弐「我、夜逃げを決行せり(陸)」

》同日 二十三時五十五分 大阪・撒菱まきびし邸 ――千歳ちとせ


 歌子が歌唱した、その次の瞬間、目の前が水で埋まり、千歳は激流に押されて壁で背中を強く打ち、呼吸が出来ずにもがき、呼吸が出来ないその理由が、背中を打ったこともそうだが、何より部屋が既に水没しているからだと知った。


(死ぬッ!! このままじゃ溺れ死ぬ――…いいえ、ッ!!)


 押し流された先が扉のそばだったのは不幸中の幸いだった。

 千歳が無我夢中でドアノブを回すと、水圧に押されてドアが開いた。

 開発室から自室へと、大量の水が雪崩れ込む。


「た、助か……がぼぶばッ!?」


 助かってなどいなかった。自室はあっという間に水没した。

 今度は先ほどよりも多少冷静になって、千歳は窓の鍵を開ける。

 観音開きの窓が開き、気が付けば千歳は水浸しの中庭で倒れていた。


「うっ……」


 身を起こすと、近くに歌子が倒れていた。自分と同じように流されたのだろう。


「歌子……歌子?」


「げぇっ」


 歌子が大量の水を吐いた。


「げほっげほっ……はぁっ、いったい何が――」


 いったい、何が。

 聞きたいのはこちらの方だった。

 歌子が歌唱した瞬間、信じられない量の水が瞬時に発生したのだ。


「あ……あはっ、あはははっ」


 近くから笑い声がして、それが己の喉から発せられていることに千歳は気づいた。

 そう、何が起こったのか、自分は既に気づいている。






 プロのヱネルギヰ歌姫Divaでも、増幅率は数倍程度。

 それを、この少女は――この、謎の生命体は、一体全体何倍にして見せた!?






なんだ……なんなんだ何なんだこの子は!?)


 分からない。だが一つだけ確かなことは、


(今ここで、この魚を逃してはならないッ!!)


 よろよろと立ち上がり、転びそうになりながら歌子に駆け寄る。


「歌子ッ!!」歌子の肩を掴み、力の限り叫んだ。「貴女、私専属の歌姫Divaになりなさいッ!!」



   ♪   ♪   ♪



》一九二六年十二月十一日 〇時〇分 大阪・撒菱まきびし邸の庭 ――歌子うたこ


 体中が痛い。せき込むと、口から大量の水が出てきた。


「いったい何が――」


 朦朧としていると、千歳が駆け寄ってきた。どうやら無事ならしい。


「歌子ッ!!」


 千歳が肩を掴んでくる。

 その力はびっくりするほど強い。


「貴女、私専属の歌姫Divaになりなさいッ!!」


(………………………………………………………………………………歌姫Diva?)


 歌姫Diva。憧れの職業。諦めざるを得ないと思っていた、己の夢。

 意識が急速に明瞭になっていく。


歌姫Diva!? ウチが、歌姫Divaに!?)


「歌子! 貴女が私専属の歌姫Divaになってれたら、御祖父さんの面倒は私が見てあげる! どれだけお金が掛かろうと、全額私が持ってあげる! 貴女の生活も保障するわ! 最高の教育を施してあげる! 来年、一緒に大阪歌唱女学院に入りましょう! だから、嗚呼、歌子! だからね!」


 千歳がギュッと抱擁してきた。


「貴女は今日から、私専属の歌姫Divaよ! 貴女の歌を、声を、喉を、私に捧げなさいッ!!」


「――分かった!」


 千歳に負けない大声で、歌子は応えた。


「なる! ウチは千歳専属の歌姫Divaになる! 千歳はウチの神サマや! 千歳に、ウチの歌と声と喉を捧げるッ!!」



 拾伍じゅうごの冬のとある夜。

 全てを失ったと思い嘆いたその夜に、歌子は希望を手に入れた。





                序曲「ウチの神様」――――Fin.

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