第伍話 至弱の弟子(3)
ごとごとと重い音を立てていた荷車が止まった。荷車は二台ほどでその上に大きな樽が載っている。荷車を引いていた人夫たちが顔を見合わせる。
「ここでよい。ここに樽を下してくれ」
荷車の端に腰かけていた枯れ木のような老人が言った。
「本当にここでいいのか。何にもない場所だが」
荷車を運んでいた男たちが当然の疑問を口にした。そう言いながらも言われた通りにした。近くを流れる川の前に樽を並べる。中には液体が一杯に詰まっているのか大の大人が動かすのに苦慮している。
「これ、何だか酷い臭いがするな。じいさん、まさかこの川にこれを捨てるつもりじゃないだろうな」
「そのつもりだとしたらどうする?」と老人。
「止めときな。この川が流れこむ先の湖には龍が棲んでいると言われている。この川を汚した奴はみんな死ぬという噂がある」
「まあ気にするな。ご忠告には感謝するが、こちらもちょっと訳ありでな」
老人は立ち上がった。片足は木でできていて、杖をついてようやく歩いていた。
仕事の金を貰うとそれ以上は老人に構わずに男たちは去った。酒代もたっぷりとはずんで貰えたので詳しい詮索は無用と判断したのだ。
老人は杖を振ると樽を打ち砕いた。古縁流斬撃を受けて、大樽は見事に真っ二つになる。中からあふれ出た毒々しい色の液体が川へと流れ込む。
又造の腕は落ちてはいなかった。だがそれでも体は無様に揺れ、反動で又造は転びかけた。
あれからすでに五十年が経過している。
又造はもはや激しい動きができる体ではない。自分の命の火が尽きかけていることは又造にも分かっている。再戦のための準備に時間をかけすぎたのだ。だがそれは避けようのないことでもあった。
第三の関門つまり辰の王が纏う金剛鱗を突破するのにそれだけの時間が必要だったのだ。
あの後に又造は手元に残った数枚の金剛鱗を調べた。それは鋼よりも硬く丈夫だったのだ。この鱗に包まれた龍の首を切断できねば勝つことはできない。それは最大の難関として又造の前に立ちはだかることになった。
だがそれもようやく目途が立った。
これが最後の勝負よ。又造は遠い目をした。わが生涯を懸けての戦いとなってしまった。辰の王など忘れ去り、古縁流至弱の剣士として静かな人生を送ることも可能ではあった。流派を次に伝えることだけに専念すればよかったのだ。
だが又造にはそれができなかった。眠るたびに師父や兄弟子の顔が浮かぶのだ。そのまま忘れることなどできはしない。何よりも仇である龍の姿を思い浮かべるたびに、心の中に湧き上がる思いがある。
倒せないわけではない、と。
あらゆる毒草を煮詰めて作った液体が川に流れ込むと、川の下流の見渡す限りの範囲で死んだ魚たちが次々と浮かびあがる。又造は決闘の所以が書かれた木札を川に投げ込むと、その場を去った。
前と同じ場所で待つ。そして前と同じように一塊の黒雲が近づいて来た。
ただし今度の黒雲は恐ろしい速さだった。雲の中から激怒した閃火王が恐ろしい目で睨んでくる。
「ワシの大事な湖に毒を流したはうぬか」閃火王は怒鳴った。
「苦かったろう。あれだけの毒を煮詰めるのは大変だったぞ」又造が涼しい顔で答える。
「おのれ、ワシに何の恨みがある」
「それを儂に尋ねるのか」
又造は剣を振り上げて名乗りを上げた。
「古縁流第二十七代最後の伝承者。風内又造。古の縁により辰の王である閃火王に決闘を申し込む」
「無駄なことを。そうか、うぬは以前に儂を槍で刺した奴だな。もう相当な歳の癖に命を粗末にしに来たか」
「元より命など惜しんではおらぬ」
「ならば速やかに殺してくれよう」
龍を覆う黒雲がさらに膨らんだ。そこから雷光が閃く。無数の稲妻が大気を埋める。その悉くが又造の周囲に林立する鉄棒に落ちた。
世界を埋める稲光の林。それはまさにこの世の終わりの光景であった。
だが又造は赤く焼ける鉄棒の中で動揺すらせずに立っていた。
「忘れたか。閃火王。俺に雷は効かぬ」しわがれた声で又造は叫んだ。
「そうであったな」閃火王が歯噛みした。
「だがそちらもワシに手は出せまい。ワシはもうお前の槍の届くところには降りぬぞ」
「手は出るさ」
又造はひょこひょこと歩くと、手近の茂みへと手を伸ばした。その茂みの偽装がばさりと落ちる。それは巨大な鉄弓であった。鋼鉄を平らに打ち伸ばした矢がこれも鉄線でできた弦に番えられている。
「南蛮の宣教師より図面を手にいれたものだ。名を大弩と言う」
又造は体重をかけて大弩の向きを変えると、引き綱を引いた。短く激しい音と共に巨大な矢が大弩から撃ちだされた。それは宙を駆け上がると閃火王に迫った。
「うおっ!」
閃火王が叫ぶと、かろうじて大矢を避けた。
「やはり宙では素早く動けないのだな。それにあれより高くは浮き上がれない。思った通りだ」又造は呟いた。
次の大弩が隠してある藪によろよろと進む。もう息が切れている。本来なら又造は動けるような体ではないのだ。新しい大弩が現れるとそれに縋りつくようにして向きを変える。
「今度こそ終わりだ」
その言葉と共に、発射した。矢は閃火王のすぐ下を掠めた。
「どうした、どうした。いったいどこを狙っておる」閃火王が又造を嘲った。
最初の驚きが過ぎてみれば、大弩の矢は避けられぬものではないことに閃火王は気づいていた。
眼下では三番目の大弩に又造が取りつくところだった。そこに辿りつくまでに何度も転ぶ。又造の足元が覚束ないのは木の片足のせいではなく、年齢のせいで弱り切っているのだと閃火王にも分かった。
又造は大弩にすがりつくと、必死の力を振り絞り空を舞う龍に狙いをつけた。
「これが最後だ」そう呟くと、大矢を撃ち出した。
最後の望みをかけた大矢は今までのものよりも速かった。それは回転しながら龍の背を掠めると、空中でいきなり軌道を変えた。
急に体が引っ張られて閃火王は慌てた。
乗っていた雲から足が外れ、龍は墜落した。かろうじて地面との激突は免れたが、どういうわけか手足がうまく動かない。それを何とかしようとして必死で巨大な体をくねらせる。
「掛かったな。古縁流秘技忍び食み」又造が会心の笑みを見せる。
龍の全身に透明な糸が絡んでいた。先ほどの矢は見せかけ。その矢じりに結び付けた無数の糸と鉤つき錘が技の本体だ。矢を避けようと注視すればするほど、その後ろに続く糸は見えなくなる。使われているのは山蛾から作った恐ろしく丈夫で透明な糸を何本も束ねたものだ。これがもし人間ならば身動きすらできないところだろう。
戦国大太刀を杖替わりにして又造が龍に近づいた。
「今こそ皆の仇を取るぞ」
それを聞き、龍の体が怒りに膨らんだ。
「こんなものでこのワシを縛れると思うな!」
言うなり龍は体に力を込めた。その巨体の周りで切れないはずの糸が次々に弾け飛ぶ。信じがたいほどの膂力で龍が自由になった。
「八つ裂きにしてくれるわ」
閃火王が地響きを立てて迫って来た。弱点である腹を地面に擦り付けるようにして進む。その背は無敵の鱗で守られていて完璧な防御を形成している。
だが又造は逃げなかった。恐れ気もなく龍の進路に立ちはだかる。
「元よりそのような小細工で貴様を止められるなどとは思っておらぬよ」
閃火王の顎が開いた。そこに並んだ黄色い牙がこれから起こることへの期待にぬらぬらと輝く。
龍は真っすぐに又造へと迫った。
又造が足元の何かを引くと、空中に黒い大きな塊がいくつも飛んだ。隠しておいた大弩から一斉に打ち上げられたものだ。
その塊は空中で開くと大きな網となって閃火王の体を幾重にも覆っていく。
鋼鉄の線で編まれた網の周囲の無数の鉤が閃火王の体と言わず、地面と言わず引っ掛かる。閃火王が暴れれば暴れるほどますます網は絡み合い、龍の動きを封じていく。
「見たか、閃火王。これが儂の本当の仕掛けよ」
又造が大きく笑った。
「むう。何たる卑怯。うぬ、それでも剣士か」
「抜かせ。空を飛び、雷を落とす怪物がか弱い人間に正面から来いという、そのこと自体が卑怯と知れ」
真剣な表情で又造が言い返す。
「くく。何ということか。だが、まだワシは負けておらぬぞ」
龍は力を振り絞った。全身の筋肉が無敵の鱗の下で盛り上がる。
網と鉤を引きずったままその体が少しづつ前進する。さすがに鋼線は切れなかったが、巻き込まれた周囲の木立が酷い音を立てて次々に折れる。龍と鋼の網と周囲の地面に刺さった鋼のかぎ爪がまとめてずるずると動く。
大網の先が結び付けられていた大木が傾き、根ごと地面から引き抜かれ始める。
龍は巨体である上に凄まじい膂力だ。山をも動かすとはこのことを言う。
一歩進むごとに龍の頭が左右に振られながら、又造に迫る。
「閃火王よ。今の貴様は龍というよりは亀だの」
「ぬかせ。うぬとて走って逃げるだけの力はもうあるまい。すぐにうぬを引き裂いてやる」
「その前に、貴様の首が落ちるさ」
「若き頃のうぬでも斬れなかったワシの金剛鱗。果たして今のうぬに斬れるか」
龍はあざ笑った。もう少しで又造に牙が届く。
だが又造の表情は変わらなかった。
「もちろん、斬れはせぬ。儂は古縁流最弱の剣士よ。お前の金剛鱗は斬れぬ。
だからこそ、この準備に長い時間がかかった」
恐ろしい膂力で網を引きずりながらじりじりと近づいて来る龍を見つめながら、又造は大きく息を吸うと叫んだ。
「宗一郎。名乗りをあげい!」
その声に応えて、林の中より小柄な若い男が一人駆けだしてきた。
その男は駆けながらも叫ぶ。
「古縁流第二十八代免許皆伝。本間宗一郎参る!」
叫びながらも手にした抜き身の戦国大太刀を上段に構えた。剣の先端が天空を向いてふらりと揺れる。そのまま目にも止まらぬ斬撃を龍の首へと振り下ろした。
激しい衝撃と共に、閃火王は天地が逆さになるのを見た。その光景の中では、自分の切断された首の断面から熱い血が滝のように流れ落ちていた。閃火王の頭はそのまま地面に落ち、自分の血だまりの中に転がる。
閃火王にようやく理解が訪れた。ただの一撃で切断されたのだ。自分の首が。鋼よりも硬い金剛鱗などまるで存在しないかのように。
「古縁流終の斬撃。秘剣迷い星」宗一郎が技名を唱えた。
転がった龍の首の前に又造が立った。
「見たか。閃火王。これが儂の弟子じゃ。儂は歴代伝承者最弱であったが、こやつは歴代伝承者にして終の免許皆伝者」
そこで又造は大きく息を吸い込んで叫んだ。
「儂の弟子じゃ~!
この儂が育て上げた流派最強の弟子じゃ~!」
そこまで叫んでからヨロヨロと前に転び出ると、又造は閃火王の首に縋りついた。龍の頭は又造よりも大きい。
「貴様との我が生涯に渡る闘いはこれにて終わりだ」
「なんと、なんと、なんと」閃火王はそれ以上は言葉にできなかった。
又造は抜き放った大太刀を龍の目玉に突き刺した。自分の全体重をかけてそろそろと剣先を埋めていく。やがて確かに眼窩の奥を破った手ごたえと共に、龍の目から生気が失われた。
「師父さま。兄者たち。この又造、確かに仇は取りましたぞ」
それを最後に持たれかけていた大太刀から手を離し、又造は崩れ落ちた。
古縁流第二十八代伝承者本間宗一郎、龍の首と師匠又造の体を運び、兄弟子たちの眠る塚へと共に葬る。
至弱の生み出した至高の弟子は、振り返ることなく、さらなる戦いへと歩みを進めるのだった。
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