弐「その名はフレドリク(壱)」

》同日 二十一時一分 大阪・撒菱まきびし邸の自室 ――渡瀬わたせ歌子うたこ


 いつまで経っても興奮が収まらない。

 胸が苦しくて、お夕飯は八人前しか入らなかった。


「~~~~♪」


 歌子はベッドに寝転んで、小さく鼻歌を歌う。

 音子おんしが反応して、キラキラパチパチと蒼い光が部屋で踊る。

 無免許の歌姫Diva候補生が中之島じょがくいん以外の場所で歌唱するのは法律で禁じられている。

 が、撒菱まきびし邸は何処もかしこも厳重な防音処置が成されていて、これくらいならば警邏に発見されることもない。


 フレデリカの歌を思い出す。

猪突猛進ヰノシシ女』のはずの自分が、自由に、力一杯歌えて、しかも音子おんしが全く暴走しなかった。

 フレデリカ。自分の巨大な歌唱力を、さらなる高みへと引き上げて呉れる女性ひと

 千歳の手前断ったが、本心ではフレデリカと毎日弐重唱デュヱットしたかった。


 それはつまり、フレデリカの弐重唱デュヱットになりたい、と云うことだ。






「千歳よ。入ってもいいかしら?」






 部屋の外から、千歳の声。


「ひゃアッ!!」


 まさにその千歳に対して不義理なことを考えていた最中だったので、情けない声が出てしまった。

 起き上がり、姿勢を正す。


「どうぞ」


 部屋の鍵は掛けていない。

 果たしてワンピース姿の千歳が入ってきた。

 自分の神様は今日も可愛い。が、神様は随分と場都合ばつの悪そうな顔をしている。

 千歳は勉強机の椅子に座り、立ち上がってベッド――歌子の隣に座り、また立ち上がって歌子の前に立ち、意を決したようにこう言った。


「歌子、あのフレデリカって転校生を、――潰すわよ」


 歌子は仰天する。


「つ、潰す……!? どう云うことやの!?」


「歌子、貴女の弐重唱デュヱットは私がなるわ。それはい?」


「も、勿論! さっきもそう云うたやん!」


「そう……改めて聞けて安心したわ。ありがとう」


 千歳がお礼を云うなんて滅多にないことだ。

 自分がフレデリカに惹かれてしまっていることを、見抜かれているのかも知れない。


「私は何が何でも実技試験で主席を取って、飛び級の資格を得なければならない。それは何度も話したわね?」


「うん」


 一刻も早く卒業して、撒菱重工を継ぎたいのだと云う。


「貴女と私の弐重唱デュヱットなら、誰が相手だって楽勝――…そう思っていたわ。今日までは。でも、フレデリカが相手では、そう云い切る自信がない」


「だから……つ、潰す?」


「そう大袈裟な話ではないわ。フレデリカは今後も貴女に付きまとうことでしょう。その時に、喉に悪いこと――例えば冷たい炭酸飲料を大量に勧めたり、コッソリお酒に誘ったり、そう云うことをして欲しいのよ」


 歌子は三ツ矢印のサヰダーが大好きで、む。

 反対に千歳は全く呑まない。呑んだらすぐに喉を壊すからだ。


「あとは……そうね、汗をかいた後に銭湯に誘って、水風呂に長時間入らせたりとか?」


『潰す』というのは『喉を潰させる』と云う意味であり、手が後ろに回るような空恐ろしい話ではないらしい。

 もっとも、飛び級が懸かった実技試験を前にして、喉が命の歌姫Diva候補生の喉を潰すと云うのは、相手の人生を潰すに等しい暴挙であることに変わりないが。


「貴女も一緒に付き合うことになるけれど、貴女なら平気でしょ?」


 そうなのだ。記憶のあるここ五、六年前からこっち、自分は体を壊したことがない。

 血を吐くまで歌っても、翌朝にはケロリとしている。

 祖父からは、「お前の体は特別製だから」と善く云われた。

 なるほど、老いて多数の病を抱えていた祖父からすれば、歌子の肉体フィジカルは特別製に他ならないだろう。


「ちょうど明後日は日曜日よ。明日、あの女をデヱトに誘いなさい。有馬で日帰り温泉旅行なんてどうかしら?」


 千歳が悪い顔をしている。

 自分が崇拝する神様のそんな顔を見て、歌子は気分が悪くなる。


「千歳……」


「そうよ、それがいいわ! 朝から晩までいろんな温泉に引きずり回して、水風呂にもたくさん入らせて体温をアップダウンさせて。昼には出来るだけ辛い物を食べさせなさい。夜には炭酸入りのお酒をたくさん呑ませてカラオーケで喉自慢大会を開くのよ。途中でアイツが寝たならしめたもの。徹底的に体を冷やさせて風邪を引かせるの。遅くなったらオートジャヰロで送れば善いのだし――」


「千歳ッ!!」


 思わず、咎めるような声が出た。


「…………」


 千歳は黙る。その顔には表情がない。

 実技試験で好成績を収めることのメリットは、何も飛び級の権利だけではない。

 試験の結果を、多数の企業や官公庁が見ているのだ。

 年二回行われる実技試験は、云わば歌姫Diva候補生たちによる将来の奪い合いなのだ。

 神聖な、戦いなのだ。


 ……千歳のことが、ひどく薄汚れているかのように思えた。


「……ウチ、ちょっと散歩行ってくるッ!!」


 たまらず、家を飛び出した。

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