吸い込み、瞬く間に前足を再生させる。
『お前! 喉を落ち着かせろ!』
狼と斬り結びながら、男が云う。
「お、落ち着かせろ云うたって、一体どうすれば」
『喋るな!』
狼が物凄い勢いで男に突進し、男が跳ね飛ばされる。
狼が、こちらを見る。目が、合った。
「い、や、だ……」
狼が突進してくる。
「厭だ、厭ぁ! 死にたくないッ!!」
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