壱「その名はフレデリカ(陸)」

 歌子が呼吸を整えた。

 噂の転校生の実力はどんなものだろうかと、訓練場には野次馬が集まりだしている。


「歌子、君はどんな歌が歌いたい?」


「う、ウチは――…」歌子は空を見上げ呼吸して、「ラァーーーー~~」


 フレデリカが息を吸い、そして、嗚呼、そして――――……


 気がつけば、千歳はその場に座り込んでいた。

 まるで悪夢だ。悪夢そのものだ。



   ♪   ♪   ♪



》同日 十六時三分 大阪府立歌唱女学院・訓練場 ――渡瀬わたせ歌子うたこ


(――――えッ!?)


 気がつけば、歌子は空にいた。

 遠く眼下に訓練場の地面があり、息が詰まりそうになる。


「大丈夫。ゆっくりと息を吸って」


 フレデリカが、歌子の手を取って微笑んでいた。


「ほら、一緒に歌おう。ツァーララリラッツァツァーー~」


 真似して歌う。

 驚くべきことに、歌子とフレデリカの体が、ふわふわと空に浮いている。

 そして、二人の周りには、


(わぁ~ッ!)


 先ほどの歌と同じように、無数の水の魚が泳いでいる。

 だが、ただ見上げるばかりだった先ほどとは違い、今度は、まるで触れられそうなほどの距離に魚がいる。

 先ほど、空を見上げて束の間夢想した、『魚と一緒に泳いでみたい』と云う子供じみが願望が、見事に実現している。

 フレデリカの方を見ると、彼女は歌いながら、『お気に召しましたか?』とても云い出しそうな顔でウインクしてくる。


 魚。

 無数にいるこの魚が、またすごいのだ。

 魚の体内が輝いているのだ。


(あれは――火? えっ!? 水の中に火を生成し、維持しとんの!? しかも、魚によって色が違う……色が変わるほどの高温を生み出して、異なる温度を管理して、しかも水を蒸発させないって、人間業!? ――それにしても、綺麗)


 色とりどりに輝く魚たちの中で、一緒になって泳ぐ。


「僕と踊ってれるかい、歌子?」


 フレデリカが手を差し出してきて、微笑む。


 最早もはや歌ってすらいない。

 ただの発声と、その合間を繋ぐ鼻歌で以てフレデリカは音子おんしを思うさま操り、一体全体どう云う原理なのか、歌子はまるで大地に立っているのと同じような安定感で、ステップを踏むことが出来る。


「君の歌は美しい。だけど」


 踊りながら、フレデリカが耳元で囁く。


「音子たちは、君の歌に素直には答えて呉れない――そうだろう?」


 歌いながら、歌子はうなずく。

 歌子の歌は、いつも暴走する。

 千歳が――今はフレデリカが――支えて呉れなければ、音子がしっちゃかめっちゃかに散乱してしまい、思い描いていた形を維持出来なくなる。


「歌子、君は誰の為に歌っているんだい?」


(千歳の為)


「違うだろう? 歌はいつだって、自分の為に歌うものだよ。歌を歌う。歌を楽しむ。それが、歌の根源だ。音子なんてのは、音学なんてのは、この十年そこらでぽっと出て来た新参者に過ぎない。歌はいつだって、楽しむために歌うものだ。もう一度聞くよ? 君の歌は、誰の為の歌だい?」


(自分の……為? ウチの為に、ウチは歌ってええん?)


 途端、魚たちの輝きが増した。


「――素晴らしいッ! 本当に素晴らしいよ、歌子! 何なんだ、この音子の活性度! 羅馬ローマでだって見たことがない!」


(けどこれは、全部フレデリカの歌や)


「そんなことはないよ」


 歌子の心を読んでいるかの如き正確さで、フレデリカが云う。


「確かに、この浮遊も魚たちの回遊も、全て僕が操っている。けれどその力の源は、君がその輝かしいばかりのソプラノで以て集めて呉れた音子だ。これだけ多くの音子を従える力は、この僕ですら持ってはいない。これは、この力は、間違いなく歌子だけのものだ」


 これほどの実力者に褒められる喜びを、どのような言葉で形容すれば善いのだろうか。

 歌子はただただ、心が震えた。

 キラキラと輝く空の中で、フレデリカと一緒に踊った。

 それが数分ほども続いたころ、


「流石にちょっとしんどくなってきたよ」


 フレデリカが云った。


「僕にしっかりつかまってて!」


「え? ――ぅひゃアッ!!」


 途端、足場が無くなった。


(お、落ちる――…?)


 気がつけば、水中にいた。

 フレデリカが、魔法のような歌さばきで以て、魚たちの水を巨大な空中プールに変えたのだ。

 二人、ゆっくりと地面へ降りていき、足がついた瞬間、水は幻のように消えてしまった。


(うえぇ……服がびしょびしょ――やない!?)


 乾いている。

 先ほどまでの出来事全てが嘘だったかのように、服はからっからに乾いていた。


「なっ……」


 感服した。と同時に、歌子は、これ以上にないほど、フレデリカに心酔してしまった。



   ♪   ♪   ♪



》同日 十六時十二分 大阪府立歌唱女学院・訓練場 ――撒菱まきびし千歳ちとせ


 歌子が激しく肩で息をしながら、呆然とした様子でフレデリカを見つめている。

 その眼差しは熱い。

 歌子はきっと自分の口が笑っていることに気づいていない。


「もし善ければ、また一緒に踊って呉れるかな?」


 神の奇跡か、はたまた悪魔の魔術の如き歌唱を披露したフレデリカが、キザったらしく礼をする。

 フレデリカに口付けされた己の手の甲を、歌子が呆然と見つめている。


「うた、歌子……」


 からっからになった喉で歌子に呼びかけると、果たして歌子がこちらを見て、一瞬、ひどく詰まらなそうな顔をして、次の瞬間、目をそらし、


「せ、せやな! 気が向いたらセッションお願いするかも……やけど」


 もう一度、こちらに顔を向け、精一杯の笑顔を見せる。


「やっぱり、ウチは千歳と一緒の方が歌いやすいわ。……御免、フレデリカ」


「ふぅん」


 フレデリカの、余裕を含んだ声が聞こえてくる。


「ま、今日のところはいいさ。けど僕は歌子、君を諦めてはいない。ねぇ、撒菱千歳さん? これから毎日この時間、歌子を懸けて弐重唱デュヱット勝負をすると云うのはどうだろう?」


「なッ、そんなこと――…」


 言いかけて、それ以上の言葉を紡げなかった。

 歌子が、ひどく物欲しそうな顔で、フレデリカを見つめていたから。

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