第壱楽章「二人のフレデヰ」

壱「その名はフレデリカ(壱)」

》一九二七年六月一日 七時十二分 大阪・撒菱まきびし邸の食堂 ――渡瀬わたせ歌子うたこ


 半年が過ぎた。

 ……祖父は未だ目覚めない。

 が、容体が悪化しているわけでもないので、歌子は努めて心配し過ぎないようにしている。


 あっと云う間の半年間だった。


 歌子は何十人もの家庭教師を付けられて、早朝から夜中まで毎日毎日徹底的に教育された。

 ありとあらゆる勉学・教養を学び、歌唱を学び、礼儀作法を学び、ピアノ、ヴァヰヲリン、お琴、刺繍、茶道に華道に書道に剣道に薙刀道に柔道に馬術にバレヱと、血を吐くまで、気絶するまで徹底的に叩き込まれた。

 いくら政府が歌姫Diva養成に前向きとは云っても、歌唱女学院は真に選ばれし女子、ヱリヰト中のヱリヰトにしか入れることを許されぬ雲の上の世界。

 下町のじゃりン子に過ぎない歌子を、彼女の神である千歳ちとせは徹底的に磨き上げた。


 ――歌子は三月の入学試験で及第点を取り、合格した。


 家を失くし、寒空の下でぴぃぴぃと泣いていた歌子は今や、誰もが羨望の眼差しを向ける、大阪府立歌唱女学院の学生である。


『さて、続いて本日の、大天使様及び小天使様のご様子です』


 食堂にかけられた大型テレビジョンが、つい数年前までは中華民国新疆しんきょうと呼ばれていた――今は新星しんせい羅馬ローマ帝國の版図と成り果てた砂漠を映し出す。

 数時間の時差がある新疆しんきょうでは、地平線の向こうで真っ赤な朝日が昇り始めている。

 色付きのテレビジョンなど、ほんの数年前までは考えられなかった。

 音子回路オルゴールの進化速度と云うのは目を見張るものがある。


もっも……このお屋敷こそが、ある意味日本の最先端なんやろうけど)


 納豆ご飯に味噌汁とだし巻き卵。ホウレン草のおひたしに焼き鮭。

 女中さんたちが次々と運んでれる最高の朝食をもりもり食べながら、歌子は思う。


 何しろ天才技師たる千歳が、採算度外視で次々と試作品を開発していくのである。

 屋敷の中を歩けば、歌子ですら使い方が分からない、最先端も最先端の謎音子回路オルゴールがそこら中に転がっている。


『今日も我らが大天使様が、お麗しいお姿で以て我々の汚れた心を浄化して下さいます』


 羅馬ローマの国営放送は宗教臭さが鼻につくが、情報源としては有用なので我慢して見るしかない。

 テレビジョンの中では、『大天使』の姿が――十一年前、突如として空から降って来て、大英帝国を二つの島ごとこの世から消し去り、世界中に歌の力の源たる『音子おんし』をバラ撒いて、世界の法則を一変させたバケモノの姿が、映し出されている。


 軍艦に例える人がいる――確かに、あんなにも巨大で、何万人もの人間を収容可能な移動物体で、なおかつ戦闘能力を有しているとなれば、軍艦というのは言い得て妙である。

 だが、大きさが違い過ぎる。


 くじらに例える人がいる――白くつるりとした表面や、細長い円筒を寝かせたようなその様は、なるほど確かに鯨に似ている。

 背中の噴出口から音子を周囲にばら撒く様子は、まるで鯨の潮吹きだ。

 だが鯨には体表に無数の顔が付いていたりはしないし、ましてやその口が歌唱して風や炎を発し、進路上の邪魔な山や森や街を更地にしたりはしない。






 全長、およそキロメヱトル。幅、高さともに数せんメヱトル。

 下腹部から生やした無数の手で以て、ずりずりと腹を擦りながらゆっくりと前へ進んでいく異形――『大天使』だ。






(可愛い……)


 と千代子は内心で呟く。

 千歳や女中たちなどは、大天使の体表に張り付いた無数の顔をして「気持ち悪い」「生理的に無理」と云う。

 無数の腕も、「佰足むかでみたいでちょっと」と。

 けれど歌子は不思議と、大天使の外見に嫌悪感を抱かない。

 どころか、必死に進む姿がいじらしくて可愛いとすら感じる。

 ……尤も、あの腹で轢き潰される街や畑の方からすれば、たまったものではないだろうが。


『現地の音度は参拾さんじゅっパーセントです』


流石さすがは大天使周辺。音子慣れしていない人やとあっと云う間に中毒死や)


『風向きは東、風速は概ね参メヱトル秒です。大陸以東は小天使様の祝福に包まれることでしょう』


 羅馬ローマ国営ニュースが云うところの『小天使』とは音子のことだ。

 昔は黄砂に悩まさるばかりだった大陸からの風も、今となっては貴重な音子を運んでれる、恵みの風である。


「――歌子! 貴女、まだ食べてるの!?」


 既に身支度を整えた千歳が、新聞紙を片手に食堂に入ってきた。

 女学院の制服――きらびびやかな刺繍の入った簡易ドレスを纏っている。

 歌子の神様は今日も可愛らしく、そして美しい。


「何人前?」


「これで拾参人前でございます」


 千歳の問いに、配膳中の女中が答える。


「全く……それでどうして太らないのかしら? と云うか本当、何処に消えているの!?」


「あははっ、くすぐったいぃ!」千歳にお腹を撫でられて、歌子は笑う。

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