弐「我、夜逃げを決行せり(壱)」

》一九二六年十二月十日 二十二時二十四分 大日本帝國・大阪 ――渡瀬わたせ歌子うたこ


 遠く、音子回路オルゴールの音色が聞こえる。

 夢を失い、家を失い、今や唯一の肉親たる祖父までもを失う危機に瀕した歌子は、夜逃げすることにした。


「うんしょっと!」


 寒空の下、祖父の軽い体をおぶる。

 意味のある抵抗とは思わなかったが、工房はしっかりと施錠しておいた。

 どうせ明日には、あの怖い顔をした破落戸ゴロツキどもにシャッターを蹴破られ、工房は荒らされ、お金に換えられるものは根こそぎ奪われてしまうに違いなかった。


 歌子の平穏な毎日は、今日、唐突に終わりを告げた。


 ……いや、兆候はだいぶ前からあったのだ。

 とどこおる、従業員のあんちゃんたちへのお給金の支払い。

 一向にくならない、祖父の病症。

 一度目の不渡り。

 止められた電気と水道。

 祖父は怖い顔をした人からお金を借りて、それであんちゃんたちに最後のお給金を支払って、あんちゃんたちとはお別れした。

 そのお金も当然返せなくて、怖い顔をした人たちが、「工房を売っ払え」「ここから出ていけ」と言いながら工房で暴れるようになった。


 そして今日、五人の破落戸ゴロツキが工房に押し入って来て、立ってるだけでやっとの祖父を殴り、蹴り、そして――――……


 歌子は気を失い、目覚めてみれば祖父が倒れていて、破落戸ゴロツキどもの姿は無かった。

 ……それが、つい先ほどのこと。

 工房にいたら、またすぐにも破落戸ゴロツキどもがやって来ると思ったから、こうして持てるだけの財産を持って逃げることにした。


「大丈夫、大丈夫やで、じっちゃん。ウチが絶対、病院に連れてったるから」


 祖父を担ぎなおし、キャリーバッグを引いて歩き出す。

 顔を上げる。うつむいていると、涙が出そうだったから。

 近くで音子回路オルゴールが鳴っている。


(お金ないけど……病院、入れてれるやろか)


 不安で一杯だ。

 よわい拾伍じゅうご、歌子は学校に行ったこともなく、常識を知らず、ただただ祖父から音子回路オルゴールのことだけを学んで育ってきた。

 歌子自身は生まれてこの方――もとい記憶のある直近五、六年ほどは、病気になどかかったことがなく、ゆえに病院へのかり方なども知らない。


(けど、兎角とかくじっちゃんを診てもらわな)


 音子回路オルゴールの音色が聴こえる。それも、すぐ上空から。

 そして、バタバタバタバタ……という激しい風の音も。


「んん?」


 空を見上げると、寒空の中にオートジャヰロが浮いていた。


「ええッ!?」


「ちょっとそこの貴女!」


 風音と音子回路オルゴール音の中でもく通る、少女性を帯びた声が聴こえて来た。


「そこの御老体、渡瀬氏じゃアないかしら!?」


 呆然としていると、オートジャヰロから縄梯子が落ちて来て、ほとんど飛び降りるような勢いでソレが地面に降り立った。


「わっ……」


 歌子は、ソレの美しさに思わず息を呑む。

 ――美しい、少女だった。

 年のころは歌子と同じくらいであろうか。

 背丈は歌子よりやや低く一五〇サンチ程度。

 上等な男装シェビロに身を包み、黒髪を結い上げていている。

 モダンな印象の四角い眼鏡の奥に輝くのは、無限の意志力を秘めた力強い瞳。


「御機嫌よう、薄幸そうなお嬢さん。そちらの御老体は伝説の音子回路オルゴール技師、渡瀬げんろう氏で宜しかったかしら? ……って」


 少女の顔色がみるみる悪くなっていく。


「気を失って……? ちょっと、渡瀬氏は体調が芳しくないの!?」


 個人が所有するには高級すぎる玩具おもちゃたるオートジャヰロ。

 如何いかにもい身なり。

 礼儀作法を知っていそうな少女の言動。

 ――お金持ちだと思った。

 助けてれそうだ、とも。

 だから歌子は懇願した。


「お願いしますッ!! じっちゃんを助けてッ!!」

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