弐「我、夜逃げを決行せり(参)」

》一九二六年十二月十日 二十三時三十五分 大阪・撒菱まきびし邸 ――歌子うたこ


 夢のような時間だった。

 こんなにも美味しいものが世の中にあったなんて信じられなかったし、それをお腹いっぱい食べられるだなんて、幸せ過ぎてどうにかなりそうだった。

 目の前にいる可愛らしい女の子――撒菱千歳ちとせは、祖父を病院に入れさせてれて、その費用を持って呉れて、自分に食事と宿を提供して呉れた。


(千歳ちゃんは、ウチの神サマや……ッ!)


「貴女の部屋は今準備させているから、私の部屋に行きましょうか」


「うんっ!」


 千歳の部屋は、彼女の可憐な見た目に反して物凄く散らかっていた。

 十何畳かはありそうな大きな部屋の、床一面にガラクタが転がっていて、文字通り『足の踏み場もない』有様である。


「これ……もしかして、音子回路オルゴール!?」


 ガラクタの一つ、手のひらサイズの箱を拾い上げて裏面を見てみれば、見慣れた音子おんしの回路が描かれている。


「熱、抽出、ループ、増幅……暖房器具?」


「御明察」


 千歳が満足そうに微笑んでいる。


「ぱっと見ただけで分かるとは、さすがは渡瀬氏のお孫さんね」


「ちょっと動かしてみてもいい?」


「どうぞ。ほら」


 言って千歳が単三音池たんさんおんちを投げ寄越してくる。

 音池おんちを入れてつまみを回すと、


『ドレラレソファソラ・ドレラレソファソラ……』


 と、人間の耳には意味不明な旋律にしか聴こえない音が流れ始める。

 ほどなくして箱の吹出口から温風が噴き出す。


「立ち上がりはやッ! こんな小型でここまであったかく出来るなんて……それに、なんて無駄のない旋律」


 歌子は感心しきり。


「こんなん市販で見たことないで」


「ふふん」


 得意げな様子の千歳。

 歌子は音子回路オルゴール式ヒヰターと千歳とを交互に見比べ、


「え、まさか」


「そのまさかよ。それを作ったのは私」


「えええっ!? 神サマは音子回路オルゴール技師やったん!?」


「……何、神様って」


「あ、いや、こっちの話」


「貴女、音子回路オルゴール技師の癖にまだ気づいていないの?」


「へ?」


「私の名前。撒菱千歳」


「撒菱……嗚呼ッ、撒菱重工の!」


「じゃあ、改めてご挨拶といきましょうか」


 千歳が、西洋貴族のように優雅な礼を取って云う。


「私は撒菱千歳。撒菱重工業株式会社社長の長女にして、やがて撒菱重工を統べる者よ」



   ♪   ♪   ♪



 案内されたのは、千歳の部屋の、さらに奥。

 分厚い防音扉の向こうに、もう一つ大きな部屋があった。


「この防音扉、音子回路オルゴール工房の規格よりも分厚い……どういうことや?」


「ふふっ。歌子、この部屋で見たことは絶対に他言無用よ。――他言したら殺すわ」


「ヒッ……」


 千歳の言葉が嘘か誠かは分からないが、


「……嗚呼……」


 歌子はうめく。

 部屋の壁際に、信じられないものが立て掛けられていたからだ。

 一見すると、中世欧羅巴ヨーロッパの騎士が振り回していそうな長大で肉厚な剣。

 けれどその剣の刃は黒く、近づいて見てみると、微細な穴が無数に空いている。

 そして、束の部分からはコードが伸びていて、コードの先に収音機マヰクがある。


 この武器の名は、『拡声器スピヰカー』と云う。


 収音機マヰクから歌の力を送り込み、刀身内の増幅器アンプで増幅させて、その破壊力を刃から放つ――歌姫Divaが扱う兵器だ。

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