壱「その名はフレデリカ(伍)」

》同日 十五時五〇分 大阪府立歌唱女学院・訓練場 ――撒菱まきびし千歳ちとせ


 放課後、千歳は中之島に設けられた広大な広場――歌姫Divaの卵たちが思うさま暴れることのできる訓練場に立つ。

 向かいには、余裕の笑みを浮かべたフレデリカが立っている。

 正直、足が震えそうだった。

 歌子のクラスに複数の情報網を持つ千歳は、フレデリカの一挙手一動足に至る全ての報告を逐一受けた。


(コイツ……本物の天才だわ)


 歌唱の訓練では、コップ一杯の水をプール一杯分に増やして見せて、かつそれを教師が指定する量へミリリットル単位で合わせて見せた。

 どころか余技としてその水を宙に浮かせ、蒸発させて虹を架けて見せたと云う。

 座学でも、日本語と日本の歴史こそ凡庸な様子だったが、科学と化学で卓越した知識を見せ、数学においても歌唱による増幅を含めた弾道計算で本職の軍人歌姫Diva顔負けの能力を発揮して見せた。

 音子回路オルゴールの授業ですら、わざと数本の線を脱落させている回路を見て、ものの数分で線を引き直し、音子回路オルゴールを起動せしめたと云う。


「今から、交代で歌子と一緒に歌唱する。歌子がより相性がいと感じた方が、歌子と弐重唱デュヱットを組む権利を手にする。善いかな?」


「ちょちょちょっ、アンタ、勝手に決めんとってぇな!」


 フレデリカの提案に、歌子が噛みつく。


「善いわよ、それで」千歳はうなずく。「その代わり、私が勝ったらフレデリカさん、貴女は金輪際、歌子に近づかないで」


「分かったよ」


 この勝負、正直云って千歳に受けるメリットはない。

 勝負など受けず、歌子にはただ、『フレデリカとは弐重唱デュヱットを組むな』と命じれば善い。

 歌子は従うだろうし、もとより歌子に、フレデリカの狂った求婚プロポーズを受けるつもりはなさそうだ。


 が、それでは駄目なのだ。


 歌子は自分のことを、『神様』と呼んでれている。

 彼女の祖父を助け、彼女に衣食住を提供し、彼女に夢を魅せている自分は、なるほど神様かも知れない。

 が、それだけでは駄目だ。

 自分はこの半年、歌子に対して虐待――いや、拷問にも等しい『教育』を施してきた。

 そうでもしなければ、彼女を歌唱女学院に入れることが出来なかった。

 そして歌子は、逃げることなくその全てを呑んで、呑んで、成長して呉れた。

 それは、歌子が自分のことを神だと崇めて呉れていればこそのことである。

 これからも、より過酷なことを歌子に求めることがあるだろう。

 そうなった時に、ぽっと出の転校生からコソコソ逃げ回るような自分のことを、歌子は命懸けで信じて呉れるだろうか?

 自分は、歌子の神であり続けなければならないのだ。


(何も、歌唱力でアイツに勝たなきゃならないってことじゃアないわ。歌子を支持して、気持ち善く歌えるようにしてあげれば善いのよ)


 それこそ、自分は半年もの間、歌子と一緒に歌ってきたのである。

 負ける気はしないし、負けるわけにはいかない。


「最初は、私からね。――さ、歌子」


「う、うん……」


 二人して『はち式練習機乙型』のヰンカム収音機マヰクを装着し、拡声器スピヰカーを構える。


 千歳が腰から下げている水筒の蓋を開けると、


「ラァーーーー~~」


 歌子が、天にまで伸びるかのような曇りのないソプラノを高らかに歌い上げる。

 途端、水筒の中から水が飛び出してきて、宙に舞い上がり、訓練場中を覆い尽くす巨大な水塊となる。

 水塊はぶるぶると震え、今にも爆発しそうだが、


「ダバダバラァーー~ラダラルラーー~」


 それを、メゾ・ソプラノで以て下支えする。

 水塊の震えがぴたりと止まり、歌子が嬉しそうに微笑みかけて呉れる。


「ララルラァーー~ララルラァーーーー~~」


 歌子の歌唱が続き、水塊が空を泳ぐ無数の魚に変じる。

 訓練場のそこかしこにいた見物人から、歓声が上がる。


 歌子の強力な歌唱は、蒼い音子おんしの流れとなって可視化される。

 そしてそれを見れば、歌子がやりたがっていることが分かる。

 音子回路オルゴールの回路を読むのに似ている。

 音子回路オルゴール技師としての長年の訓練が、そしてこの半年間、毎日歌子と一緒にいた日々が、確実に生かされている。

 必死になって制御を続ける。

 歌子の歌は暴れ馬。少しでも気を抜けば、音子があらぬ方向で素っ飛んでいって、綻びが生まれ、歌は崩壊してしまう。

 だから千歳は目を皿のようにして、蒼い光の動きを追い、不穏な動きを見せるところに歌唱を被せる。

 集中のし過ぎで頭がぼーっとしてくるが、今は我慢だ。


 数分ほども魚を泳がせたところで、歌子の額に汗が浮かぶ。

 歌子に視線を送れば、しっかりと目が合った。

 アイコンタクトを取りたい時に、ちゃんと取れる。単純だが、弐重唱デュヱットを組む上でとても重要なことだ。

 二人して声を振り絞り、フィナーレとする。

 魚が姿を消し、後には虹が残った。


「はぁッ、はぁッ――どう、歌子!?」


 上気しながら歌子に話しかけると、


「最ッ高や!!」


 歌子もまた、ひどく興奮した様子で笑顔を見せる。


「やっぱりウチの弐重唱デュヱットは千歳しかおらん!」






「それはどうかな?」






 フレデリカが言った。彼女は歌子に向かって西洋の男性貴族風の礼を取り、


「僕と踊って呉れるかい、歌子?」

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